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日蓮大聖人・池田大作

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創価中学・高等学校第22回栄光祭 深き伝統こそ”魂”の遺産

1989.7.16 教育指針 創価学園(2)(池田大作全集第57巻)

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1  輝く伝統の第二十二回「栄光祭」、本当におめでとう。(大拍手)
 会場に入って、私は驚いた。舞台のすばらしい絵が、大きく目に飛びこんできたからである。ドラクロワ作の「民衆を率いる自由の女神」。聞けば、この堂々たる模写絵(縦6.3㍍、横10.8㍍)は諸君全員の手によるものという。私は感動した。若人の発想、才能、情熱、そして団結の力は偉大である。大人の想像以上である。そのことは、ただいまの演技でも見事に証明されていると思う。私は諸君に心からの敬意を表したい。(拍手)
 私は創価学園を最高の人間教育の府と思っている。また、これからが、いよいよ本格的な栄光の時代と信じている。未来の範となる「格式」と「伝統」――それがわが学園の誇りである(拍手)。
 その意味からも、本日は少しむずかしいかもしれないが、英知の諸君であるゆえに、最新科学の話を含めて、何点かにわたり論じておきたい。
 ただ、とくに科学の分野については、私は専門家ではないし、記憶に間違いがあるかもしれない。またさまざまな学説があることも、よく承知している。きょうの話がすべて正しいというつもりはない。時代とともに研究が進み、変わってくる面も当然あろう。
 むしろ、私は諸君にそうした探究をお願いしたいし、教えてもらいたいとも思っている。そのことを前提に、話をさせていただきたい。
2  科学の進歩が仏法の正しさ証明
 季節は夏。そこでまず宇宙の話題からはじめたい。
 今、ヨーロッパは、さまざまな意味で注目を集めている。私も先日、訪問した。
 その「ヨーロッパ」が、じつは宇宙にもある。木星の四大衛星の一つである「エウロパ」である。「エウロパ」とは、ョーロッパの古名で、もともとギリシャ神話に登場するフェニキア王の娘エウロペに由来する。本星のことをジュピター(天空の神。ギリシャ神話の最高神ゼウスにあたる)と呼ぶが、エウロペはゼウスの恋人であった関係から、木星の衛星にそう名づけられた。
 「エウロパ」は現在、何らかの生命の存在が期待されている天体の一つである。
 ちょうど十年前の一九七九年(昭和54年)七月九日、アメリカの惑星探査機「ボイジャー2号」が、「エウロパ」の接近写真を地球に送ってきた。その写真を分析した結果、ある程度の「水」と「熱」が存在すると推測されたからである。水と熱があれば、少なくとも原始的な生命的存在の可能性はあるかもしれない、と。
 その真偽はともあれ、広大な宇宙には何らかの生命体が存在すると考える天文学者は多い。また仏法の法理は、他の天体に、人間のような知的生命が数限りなくいることを示している。
 仏法で説くそうした偉大な直観知の正しさが、科学の進歩とともに証明されていくことも、間違いないと信ずる。(拍手)
 ボイジャー2号は、来月(1989年8月)、現時点での”太陽系のさいはて”海王星に近づく予定である(冥王星の軌道の関係で、1979年から99年の約20年間は、海王星がもっとも太陽から遠い)。今度は、いかなるニュースをもたらしてくれるか、ロマンはつきない。
 それはそれとして、この本星の四つの衛星(「ガリレオ衛星」)の一つ「エウロパ」は、約三百八十年前(1610年)、ガリレオ(1564年―1642年)が発見したものである。
 ガリレオは、この発見等をもとに、「地球以外にも広大な世界がある」と主張した。さらに、地球を宇宙の中心とする「天動説」を否定するにいたった。
