Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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第7章 苦労は必ず喜びに
「21世紀への母と子を語る」(池田大作全集第62巻)
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1
対話者
大塚富士子
おおつか ふじこ
富山県生まれ。県立高岡工芸高等学校卒。創価学会北陸婦人部長。一女・一男の母。
小野洋子
おの ようこ
中国・徐州生まれ。香川県立高松商業高等学校卒。創価学会四国婦人部長。二女の母。
2
投獄の前年、生家を訪れた戸田先生
小野
私と、北陸の大塚婦人部長で、子育ての心や教育の心についていろいろうかがっていきたいと思います。
よろしくお願いします。
池田
こちらこそ、よろしく。
今年(二〇〇〇年)の二月十一日は、戸田先生の生誕一〇〇周年です。
毎年、戸田先生のお誕生日を迎えるたびに、わが家ではお赤飯を炊いてお祝いをしますが、今年はまことに意義深い、特別な年です。
戸田先生が生まれたのは、石川県の江沼郡塩屋村。現在の加賀市ですね。
大塚
はい。戸田先生が二歳の時、ご一家で北海道の厚田村に移り住むまで、住んでおられました。
わが北陸の地で、戸田先生が誕生されたことは、私たちにとって、本当に大きな誇りとなっています。
昨年、生誕一〇〇周年をお祝いする「創価学会特別記念展」が、生地の加賀市をはじめ、金沢市、富山市で開催されました。戸田先生のご生涯や、学会の歴史、SGIの平和運動などを紹介する展示会です。
会場には、戸田先生の胸像が置かれていたのですが、いつもたくさんの人に囲まれていました。
皆さん、本当に戸田先生を敬愛しているのです。
小野
とても心温まる光景ですね。
池田
戸田先生は、生前に一度、ご自身が生まれた家を訪れたようです。
その場所に住んでおられた婦人の話ですが、ある寒い日、コートの襟を立てた長身の男性が訪ねてきて、「私は、この家で生まれたと聞いている」と語った。玄関の柱を懐かしそうに撫で、眼鏡の奥には光るものがあったそうです。
そして、「この家を大事にしてください。いつまでも、お元気でね」と言い残し、立ち去っていった。この男性が戸田先生だったのです。
昭和十七年(一九四二年)、戸田先生が牧口先生とともに、軍国主義の権力と戦って、投獄される前年の、晩秋のことです。
小野
戸田先生は、生命をかけた権力との戦いを前に、自分の生まれた「原点」を確かめようとされたのでしょうか。
池田
そうかもしれない。いずれにせよ、戸田先生の北陸に対する思いには、深いものがありました。
小野
昨年(一九九九年)十二月には、北海道の厚田村から、戸田先生に「栄誉村民」の称号が贈られました。
厚田村「栄誉村民」の第一号は、池田先生ですので、師弟一体の受章に、私たちも、大変、感激しました。
池田
私のことはともかく、戸田先生を“郷土の英雄”として顕彰してくださったことは、本当にうれしいことです。
日本だけでなく、ブラジルをはじめ海外からも、戸田先生の偉業を讃える声が相次いでいます。師匠を全世界に宣揚したいとの思いで、戦ってきた私にとって、これほどの喜びはありません。
大塚
北陸の地元紙である「北國新聞」が昨年(一九九九年)、郷土が生んだ各界の著名人を紹介する「ほくりく二十世紀列伝」という企画を連載しました。
戸田先生の誕生日の直前に、三回にわたって、そのご生涯を紹介していました。
3
庶民は賢明、庶民の心はだませない
池田
その記事は、私も拝見しました。
こう書かれていたのが印象に残っています。
「戸田は現実の生活に追われる大衆を何よりも大切にした」
「神秘的カリスマに頼る教祖ではなく、卓越した説得力を持つ在家の指導者であった」と。
まさにそのとおりです。
戸田先生は、庶民の中に飛び込み、庶民の悩みに寄り添い、庶民の幸福のために、戦い抜かれた。自分の命を削って、民衆の幸福のために行動する、慈愛深い「人間指導者」であられた。
