Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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4 間断なき前進――言論による精神闘争…  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

前後
1  人々の胸を強く打つ「言葉のつぶて」
 池田 情報化時代を迎え、マス・メディアを通じて、おびただしい言葉が飛び交っています。しかし、それらの言葉はあまりに軽く、ほとんどが脳細胞の上を“滑走”していくだけです。
 しかし、マルティは違います。彼の言葉は、つぶてのように人々の胸を打ち、心に刻み込まれます。
 まさしく、マルティの人権闘争は「言葉のつぶて」をもってする非暴力の言論戦を基調としており、第一義的に「精神の闘争」でした。
 マルティは、すでに十六歳にして新聞「自由祖国」を創刊し、言論戦の火蓋を切っています。スペインに追放された後も、すぐに『キューバの政治犯収容所』を出版し、スペイン植民地の非人道的行為を告発。その後もラテンアメリカ各地の新聞に寄稿するなど、「言葉のつぶて」を武器に闘っています。
 ヴィティエール たしかにマルティは、
 少年時代から、言論によって祖国のために闘う天分があることに気づいていました。それを実行するにあたり、三つの手段――「雄弁術」「ジャーナリズム」「書簡による伝達」――を見いだしていたのです。
2  「正義」の言論がもつ“衝迫性”
 池田 あらゆる方法で言論の力を駆使しようとしたのですね。
 たしかに、マルティは演説や対話の名手でもあったようです。それをめぐっては、たくさんのエピソードが語り伝えられていますが、私がとりわけ関心をもつのは、なぜ彼の言葉が、あのように人々の心をとらえたのか、という点です。
 前にも若干ふれた、「正義」についてのマルティの言葉を、補足して言及させていただきたいと思います。
 「全員が一緒に集まれば、人数が多い分、勝つ可能性があります。しかし、正義がわれわれに味方してくれなければ勝利は得られません。
 正義に無頓着な大衆より、たった一人の正義の人の存在が強いのです。
 真の勝利を得るには、まず精神の上で勝利することです。
 なぜならば、みずからの不正義を相手に認めさせること、それがすでに勝利だからです。内なる神なくして、何ごともなしとげることはできません」
 すばらしい洞察だと思います。
 彼の言論は、たんなる博識やテクニックを超えて、何よりも「正義」の言論であった。
 私は「正義によって立て、汝の力は二倍せん」という言葉が好きです。また、
 私の恩師は「信なき言論は煙の如し」と喝破しました。
 マルティの筆鋒、舌鋒は「正義」の言論であり、「信念」の言論であった。ゆえに彼の言葉は「つぶて」たりえたのではないでしょうか。
 ヴィティエール あなたは、少しの言葉でたくさんのことを、私に提起されております。そのなかからまず最初に、私がもっとも感銘を受けた事柄からお話しさせていただきましょう。
 それは“人々の心を動かしていた”マルティの言葉の“衝迫性”というものを、あなたがとらえられていることです。
 このことについては無数の根拠がありますが、ここで私が強調したいのは、あなたが感じとられた“衝迫性”――キューバ人の特徴であり、これについて私はささやかなエッセーをしたためたことがあります――がマルティから聴衆へ、しっかりと伝わっていたということです。
 なぜならそれは、彼自身が「内なる神」と呼んでいたもの――別の呼び方では「良心の神」ですが――ホセ・デ・ラ・ルスが人間の胸にある“道徳的世界を照らす太陽”と呼んだ正義感に憑かれていたからなのです。
 あなたが理解されたように、マルティの言論が正義の言論(「聖なる言論」と呼ぶのも根拠のないことではありません)であったと理解したならば、すべてははっきりしてきましょう。
3  言葉を自在に駆使する不世出の雄弁家
 池田 “衝迫性”というのは、いい言葉ですね。言葉の衝迫力の強さというものは、信念の強さに比例します。
 私が「つぶて」という言葉に託したいと思っていた内実も、まさにそのことです。