 コペルニクスの「地動説」を支持し、完成させようとした彼の研究は、当時の宗教界から激しい迫害を受けた。この史実はあまりにも有名であり、諸君もよくご存じと思う。誤った先入観念はこわい。また妬みによる陰湿な圧迫を、いかなる先駆者も避けられない。
 ともあれ、このように「エウロパ」ならびに木星は、近代天文学の出発と深い関係を持っている。
 さて、本日、私がお話ししたいのは、天空に輝く、あの「太陽」がどのようにして誕生したのか、ということである。じつは「木星」は、「太陽になりそこねた星」とされている。太陽になれた星と、なれなかった星と、その違いはどこにあったのか――。すなわち木星は、「太陽系最大の惑星」である。他の八つの惑星を全部集めても、本星の質量の半分にも満たない。また直径は地球の十倍以上、質量は三百倍以上で、本星の中に地球が何と千個以上も入ってしまう。
 この巨大な木星は、もしかすれば、偉大なる「もう一つの太陽」として、王者のごとく、宇宙空間に壮麗な光を放つはずであった。それがどうしてそうならなかったのか。一方、太陽はなぜ太陽(恒星)になれたのか。結論的に、また端的にいえば、それは木星が、中途半端な”太陽の卵”だつたからである。その成員が、動きに動き、回転に回転し、自己を拡大していかなかった。
 わかりやすく人間にたとえていえば、努力また努力のはてに、人々を照らしゆく光の存在になったのが「太陽」であり、せっかく大きな可能性を持ちながら、途中で休んで(笑い)、チャンスをのがしてしまったのが「木星」ともいえる。
3  暗黒の宇宙に劇的な太陽の誕生
 太陽は、どのように誕生したのか。現在のところ、大筋として次のように考えられている。簡潔に、なるべくやさしい表現でいうと――。
 まず、銀河系の片すみで、ある巨大な星が爆発して死んだ(超新星の爆発)。星にも誕生と死、生老病死がある。
 その星の「死」から、しかし、次の新たな「生」がはじまる。すなわち、爆発のあと、宇宙の空間に無数のガス(気体)やチリが”雲”のように散らばり、残った。
 諸君も、お母さんに叱られて、かんしゃくを爆発させ(大笑い)、ものを投げて、部屋中、散らばらせることがあるかもしれない(爆笑)。その時は、まさに混沌として(笑い)、今後どうなるかわからない状態である。
 仏法では成住壊空(四劫)と説く。
 「成」は”形成期”。現在の諸君のような時代である。「住」は”安定期”。大人になってからの、本格的な活躍の時代である。「壊」は”壊滅期”。年をとって、死へとむかっていく時代である。そして「空」は、死後、次の生をはじめるまでの時代である。
 星の爆発で、ガスやチリが漂っている時期は、この「空」の状態に相当するといってよい。
 次は「空」から「成」の時代に進む。このガスやチリを、すごい勢いで集めに集め、みずからの圏内に巻きこみに巻きこみ、拡大していったものがいる。それが「太陽」の卵であった。
 人間でいえば、「全部、こっちに集まれ、一緒に進もう。みんなで偉大な仕事をしよう」と、友人、味方を率先してつくっていくリーダーのような働きといえるかもしれない。また自分の苦難、苦労をも、すべて良い方向へと回転させる意識にも通じよう。
 はじめ小さかったガスのかたまりは、しだいに、雪だるま式に大きくなってくる。回転速度が大きくなりはじめる。だんだん忙しくなる。やがて、遠心力でレコード盤のような形になって、回りに回る。動きに動く。勢いがついてくる。大きくなるにしたがって、中心部は、ものすごい圧力になり、高温になってくる。この中心部の塊が太陽の卵である。
 中心の”核”の部分は、個人でいえば「一念」ともいえる。組織においては、団結の「中心者」であろう。クラスでは担任の先生、あるいは学級委員だろうか。その”核”には、大きな圧力と鍛えの力が働く。それでも耐えに耐えて、なおも運動を続ける――。  
 粘り強い連続行動。休みなき連続運動。そのはてに、中心のガス球は、ある時、突然に、みずからの力で「熱」と「光」を放ちはじめた。暗黒の宇宙の中で、壮大に、そして華麗に輝きはじめた灼熱の生命体――。劇的な「太陽の誕生」の瞬間である(拍手)。