「北國新聞」には、「日本史上に残る大布教は、戸田の波乱の生涯と人間的魅力を抜きに語れないであろう」とも書かれていた。
戸田先生は常々、語っていました。
「私は、なぜ会長になったのか。それは、私は妻も亡くしました。愛する娘も亡くしました。そして、人生の苦労を、とことん、なめつくしました。だから会長になったのです」と。
これが学会の心であり、学会のリーダーの根本精神です。
「ほかのだれよりも、戸田先生は、自分たちの苦しみを理解してくれる。そして、自分たちの幸福のために行動してくれている」――こう人々が心底、感じたからこそ、戸田先生を信じ、ともに立ち上がったのです。
庶民は賢明です。庶民の心は、だませません。
大塚
それは、子育ても同じですね。
子どもの純粋な心は、大人の要領やウソを、すぐに見抜いてしまいます。
4
だれよりも真剣に、誠実に
池田
そのとおりです。口先や小手先ではなく、全生命でぶつかっていくことです。
かつて、ある海外のジャーナリストから「学会の大発展の理由」を質問されたことがあります。
さまざまな答え方ができるでしょうが、その時、私は答えました。
「それは『一生懸命』だったからです」と。
だれよりも真剣に、だれよりも誠実にやってきたからこそ、今日の人材の城を築くことができたのです。
誠実を尽くし、わが身を惜しまぬ労苦があってこそ、立派な人材を育てていくことができるのです。
小野
今の時代は、苦労を避けよう、避けようという傾向が強いですね。苦労とか忍耐というと、なんだか古くさいと思われます。
子育ては煩わしく、苦労がたえないので面倒だ、と考えている人もふえているようです。
しかし、自分の経験からも、順調な時より、大変な時のほうが、生命が充実していることが分かります。
幼い頃、私の家は豊かで、とても恵まれた環境でしたが、その後が大変でした。でも、母の病気や、家の借金などの苦難を乗り越えるたびに、多くの大切なことを学び、人間的に成長できたと思います。
池田
小野さんは、生まれも四国ですか。
小野
いえ、中国の徐州で生まれました。戦後、高松に引き揚げてきました。
池田
徐州といえば『三国志』の諸葛孔明の故郷だね。
小野
はい。ただ、中国にいた頃のことは、とても小さかったので、ほとんど記憶にありません。
日本に帰った父は建設会社を手がけ、戦後の建築ラッシュで財をなしました。
それからわが家は、あまり大きな苦労もない平穏な日々を送っていたのですが、私が中学一年の時、母が虫垂炎から腹膜炎を起こし、重体に陥ってしまいました。
母の病状を知り、心配した近所の学会員の方が、「洋子ちゃん、この信心をしたら、お母さんはきっと元気になるよ」と仏法の話をしてくださったのです。
何とか母を助けたいと思っていた私は、家族で最初に入会しました。
大塚
すごいですね。お父さんは何か言いませんでしたか。
小野
「どうせするなら、一生懸命やりなさい。ウサギのフンになってはいけないよ」(笑い)と言ってくれました。
大塚
“ウサギのフン”とは、ユーモアのあるお父さんですね。プツンと途切れてはいけない(笑い)、しっかり続けていきなさいという励ましなんですね。
小野
そのうち母も、私といっしょに勤行と唱題をするようになり、どんどん元気になっていったんです。三カ月後には、すっかり健康になり、社会復帰できました。
じっと見ていた父は、この信仰は本物だと感じ、晴れて入会しました。それからは、一家和楽の信心で、家族全員が使命の道を歩み始めたのです。
ところが私が二十三歳の時に、思いもかけない出来事が起きました。父が裏書きした(保証した)手形が不渡りとなり、大きな借財をかかえる羽目になったのです。
わが家は地域の拠点でしたし、両親も学会の幹部になっていましたので、「信心しているのに、なぜ……」という声もありました。
自分たちのことよりも、同志の皆さんにご心配やご迷惑をおかけすることが、とてもつらかったことを覚えています。
5
大変な時こそ明るい笑顔で
池田
たとえ信心していても、人生の途上には、さまざまな問題が起きてくる。家庭のこと、仕事のこと、子どものこと、思いがけない形で、宿命の嵐はやってきます。