 ドイツの哲学者カール・ヤスパースは、釈尊を評して「言葉を自在に使う人」・(『佛陀と龍樹』峰島旭雄訳、理想社)と言っていますが、次のマルティの言葉にみられるように、彼は間違いなく、その衣鉢を継いでいる人です。
 「言葉は黄金のごとく高貴で、羽のように軽く、大理石のごとく堅固でなければならない」と。
 ヴィティエール 彼の雄弁術は、古典的伝統、とりわけキケロ風のものに、『旧約聖書』の預言者的インスピレーション(霊感)を結びつけたものです。そのすべてが、近代的表現という新しい血によって、装いを新たにされていました。
 その結果、熱烈であると同時にカテゴリカル(断言的)であり、詩的であると同時に倫理的な演説が生まれたのです。
 それらの演説は「不可避で」「必然的な」戦争などをはるかに超えた革命計画――「みんなと共にあり」「みんなの幸福のための」独立した主権国家という「道徳的な共和国」計画の土台となったのです。
 池田 言葉は、じつに不思議な力をもっています。
 キルギス出身の旧ソ連邦の作家アイトマートフ氏は、私との対談で「芸術家は、大デュマが言ったように、神が口述し、私が書く、といったような状態に自分を高めなければなりません。しかし……ここでもまた、神はだれにでも口述してくれるわけではありません」(『大いなる魂の詩』。本全集第15巻収録)と、優れた文学者の苦悩を告白しておられました。
 マルティは、あなたが「『旧約聖書』の預言者的インスピレーション」とおっしゃったように、「内なる神」の「口述」、うながしに、
 突き動かされていたにちがいない。
 ヴィティエール マルティの波瀾万丈の言論活動を大まかに振り返ってみれば、彼のジャーナリストとしての活動は、若いころに「不具の悪魔」や「自由祖国」などの新聞を拠点として始められました。
 そして、その後は三つの時期に分けられます。
 第一に、メキシコにおける時事解説者および顧問の時代。
 第二に、アメリカ合衆国での経験を踏まえた情勢分析家、芸術家、(キューバ独立のための)統合唱導者の時代。
 そして第三に、キューバ革命党を結成した一八九二年以降、党の機関紙「祖国」紙上での理論的指導者の時代です。
 同時に、マルティの書簡は、抗しがたい、いやます“使徒”としての情熱とともに、キューバの愛国者全員の統一をうながしました。
 したがって、統一戦線から(微温的な)独立主義者や、(スペイン統治下でも“自治”は可能であるとする)自治論者をも排除したりはしなかった。
 マルティは彼らを、“夢のような「変革」を待ち望みながらスペイン植民地主義に束縛され続けるという過ちを、認識することが可能である人々”と見なしていました。
 一方、近年の(アメリカとの)併合主義者や資本主義者代理人のような類の者を、愛国者とは決して見なしていなかったのです。
4  「野蛮的共棲」から「文化的共存」への転換
 池田 マルティの言論が、それだけ幅広い人々を引き寄せる引力、磁力をもっていたということですね。
 ところで、現代は、マルティが色濃く体現していたような「内なる神」、すなわち「正義」と「信念」が、まことにみすぼらしく色あせてしまった時代と言えないでしょうか。
 世紀末の世相をおおっているのは、「正義」や「信念」とは裏腹の「すさみきった拝金主義と冷笑主義(シニシズム)」の風潮のようです。そうしたなかでは、言葉は「つぶて」としての威力など、発揮しえようもないでしょう。
 オルテガ・イ・ガセットは、今から半世紀以上も前、言葉の通じない「知的自己閉塞状況」に警鐘を乱打しております。
 「『討論の息の根を止めよ』というのがヨーロッパの『新』事態となってきたのであり、そこでは、普通の会話から学問を経て議会にいたるまで、客観的な規範を尊敬するということを前提としているいっさいの共存形式が嫌悪されるのである。これはとりもなおさず、文化的共存、つまり、規範のもとの共存の拒否であり、野蛮的共棲への逆行に他ならない」(『大衆の反逆』神吉敬三訳、角川文庫)と。
 ヴィティエール マルティがそうしたように、このような輩(近年の併合主義者や資本主義者代理人の類)を、やむをえず党から(彼が代表者である新聞からも)排除していくことは、さらにもう一ランク上の知的対話というテーマに私たちを導いてくれます。