 太陽が輝きはじめたのは、高圧のために、中心の温度がなんと一千万度に達し、”核融合反応”(四個の水素原子核が高温のため激しく運動し、衝突して結びつき、一個のヘリウム原子核をつくる。この時、ばく大な原子エネルギーが放出される)が起こったからである。
4  自己建設へ着実な積みあげ
 いわば太陽は、ギリギリまで回転しぬき、ギリギリまで戦いぬいた。自分自身の行動に徹しぬいた。その結果、忽然こつぜんとして、自己の本然の姿を顕したのである。人間も、組織も、国家、人類にも、この法則はあてはまる。
 自己の目的と使命にむかって、その完成まで、挑戦に挑戦をかさねる。あきらめない。動く。学び、語る。また学ぶ。その、これでもか、これでもかという実践の結果、ある時、パーッと大きく開けてくるものである。
 諸君の勉強もそうである。
 ――先日(6月14日)、フフンス学士院で講演した際、フランス語の通訳をお願いした若い女性がいる。彼女の体験を聞いた。語学の力が十分でない時、当初は何もわからず苦労した。勉強をかさねた。そのうちに、ある日、突然に、はっきり理解できるようになっ
 た。自分でも驚きました、と。何ごとも、努力が一定のレベルまで達した時に、いっきょに開けてくる。だから諸君も、決して途中で投げだしてはならない。やり遂げねばならない。そうしなければ、それまでのせっかくの努力が、生かされない。
 私の青春時代も、恩師戸田先生に、それは厳しく鍛えられた。ありとあらゆる勉強をさせられた。しかも全然、親切な教え方ではない(笑い)。「おい、あの日本文学全集、全部読んでおけよ」(爆笑)、「いつか質問するよ」(大笑い)、こういう調子であった。今も懐かしく思い出す。
 私の経験からも、はじめは、なかなか頭に入らず、苦労したとしても、粘り強く学んでいけば、ある段階から、霧が晴れるように、すっきりとわかってくるものだ。ゆえに学問は、ともかく努力して前に進む以外にない。
 太陽ならびに太陽系の誕生は、現在のところ、今から約四十六億年前とされている。それは、太陽がガスを集めはじめてから、約一億年後のことともいわれる。若き太陽の「自己建設」の時代であった。諸君も、あせってはならない。一個の”太陽”と輝くためには、それ相応の時間が必要である。じっくりと充実した一日また一日を積みあげて、自分らしい自分の完成をお願いしたい。
 そして将来は、赫々たる旭日のごとき「知恵」と「人格」と「生命力」を発揮して、社会を、世界を、照らしゆく存在になってほしい。きょうの私のスピーチも、すべて、その願いからである(拍手)。偉大なる太陽も、その”もと”は何か。小さな小さなガスやチリであった。一切の勝利も小さな事実をかさねた結果である。一日一日、小さくとも、着実な行動を続けねばならない。
 また、諸君は自分を「チリ」のような小さな存在のように感じる時があるかもしれない。しかし、断じて、そうではない。一つの微塵、一つの原子の中にも、巨大な可能性が秘められている。
 それが宇宙の実相である。まして諸君は、一人残らず、かけがえのない使命の人である。そう自分で自分を決めることである。その確信と自覚が、諸君の中にある無限のパワーを解放する。人間は、”核”となる「一念」しだいで、何でもできる。考えられないほどの力がわいてくる。
 ところで誕生した”原始太陽”の周りには、使わなかった余計なガス等が漂っている。
 今後の大切な活動のじゃまになるため、それらを「太陽風」(プラズマの流出)のジェット噴射によって吹きはらってしまうという説がある。
 生命の不思議なリズムを感じさせる話である。人間も、確固たる完成がなされれば、堕落と不幸へと誘う一切を、みずからの力で吹きはらうことができる。宇宙の法にのっとれば、限りなく生命の「大風」を吹かせて、みずからの人生から、すべての迷霧めいむや暗いもや、有害なスモッグ等を吹きはらう力がでる。そこではじめて、大いなる「光」と「熱」を、人々に届けて、社会を変革し、貢献していくことができる。