しかし、苦難を一つひとつ乗り越えていくところに、自身の人間革命があり、一家一族の宿命転換がある。実は、そういう時こそ、さらに大きな幸福へと飛躍する“チャンス”なのです。
長い人生だもの、勝つこともあれば、負けることもあるでしょう。一時的に負けたからと言って、それを恥ずかしがる必要はない。大事なのは、最後に勝つことです。どんなに大変なときも、「戦う心」を失わないことです。
小野
私が、ぎりぎりのところで踏みとどまれたのは、池田先生に激励していただいた“一言”を思い出したからでした。
父の問題が起こる三年前、上京した私は、学会本部で女子部のリーダーの任命を受けました。その時、池田先生は「朗らかにやりなさい!」と励ましてくださったのです。
経済苦のあまり「もうだめだ」という心が起きてきた時、「朗らかに!」との先生の声が蘇りました。
「そうだ! 今こそ、先生が言われたとおり、朗らかに進んでいくんだ!」と決意も新たに、家族とともに立ち上がりました。
池田
逆境の時に、朗らかさを失わない人が、本当に強い人です。
かつて、インドのガンジー記念館を訪問した折、壁に、ガンジーが微笑んでいる大きな写真が飾られていました。
前歯の欠けたガンジーの表情は、どこかひょうきんで楽しそうに見えた。
ガンジー記念館の方が語っておられた。
「外国に紹介されたガンジーの写真は、どういうわけか、難しい顔をしたものが多いようです。しかし、実はガンジーは、よく笑う人でした」
ガンジーは常々、こう言っていたそうです。
「もし、私にユーモアがなければ、これほど長く苦しい戦いには耐えられなかったでしょう」と。
インド独立のために、計り知れない圧迫と苦悩をくぐり抜けてきたガンジーですが、彼はいつも笑顔をたたえていた。
笑顔の人は強い。正しい人生を歩んでいる人には、晴れ晴れとした明るさがあります。
いつも余裕のない、暗い顔をしていたのでは、周囲の元気もなくなってしまいます。そこからは希望も、活力も生まれてこない。
大変な時こそ、反対に、明るい笑顔で周囲の人を元気づけながら進んでいくことです。
希望がなければ、自分で希望をつくっていけばよい。人を頼るのではなく、自らの胸中に炎を燃え立たせていくのです。
私どもには、信仰という「無限の希望」の源泉がある。だれがなんと言おうと、いかに状況が悪かろうと、「
冬は必ず春となる
」ことを知っているのですから。
大塚
私の母は、どんなに苦しい時も「朗らかさ」を失わない人でした。
私が高校生の時、両親が離婚しました。母は家を出ることになり、母についていった私と弟と、一家三人、四畳半のアパートでの暮らしが始まったのです。
母が家を出る時、持っていたお金は、たったの「五〇〇円」――わずか一食分のお金でした。荷物は「紙袋二つ」だけ。それが、「全財産」だったのです。
母は縫い物の内職を始めましたが、収入はわずかでした。ミカン箱を机がわりにし、知り合いから借りた布団一組に三人が交替で休むという生活でした。押し入れの上半分が、“私の場所”で、そこで勉強しました。
その頃の母の姿といえば、夜中も、早朝も、内職をしているか、題目を唱えているか、どちらかしか浮かんできません。
その地域の学会の先輩は、町工場からの帰り、よくバイクに乗って様子を見に来てくれました。そして、帰った後、玄関を見てみると、「うどん」が半束、置いてあるのです。
その方も、決して裕福ではありませんが、自分が食べる分を半分にして、そっと置いていってくださったのです。
真心に手を合わせる思いで、家族で分け合って食べたことを覚えています。
小野
大変な苦労をされたんですね。
でもお話を聞いていると、支え合い、励まし合う、学会の温かい庶民の心が伝わってきます。
6
お母さんの知恵には大学者もおよばない
大塚
今、こうして語ると、とても悲惨に聞こえるかもしれませんが、家はいつも明るかったですね。母のおかげだと思います。
母の口から「つらい」とか「苦しい」とか、愚痴めいた言葉を聞いたことは一度もありませんでした。苦しい生活の中でも、収入があると必ず、その時だけ寿司を一折ずつ食べさせてくれました。あとは、爪に火を灯すような生活でしたが。
高校の同級生や先輩などが遊びに来ることもあり、私たち家族が明るく生き抜く姿に触れて、三人が入会しました。