 おっしゃるとおり、その知的対話の軽視を、オルテガはたいそう、気にかけていました。
 オルテガのあの名言を、私たちは全員、有益な忠告として受けとめています。すなわち「私は、私と私の環境である」(『ドン・キホーテに関する思索』A・マタイス、佐々木孝訳、現代思潮社)、あるいは「生きるとは共存することである」などの名言は、彼のエッセイストとしての才能のたいへん魅力的な所産です。
 池田 「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない」とのオルテガ哲学の精髄ともいうべきテーゼ(命題)が、仏教の自然観、宇宙観といかに多くの共通点をもつかについて、私は、ある提言(一九九七年一月。第22回SGIの日記念提言「『地球文明』への新たなる地平」)で詳細に論及しました。
 オルテガの言う「野蛮的共棲」が杞憂に終わらなかったことは、二十世紀の「文明」社会が、人類史上かつてなかった殺しあい、大量殺人の世紀であったことからも明らかです。
 われわれがマルティに学ばねばならない最大のものは、ひからびた言葉に息を吹きこみ、「正義」の言論、「信念」の言論を復活させ、もって「野蛮的共棲」を「文化的共存」へと転換させていくことではないでしょうか。
 ヴィティエール ええ。マルティは、キューバ島でキューバ人とスペイン人の間に、まさしく「野蛮的共棲」を強要していた支配制度と闘う闘士として、目前の屈強な敵を分断する戦略を取らねばなりませんでした。そうして未来の敵を未然に防いだのです。
 彼は、決して個人的中傷や狂信的な突出行為をとりませんでした。
 マルティの主張は必ず論拠があり、人々に対する尊敬の念に満ちていましたが、それは「冷静な理性をもちながら、同時に自由に対して情熱の火を燃やす」という、彼の革命に関するあらゆる理念と方法を支える心棒によって制御されていたからです。まさしく「熟慮の革命」を行いたかったのです。
 マルティが併合主義者たちを“ゴミ”と呼んだ、とだれかが言ったとき、マルティは詩の中でこう答えています。
 「罵詈雑言でだれが説得できるのか?
 ののしりでだれが種を播けるのか?
 愛が勝利するのだ。
 ことばは公正なときのみ勝利する」
 池田 マルティの毎日は、やむにやまれぬ使命感に突き動かされるような、「努力、また努力」の「間断なき前進」の日々であったといえましょう。
 その姿勢は、学問に対する態度にも明確に表れています。国外追放となって到着したスペインでは、大学に入学し、哲学、文学、法学をむさぼるように学んでいます。
 ヴィティエール “努力の人”と見なされているマルティの払った努力が、いかに大きなものであったかを確認したければ、彼のエネルギッシュな経歴の概略を思い浮かべるだけで十分でしょう。
 その休むことなき努力は、ドス・リオスで勇壮にも休息(死)を勝ち取るまで、やむことはありませんでした。
 池田 本当に、そのとおりですね。マルティは、まるで何かに憑かれたように、四十年あまりの生涯を、疾風のように駆け抜けています。
 「倦怠より死を」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)という言葉を彷彿させるその生きざまは、生まれながらの“使命の人”さながらの宿命(マルティの言う“義務”に酷似しています)の糸さえ感じさせます。
 ヴィティエール 努力という点では、彼にとって身近なモデルは、過酷さが増す環境のなかで生きのびていくため、日々の努力を立派に重ね続けた両親でした。
 マルティは思春期には、わずかな給金で一日中、食料品店の店員として働かねばなりませんでした。
 その後、学校に住み込みながら学びますが、父親と意見が相いれず苦労していたこの時代に、メンディーベ先生に宛てて書いた手紙の中に、熱心に学校を清掃し管理している様子がうかがえます。
 収容所では酷熱の太陽のもと、石灰石の石切り場で、腰から足首に巻かれた鎖をつけて毎日、強制労働に処せられました。減刑されて解放されたときには視力を失いかけるほどの損傷を受けており、何度も手術を受けましたが、生涯完治することはありませんでした。
 マルティは、このような状態でスペインに渡航しなければならず、たまたま同じ船に乗り合わせていた収容所の所長に対して、激しく面詰しています。
5  苦難さえ“薪”に変えた若き日の志の炎
 池田 当時十七歳の青年は、その後の波瀾万丈の生涯を予感していたのでしょうか。
 愛する祖国をどう救おうかという青雲の志だけは、ふつふつとたぎっていたにちがいありません。
 卓越した人物であればあるほど、若き日の胸中に点ぜられた志の炎は決して消えることはないからです。それどころか、その志の炎は、立ちふさがろうとするあらゆる試練や苦難を、むしろ“薪”にして燃えさかり、その勢いを増していくにちがいないからです。
 そうした思いをこめて、かつて私は、同じ世代の高校生に対し「未来に羽ばたく使命を自覚するとき、才能の芽は、急速に伸びることができる」との指針を贈ったことがあります。
 ヴィティエール 青年へのお気持ちは、よくわかります。
 マルティの血肉化した信条は、苦悩を喜んで受け入れ、苦難の人生を、弱気にならず、無条件で受け入れることによってのみ、その苦しみから逃れることができる、というものでした。
 彼にとって、苦悩とは人生に救いをもたらしてくれるものであり、さらに永遠の救済へと導いてくれるものでした。それは、たとえて言えば、人生は燃料であり、苦悩は、その人生の様相を変えゆく火を意味していました。
 スペインでの貧しく病気がちな追放生活のなかで、親友フェルミン・バルデスの経済援助のおかげもあって、マルティの努力はサラゴーサ大学における二学位獲得という実を結んでいます。
 池田 サラゴーサでの一年半は、マルティとフェルミンにとって、周囲の人々の好意に包まれた、本当に充実した時期であったようです。そして「マルティは、いつ眠るのか」と友人たちに噂されるほどの猛勉強だったそうですね。
 私はこの話を聞いたとき、信仰の先達の言葉を思い出しました。いわく「休むのなら墓場に行ってから休め」と。
6  休むことを知らない“ペンの戦士”
 ヴィティエール 至言です。
 一八七四年も押し迫った十二月の末、二十一歳のマルティは、家族と一緒に住み、支えるために、軍事クーデターで共和制が覆り王制が復古したスペインを後にして、サラゴーサからメキシコへ渡りました。
 メキシコでは、友人の勧めで「ウニベルサル」誌で働くことになります。そこでマルティはたちまち頭角を現し、論説から戯曲やコラムにいたるまで、「ウニベルサル」誌のいくつかの号は一人で執筆したと言われています。このジャーナリストとしての仕事も、レルド・デ・テハーダの自由主義政権がポルフィリオ・ディアス将軍により転覆させられたことにより、継続することが困難となって、あきらめざるをえなくなりました。
 同様にグアテマラでは、ルフィノ・バリオスの職権乱用により教授職を辞めざるをえなくなるのですが、そのあと移り住んだベネズエラでは、グスマン・ブランコ大統領の卑劣な干渉に堂々と対抗して、人々から敬愛を受けることとなります。
 池田 まさに“ペンの戦士”さながらの東奔西走の日々であったといえます。なにしろ、マルティは「書きすぎて手がふくれた」ほど働いたと伝えられます。南北両アメリカの二十におよぶ新聞・雑誌に、精力的に記事を書き続けました。
 彼は言います。「人は酒に酔うが、ぼくは過剰な仕事に酔う」(前掲『椰子より高く正義をかかげよ』)と。
 また夫人への手紙には、こうつづられています。
 「頭を休められると思っていた枕を永久に失って、ぼくの心は痛んでいる。それに加えて、帰ることのできない国を熱烈に愛する無限の痛みがある」(同前)
 努力、また努力――やはり、一流の人物に共通しているのは、そうした「間断なき前進」「間断なき闘い」に貫かれた姿勢のようです。
 私は、香港在住の文豪・金庸氏とも対談集『旭日の世紀を求めて』(潮出版社)を発刊しましたが、その中で、共通の青春時代の愛読書『プルターク英雄伝』について語りあいました。
 ヴィティエール 『プルターク英雄伝』については、マルティも「黄金時代」の編集後記の中で、「打ちひしがれている人はプルタルコスの『英雄伝』を読むと良いでしょう。これはあの昔の人たちのようになりたいという願望を起こさせてくれます。あるいは昔の人たち以上の人物になりたいという願望です」(柳原孝敦・花方寿行訳、『選集』1所収)と述べています。
 池田 そうですか!