その一人が、今の私の夫です。(笑い)
池田
お母さんには感謝しなければいけないね。(笑い)
厳しい家計をやりくりして、子どもたちのために、たまにであっても、お寿司を買ってこられたことなど、お母さんの慈愛に満ちた「知恵」が光っている。
ちょっとしたことだけれども、そうした気遣いが、いつまでも子どもの心に、ぬくもりのある思い出として残っていくものです。
お母さんというのは、時に、大学者も及ばないほどの知恵と賢さを発揮する。それは、すべて家族への愛情から生まれるのです。
どうか皆さんも、「幸福の博士」「生活の賢者」として、価値的に、心に余裕をもって、日々の生活を勝ちとっていってほしい。
7
未来に羽ばたく使命の自覚を
池田
大塚さんのお母さんは、今もお元気ですか。
大塚
はい。元気です。弟の家族といっしょに暮らしており、今年の二月十一日、七十歳になりました。戸田先生と同じ誕生日です。
私たちが、「朗らかさ」を失わないでこられたのは、池田先生が「勇気」と「希望」を送ってくださったからです。
高校時代、私にとっての「希望の光」は、池田先生が高等部員に与えられた「鳳雛よ未来に羽ばたけ」との一文でした。
それは、こう始まっていました。
「未来を目指し、未来に生きる、若き高等部諸君よ。
諸君こそ、広布達成の鳳雛である。すなわち、諸君の成長こそ、学会の希望であり、日本の、そして世界の黎明を告げる暁鐘である」
――冒頭から、先生の呼びかけが、ストレートに響いてきました。
「私でも、『学会の希望』『世界の黎明を告げる暁鐘』になれるんだ!」
私の“勉強部屋”である狭い押し入れの中でしたが、目の前に、大きな大きな未来が広がっていくような気がしました。
それを励みに、勉強に取り組み、クラスでトップの成績をとることができました。
ただ、もう一人、高等部員がいたので、二番になったこともあります。(笑い)
池田
青春の日の努力ほど、尊いものはありません。
私はかつて、高等部の友に「未来に羽ばたく使命を自覚するとき、才能の芽は、急速に伸びることができる」との言葉を贈ったことがあります。
どんな子であれ、その人にしか果たせない「使命」がある。だれしも、何かの「才能の芽」を持っている。
その「芽」を伸ばすための最高の養分は、「信じてあげること」ではないでしょうか。
人によって、早く芽吹く人もいれば、時間がたってから、急に伸び出す人もいる。
しかし、いつかは必ず「才能の芽」が伸びることを信じて、温かく見守り、根気強く励ましを重ねていくことです。
どこまで子どもを信じてあげられるか――周りの「信じる力」が問われるともいえます。
小野
池田先生の励ましを受けた未来っ子たちが、ぐんぐん成長するのは、先生がお寄せくださる「信頼」が、とても深いからだと思います。
昭和四十四年(一九六九年)十月、先生をお迎えして、高松市で四国幹部会を開催した時、私は四国少女部長でした。
その会合で、三一人の少年少女合唱団が「チキチキバンバン」を歌ったのですが、その後で先生は、合唱団メンバーと記念撮影してくださったのです。
撮影の場所は、新装まもない四国文化会館でした。記念撮影の際、先生は一人ひとりを慈愛の眼差しで見つめられ、語りかけられました。
「牧口先生と戸田先生は、二十八歳の開きがあった。戸田先生と私も、二十八歳の開きです。私と諸君たちとは、ちょうどそれくらいの違いにあたります。みんなのなかから、次の学会のリーダーが出るんだよ」
「まっすぐ、大樹に育ちなさい」と。
まだまだ幼い子どもたちに、先生は真剣に語りかけてくださいました。子どもたちも一生懸命、「ハイ!」と返事します。
そばで見ていた私は、感動で涙があふれて仕方ありませんでした。お会いする前に、子どもたちに「泣かないで、笑顔でね」と、あれだけ言い聞かせていたのに、真っ先に私が泣いてしまって。(笑い)
先生はその場で「一〇年後に、また会おう」と言われました。それから一〇年目、香川に来られた先生のもとに、全国に散らばっていたメンバーが集い、再び記念撮影していただきました。
昨年(一九九九年)は、最初の記念撮影から、ちょうど三〇周年。みんな、それぞれの分野で活躍しています。