 金庸氏はデモステネスのこんなエピソードに言及していました。
 ――ギリシャの雄弁家デモステネスは、言葉がはっきりせず、とくに「R」の発音がうまくできなかった。そこで彼は、口の中に小石を入れて、演説の練習をした。また、声が小さいという弱点は、平地を走ったり急な坂を登ったりして、あえて息も絶え絶えになって演説や詩の吟唱をすることで克服した。さらに、大きな姿見を置いて、演説の身振り手振りの練習をし、まさに「間断なき努力」で、偉大な雄弁家へと自分を鍛え上げていった――と。
 それに対し、私も、アテネ(アテナイ)の民主主義の“父”ともいうべきペリクレスを取り上げ、彼の民衆への洞察、民主主義のもとでの卓越したリーダーシップなどについて語りあったことを、懐かしく思い出します。
 ヴィティエール マルティも、優れた民衆観の持ち主でした。それは次のような言葉からもうかがい知れます。
 「民衆にとって、押すことと同じように抑制することも必要である。(中略)蒸気機関車でも、動かすための釜があっても、タイミングよく停止するためのブレーキがなければ、いったいどうなるのか?民衆に関して、一方にブレーキ、そしてもう一方に釜を持つことが欠かせないのと同様である」と。民衆を口にしても、ともすれば民衆の心を見失い、独りよがりにおちいってしまうリーダーが多いなか、マルティは、民衆の心を熟知しています。それも彼が、いかに民衆を愛していたかによるのです。
 池田 民衆は賢にして愚、愚にして賢といいます。そこをきちんと見すえておかないと、民主主義は衆愚政治に堕してしまいます。
7  民衆に根ざさずして何事も創造できない
 ヴィティエール その民衆への愛情ゆえに、アメリカ合衆国の民主主義に関する彼の第一印象は好意的でしたが、大国主義的性格を知るにつれ、その印象は変化していきました。
 加えて、がさつな習慣、社会的不正義、経済や政治支配拡張の趨勢の進行が、合衆国亡命中のマルティの精神状況を悪化させました。
 彼はジャーナリストとしての膨大な仕事に加えて、事務や翻訳や夜間学校の教師など地味な職をこなして、ようやく二つの家族(妻子と両親)を養っていました。
 父ドン・マリアノが彼の娘婿に宛てた手紙には、一八八三年には月額百五十ペソの収入しかなく、牛乳と煮込み、それといくらかの“パンのスープ”しか食べていないことが書かれています。
 ブエノスアイレスの「ラ・ナシオン」などの一流新聞への寄稿がふえたことによって、いくらかの増収はあったでしょうが、マルティは最後まで真のペンによるプロレタリアート(労働者階級)だったのです。
 アルゼンチンやウルグアイ、パラグアイの領事職についていたときも同様でした。これらの公職はキューバ革命党の創設直前に辞職することとなりますが。
 池田 『ホセ・マルティ全集』第一巻の序文で、フアン・マリネロ(ハバナ大学元総長、憲法起草者の一人)は「マルティは、民衆の命に従うということは、結局、あらゆる優れたものの母となる休みなき新しさの鍵であると信じていた」と述べています。
 「真のペンによるプロレタリアート」であるマルティの飽くことを知らぬ情熱を支えていたものは、先に言及したように、民衆へのあふれんばかりの愛情、そして、民衆に根ざさずして何事も創造することはできないという、固い信念だったのでしょう。
 ヴィティエール そのとおりです。
 革命党の資金のやりくりに、最後のセンタボにいたるまで細心の注意を払っていました。そしてつねに慎ましく黒色をまとい、奔走のあまり擦りきれた靴を履き、たった一人で、ただ優しく鋭い目で、ジャマイカの低木林の中から私たちを見つめているのです。
 マルティは何度か、革命の必要性を説いてカリブの島々を旅しましたが、そのような旅のなかで撮られた彼の肖像写真は“地球の貧しい者たち”の不屈の使徒の像そのものだと思うのです。
 池田 大乗仏教で説く「菩薩」の姿さながらです。
 ちなみに、私の知友のなかで、数年前に亡くなったライナス・ポーリング博士が、この「菩薩」という言葉に並々ならぬ関心を示しておられました。
 博士もまた、九十歳を過ぎても旺盛な研究心が少しも衰えない「努力、また努力」の方でした。