四国男子部の書記長や、医師になって県のドクター部長をしている人もいます。四国婦人部のリーダーもたくさんいます。
この間、メンバーの一人に電話した時も、「あの日の先生の言葉を励みにしながら頑張ってきました」と語っていました。
池田
うれしいことです。
私は今も、皆の成長を見守っています。人を育てるのは、長い目で見ていくことが大事です。
皆さんが一人残らず、ますます力を発揮して、見事な勝利の人生を飾りゆくことを信じ、祈っています。
8
“100円のブラウス”は今も母の“宝”
大塚
私も、高等部の時、池田先生と記念撮影していただきました。
昭和四十二年(一九六七年)八月十四日、富山県高岡市の市民体育館でした。
とても暑い日でしたが、流れる汗をぬぐおうともせず、集った人びとを励ましておられた先生の姿が忘れられません。
この日を目指して、学校での勉強にも一生懸命、取り組んできました。先生に成績を報告すると、「よく頑張ったね」と握手してくださいました。
あの頃は、自分の人生の中でも一番、厳しい時だっただけに、心に鮮やかに残っています。
池田
高岡での記念撮影は、私もよく覚えています。本当に暑い日だったね。(笑い)
大塚
申し訳ありませんでした。(笑い)
記念撮影会には母も参加できることになっていたのですが、着ていく服がないので困ってしまいました。かといって、新しく服を買うようなお金の余裕もなかったのです。でも、弟が小遣いを貯めたお金で、特売で見つけた100円のブラウスを母にプレゼントしたのです。
母は喜んで、そのブラウスを着て、晴れ晴れと記念撮影に臨みました。
“100円のブラウス”は、今も「家宝」として、大切にとってあるようです。
母は、何かあるたびに、そのブラウスを取り出しては、当時を思い起こし頑張ってきたと言っています。
池田
100円のブラウスは、お母さんにとって、どんなに高価な着物や宝石よりも貴重な宝物になったのだろうね。
「苦労も悩みもない」ことが「幸福」であると考えている人が多いが、それは間違いです。人生を長い目で見れば、本当は「苦労」こそ「宝」なのです。
苦労や悩みがあることは「マイナス」ではない。恥でもない、苦労があるからこそ、自分が磨かれ、鍛えられ、人間として成長できる。
子育てにも、苦労は多いことでしょう。
今、子育てで悩んでいる人は、実は、すばらしい「黄金の時」を生きていることを知ってほしい。
たとえ今が「真っ暗の時」にしか思えないとしても、いつまでも続くわけではない。負けずに「前へ」「前へ」と進んでいけば、必ず夜明けはやってくる。「あの苦闘があったからこそ、今の幸福がある」と、懐かしく振り返る日が、必ず来ます。
「喜びとはなんであるかを知る者は、元来、多くの苦しみを耐え忍んできた人々のみにかぎられます」――これは、スイスの哲学者ヒルティの言葉です(『ヒルティ著作集』第七巻、岸田晩節訳、白水社)。
春の喜びを本当に味わうことができるのは、冬のつらさを知った人なのです。
大塚
私は、そのことを母から学びました。
学会の同志を家族以上に大事にする母でした。当時は、わが家だけでなく、貧しい家庭が多い時代でしたから、たまに家に何か珍しいものがあれば、家族より先に同志の皆さんに分けていました。
母の振る舞いを見て、“創価学会は、こういうふうに「一人の人」を大切にする世界なんだな”と学びました。
9
親や教師の人格が伝わる
小野
私も、両親が喜々として人々のために活動する姿を見るのが、子ども心にうれしく、誇りでもありました。
先日、小学二年生の娘さんがいる婦人部の方から、こういう話を聞きました。
ある時、不登校だったクラスの友だちが久しぶりに登校してきて、階段を上がっていく姿を、その方の娘さんが見つけました。
娘さんは、その子のそばに駆け寄り、「よう来たね。はよう上がんさい。元気だった?」と声をかけ、手をつないで教室に入っていったそうです。
そのことを、担任の先生から聞かされ、「どうして、お宅のお子さんは、あんなに優しく声かけができるのですか」と尋ねられたというのです。
お母さんは言いました。
「わが家は学会の拠点で、お年寄りの方や、会員の方が来るたびに、『寒かったでしょう。早く上がってください』『よく来られましたね。お元気でしたか』と声をかけています。その姿を、いつも見ていたから、自然にそうしたのだと思います」と。
池田
日頃の親の振る舞いこそ、何よりの教育だね。口先や理屈では、いろいろ言えるけれど、子どもに一番、伝わるのは、親の生き方であり、人格です。
学校教育にあっても、教師の「人格」こそが、子どもに最も影響を与える教育環境と言えます。
先日(一九九九年十一月)お会いした、モスクワ大学のサドーヴニチィ総長が「本当によい人材は、大教室からは育ちません。一対一で、教授のそばに置いて育成しなければなりません」と語っておられた。
本当の学校というのは「建物」にあるのではなく、「教える人の人格の周り」にできるものだと。
10
「恩返し」の心で人材育成を
大塚
私自身、忘れられない学校の先生がいます。高校時代の担任の先生です。
生活が苦しくなって、もうこれ以上、母に負担をかけることはできないと思い、その先生に「学校をやめて働きに出たい」と相談したことがありました。
職員室で、じっと私の話に耳を傾けてくださった先生は、こう言われました。
「俺の小遣いは、月に三〇〇〇円だ。それをみんな、お前にやるから、なんとか高校を続けられないか」――。
その先生は美術を教えていて、ふだんは物静かな方でしたが、この時は、熱心に、力を込めて語ってくださったのです。本気になって心配してくださる心が、ひしひしと伝わってきて、胸が熱くなりました。
家に帰って、なんとか学校を卒業したいと、あらためて強く祈りました。母も、できるだけの応援をするから、頑張りなさいと言ってくれました。
その後も先生が奔走してくださり、二つの奨学金をもらえるようになって、無事に卒業することができたのです。
小野
すばらしい先生ですね。
今は、そういう先生が少なくなったような気がします。
大塚
先生の真心に応えたいと、それからはいっそう勉強にも頑張りました。
その後、先生は若くして亡くなりました。葬儀には、大勢の教え子が集まり、男性も、女性も、みんな泣いていました。どれほど生徒たちから慕われていたかが一目で分かる光景でした。
その先生のことを思うと、今も感謝の心でいっぱいになり、涙があふれてきます。
池田
そういう、教育者に出会えたこと自体、最高の幸福だね。
今、大塚さんが、学会の婦人部の中で、人びとのために尽くし、未来の人材を育成している姿を、きっと喜んで見守っておられると思います。
自分を育ててくれた人への恩を忘れず、こんどは自分が、わが子や後の世代のために行動していく。それが何よりの「恩返し」なのです。
恩を忘れない人は、美しい。恩を知り、恩に報いていくことこそ、「人間の道」であり、その人は豊かな人生を歩んでいける。反対に、恩を忘れるような人は、傲慢であり、最後はわびしい人生を送っていくことになる。
戸田先生の生誕一〇〇周年を迎えて、私の心は、いよいよ先生に対する感謝に満ちています。生涯をかけて、いな、永遠に戸田先生に、ご恩返ししていく決意です。
戸田先生は晩年、よく牧口先生をしのばれて、「先生がいないと寂しい。牧口先生のもとに帰りたい」と言われていた。
それを聞くたびに私は、師弟の姿の崇高さに、強く心を打たれました。
私は、戸田先生によって育てられました。今の私があるのは、すべて戸田先生のおかげです。いくら感謝してもしきれないほどの、ありがたい師匠でした。ですから私は、毎日、「戸田先生、きょうも私は戦います」と心で語りながら、走り続けています。
皆さまも「恩返し」の心で、子育てに、教育に、人材育成にと取り組んでいってほしい。今の自分に育つまでに、親をはじめ、たくさんの人から、どれほどの苦労、どれほどの励まし、どれほどの愛情が注がれたことか――その感謝を忘れてはいけません。こんどは自分が、その恩を、子どもたちや後の世代に返していく番です。
親から子へ、先輩から後輩へ、師から弟子へ――そうした、世代から世代への大きな流れの先に、二十一世紀の輝かしい未来が開けていくのです。
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