 私どもの宗祖も「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と仰せです。
 限られた一生を悔いなく、激しく生きぬこうとすれば、そのような緊張感に満ちた闘いの日々は、もはや宿命づけられているのかもしれません。また、そうであってこそ、偉大な事業も成ると思うのです。
8  眼に「鉄の意志」、ポケットに足枷
 池田 前にも申し上げたように、私は「ホセ・マルティ記念館」で、彼の一枚の肖像写真の前から離れることができませんでした。私は、マルティの眼に「鉄の意志」を見たのです。同行してくださったハルト文化大臣に語りました。
 「知性と信念に輝いています。その心は獅子のごとく、その芯の強さは鉄鋼のごとくである。さらに正義と善の結晶の眼をしている。この眼光は、千年先を見通しています」と。
 ヴィティエール 「ホセ・マルティ記念館」であなたの足を釘付けにした肖像写真は、おそらく先ほどあなたにお話し申し上げた写真と同一のものかと思われます。いずれにしても、マルティの眼が放つ精神性に関するあなたの解釈に、私はあらためて同感します。
 肖像画に関しては、マルティネス・エストラダが徹底的で、はっとするような分析を行って次のように書いています――「その顔から伝わってくるものは、伝記というよりも一つの運命である」。
 また――「抑えきれないエネルギー、頑強な意志、不動の決意を身体に備えた、とてつもない男、だが変身し、愛情と献身の心の持ち主となったのだ」――とも書いています。
 池田 厳しさと優しさを兼ね備えた眼、自己に厳しきこと“秋霜”のごとき人のみが備えている“春風”のような優しい眼――私は、中国の(マルティがそうであったように)まことのペンの戦士・魯迅の風貌と二重写しになってくる、との感を否めません。両者とも、徹した民衆の友であり、類まれな戦人でした。
 ところで、次のエピソードは、そのマルティの意志の強さを端的に伝えるものでありましょう。
 あるキューバの青年が尊敬の心をこめて、マルティにネクタイとネクタイピンをプレゼントした。マルティは感謝し、次の伝言を託しました。
 「自分は、奴隷状態にあるキューバに喪の心を抱いているため、黒のネクタイ以外は一度もつけたことがない。しかし、あなたの気持ちを大事にして、一度だけ、いただいたネクタイをつけます。その後は、それを大事にし、物持ちのよいキューバ人にあげたいと思う」と。
 また彼は部屋にいるとき、ズボンのポケットに、監獄時代の足枷を入れていたとうかがっています。
 ポケットに手を入れては、足の肉を痛めつける鉄の感じを味わっていた、と。夜には、弾圧され拷問されたキューバ人の痛みを忘れないために、足枷を枕の下に置くのが常だったとも。
 ヴィティエール そのとおりです。キューバ人であれば、だれもが忘れることのできない、政治犯収容所にまつわるエピソードです。
 池田 凄まじいばかりの意志と執念です。それを支えていたのは、悲惨な状況に置かれているキューバの民衆への限りなき憐憫であり、自分や民衆を苦しめる権力の横暴への限りなき闘志であったのでしょう。
 私は敬服しました。それくらいの大感情の人でなければ、革命という大事業など成しえようはずがありません。
9  奉仕のため、解放のための意志
 ヴィティエール あなたは、マルティの意志――ほかでもなく彼自身に対しても「頑強」でした――と、キューバの民衆に対する憐憫との密接な結びつきについてもふれておいでです。
 マルティの意志は、自分自身のなかで消尽してしまうような(ちっぽけな)ものではなく、奉仕のための、解放のための、民衆全体を救わんがための意志だったのです。その意志はさらに、感情としての愛のみならず、認識としての愛という高貴さを備えていなければなりませんでした。
 彼のメモを書きつけたノートの一つに、これに関する忘れがたい言及があります。
 「愛とともに理解できる。愛によって理解できる。愛とは理解できるところのものの謂である。愛を欠いた精神は理解することができない」と。
 池田 「愛を欠いた精神は理解することができない」――いかにもマルティらしい、すばらしい言葉ですね。
 たしか、イギリスの経済学者アルフレッド・マーシャルだったと思いますが、学問を志すにあたっての警句――「冷静な頭脳と温かい心を忘れるな」――を思い出しました。
 革命詩人マルティの直観は、「愛」の側面が決定的にないがしろにされてきた近代文明の「知」や「学問」のあり方に鋭い警鐘を鳴らしていると、私は思います。
 その歪みが、核兵器に象徴される無差別大量破壊兵器や、今や臨界点に達しようとしている環境破壊などに集約されていることは、申し上げるまでもありません。
10  「女性的なるもの」の偉大な力用
 ヴィティエール なるほど。おっしゃることは理解できます。
 これらの文章を書きつけてあるメモは、次のように断言しながら締めくくられています。
 「エヴァが胸に蘇るなら、だれもが心華やぎ、何かを語りかけたくなるだろう」
 エヴァとは、特定の女性の存在のみを問題としているのではなく、人類を完璧なものとする普遍的な女性の魂のなかの愛を擬人化しています。
 このように考えが明確化されると、意志は利己主義的側面をなくし、万人を救出しようとする、愛他主義者の、情愛に満ちた意志となるのです。しかしながら、そのために意志の強固さや執念が弱くなることはありません。そのことは、革命をなしとげようとする行為を阻む果てしない困難を前に、マルティが証を立てているところです。
 池田 普遍的な女性の愛――「女性的なるもの」の偉大な力用は、いくら強調してもしすぎることはありませんね。ゲーテは大著『ファウスト』を、こう結んでいます。
  「すべての移ろいやすきものは
   およそ比喩なるにほかならず。
   足らずしておわるものも、
   ここでは実現となりつくす。
   表現の及ばざるものも、
   ここについに成しとげられたり。
   永遠の女性的なるものこそ
   われらを高みのかなたへひいていく」
  (山下肇訳、『ゲーテ全集』3所収、潮出版社)
 近代的自我の崩壊は、ファウストのように、あらゆるものを知り尽くし征服し尽くそうとする、倨傲なまでに不屈な男性的自我の挫折であり、崩壊でもありました。
 その象徴的人物であるファウストが、失明し、死に追い込まれ、ついには永遠の「女性的なるもの」によって救済されるというモチーフは、まさに、百数十年の時の隔てを超えて、この精神界の巨人が放つ世紀末の現代への警鐘であり、遺言の感があります。
 マルティとゲーテ、両巨人の波長は見事に一致していると思います。私が「二十一世紀を女性の世紀に」と呼びかけてやまないのも、同じ心情からなのです。
11  人民への奉仕――サン・マルティンと周恩来
 ヴィティエール マルティは、ゲーテについては、いつも大いなる称賛の念をこめて語っていました。
 「カルデロンは、人間の創造の世界では、非常に高い峰である。彼と並んで天空に聳えたっているのは、壮大なシェークスピア、そしてアイスキュロス、シラーと偉大なゲーテである。そして、その高みを極めた人間は他にだれもいない」と述べています。
 池田 なるほど、よくわかりました。
 ヴィティエール また、マルティは著名なイスパノアメリカ人であるサン・マルティン将軍に言及しながら、感嘆の声を上げています。
 「(新世紀に向かって)意欲的な人々と、(過去)幾世紀にもわたって積み重ねられた事業とが、交錯しゆくさまは、瞠目すべきことだ!」
 池田 意志や意欲などの「男性的なもの」も、決して全否定されているわけではないということですね。十分、首肯できます。
 また、この南米の解放者サン・マルティン将軍について、マルティはこうも語っていますね。
 「彼(=サン・マルティン)は首領としての偉大さが(中略)首領たちが人民の要望に応じて奉仕する、その度合のなかにあることをみずから知った」(『キューバ革命思想の基礎』神代修訳、高橋勝之監修、理論社)と。
 人民への奉仕といえば、私が感嘆するのは中国の故・周恩来首相(国務院総理)です。直属の部下だった人に直接うかがった話ですが、周総理は、あの広大な中国の二千以上もある県の一つ一つの事情、かかえている諸問題について通暁していること、驚くばかりであったそうです。
 否、「周総理の頭脳には、地球が全部入っていたのではないかと思う」とその人は語っていました。
 「知らない」「記憶がない」ということは「責任」をもたないということであり、ひいては「無慈悲」につながっていきます。
 大事を成すには、それくらいの重荷を背負う覚悟がなければならず、その点はマルティも共通していたのではないでしょうか。
 それには「意志」の人、「執念」の人でなければならないと思うのです。
12  「内外の鎖」断ち切る「人間性の解放者」
 ヴィティエール 私は周恩来首相のことはよく知らないのですが、あなたが今、彼の人格についてお話しされたことに大いに興味をもちました。
 ところで、マルティの場合もサン・マルティン将軍と似たような状況がありました。
 『素朴な詩』の作品ⅩⅩⅩ(三〇)の中で語られていることですが、まだ子どもだったころ、絞首刑に処された一人の黒人奴隷の死体を前にして「命をかけて仇を討つと/死者の足もとで誓った!」(井尻直志訳、『選集』1所収)。なぜなら「人間の奴隷状態」は、彼にとって「この世で最大の苦痛」だったからです。
 池田 なるほど。話があちこち飛んで恐縮ですが、若き日の「苦痛」が、生涯の思想と行動を決定づけたという点は、マハトマ・ガンジーと共通します。
 ガンジーの場合は、弁護士の仕事のために訪れたイギリス領南アフリカ(当時)で、インド人ゆえに受けた人種差別の衝撃でした。
 法廷では、インドの正装であるターバンをはずすように裁判官から強要された。列車では、一等車に乗っていたことをとがめられ、三等車に移ることを拒否した彼は、列車から放り出されてしまいます。
 こうした差別と屈辱の体験が、「内気で競争心の乏しい青年弁護士が、南アフリカ到着後一週間で怒れる指導者へと変貌を遂げた」(G・ゴールド『ガンディ非暴力の道』鮫島理子訳、平凡社)きっかけとなったわけです。
 ヴィティエール 人間が人間を差別し、弾圧する――そうした悲惨な事態は、今日の私たちの時代にいたるまで多くの形で残存しています。
 カール・マルクスよりずっと以前に、聖パウロはこの世を“罪で構成されたコスモス”と見抜いていましたが、まさにそれそのものです。
 数世紀かけて造り上げられた不正義の構造は、今日、明らかに地球的規模の課題という性格をおびてきています。
 池田 「人種間のにくしみはない。人種というものがないからだ(中略)人種間ににくしみと不和を助長し広める者は、人類にたいする罪を犯している」(前掲『キューバ革命思想の基礎』)を信条とするマルティにとって、そうした悲惨な事態が続いているということ自体、許しがたいことであったにちがいありません。
 アメリカのカーター元大統領の特別補佐官であったブレジンスキー氏の試算によると、今世紀、戦争などによって人間が人為的に殺された数は、約一億六千七百万人というのですから、途方もない数字です。「不正義の構造」そのものです。
 ヴィティエール まったく同感です。そのような状況に対して、「人間性の解放者」の役割を負う者たち、内外の鎖から解き放たれた者たちは、立ち上がってきました。そのような人々のなかに、マルティが学びたいと考えていたブッダ(釈尊)は位置しているのでしょう。
 池田 まさに、そのとおりです。
 釈尊は「あたかも母親がそのひとり子を、おのが命を賭してまもるがごとく、生きとし生けるものの上に、かぎりなき慈しみの思いをそそげ」と説いています。いっさいの弱き者、悩める者への「同苦」の心こそ、釈尊の精神闘争の原動力でありました。
 また、日蓮大聖人は「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし」と述べています。全民衆の苦悩を一身に引き受け、打開しゆく「人間性の解放者」としての立場を高らかに宣言しているのです。
 しかも、あなたが「内外の鎖」と言われたとおり、こうした“解放者”たちの行動が、たんなる人間の「内側」(心)の変革にとどまらず、やがて「外側」(社会)の変革へと大胆に進んでいくことは必然でありましょう。この点においても、マルティが釈尊と深く響きあう「正義の使徒」であったことを、私は実感してやみません。

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