 さて、先ほど述べたように、太陽系で、太陽についでもっとも多くのガスやチリを集めたのが木星であった。だが、木星では「核融合」が起こらず、みずから光と熱を発する太陽と同じような星(恒星)とはならなかった。集めたガスやチリの量が足りなかったからである。質量が不足したため、核融合を引き起こすまでの高温、高圧状態とはならなかったわけである。
 もし木星が、もっと急速に回転しながら多量のガスやチリを集めていれば”ミニ太陽”となって、みずから輝く星になっていたにちがいない。そうなれば太陽系は「二つの太陽」を持つこととなったことだろう。
5  すべてを貫く「因果の理法」
 このことは、宇宙では決してめずらしいことではない。われわれの太陽系に近い六十個の恒星をみれば、そのうち半数の二十八個は、二つの恒星が連なった「連星」か、三つの恒星が連なった三重連星をなしている。つまり、もし木星が”太陽(恒星)”となっていれば、われわれの太陽系でも、太陽と木星の二つの恒星による「連星」となっていたわけである。
 こうした宇宙の営みの話は、小宇宙である私どもの生命の法へと目をむけてくれる。
 ゲーテは言った。「わたしは太陽も月も星も理解しない。しかし、大空の星々をみて、その不可思議な、規則ただしい運行を観察すると、わたしは星々の世界にわたし自身を発見するのだ。そして、わたし自身から、何ものかが生まれてくるにちがいないと予感するのだ」(『ゲーテ全集Ⅱ』大山定一訳、人文書院)――と。
 悠久にして妙なる大宇宙の営み。そこにわが小宇宙の人生を浮かべてみるとき、自分も「何か」なすべきことがある、もっと深く生きるべき人生の道があると実感する。多くの先哲たちの思いもまた同じであったにちがいない。人間いかに生きるべきか―― これこそ、つねに変わらぬ、人生の根本テーマである。
 大宇宙と、”小宇宙”たる、わが生命とは一体不二である。私は仏法者であり、仏法の面からも語らせていただきたい。仏法では、一切の万物は「地」「水」「火」「風」「空」の五つの要素から構成されていると説く。
 物質的にみても、私どもの肉体は、星々をつくっているのと同じ元素からできている。永劫の昔から生まれては死んでいった星々の一部が、現在の私たちの体となっているともいえる。
 また仏法は、大宇宙といっても、私どもの一念に収まり、一念は全宇宙に広がっていくことを説いている。そして、日蓮大聖人は「日月天の四天下をめぐり給うは仏法の力なり」(御書1146㌻)
 ――太陽や月が宇宙をめぐっているのは、仏法の力による――と。宇宙の運行も、また私どもの生命の営みも、ともに仏法の働きによっており、妙法のリズムにのっとっている。
 いずれにせよ、諸君の生命は、大宇宙とともに律動しているのであり、一人一人の胸中にも、赫々たる太陽がある。その光を放ちゆくための”修行”が、現在の諸君の勉学であり、絶えぎる努力なのである。だれもが胸中にいだいている”生命の太陽”。それが、あの木星のように、自分の努力や行動が不十分であったために”太陽”として輝きだすことができなければ、悔やんでも悔やみきれない。
 ともあれ、仏法の眼から見るとき、極微の世界である「原子」から、宇宙大の世界である「天体」まで、すべて因果の理法(蓮華の法)という厳しき法則で貫かれている。
 世間の不文律や国の法律からのがれることはあっても、この「生命の法」は絶対にごまかすことはできない。ゆえに、努力すれば努力したぶんだけ、行動すれば行動したぶんだけ、厳然と結果は表れてくる。また善は善として、悪は悪として、いつしかすべて明らかになっていくのである。
 ところで、生まれたばかりの未熟な星は、その輝きが外からはつきりと認められることがなかった。周りの”ガスの雲”などの影響を脱しきれず、光も落ち着きなく明滅していたといわれる。
 人間も、周囲の”雲”や”風”に、いつも紛動されているうちは、まだ人間的にも”未熟”であり、”原始的”である、とある人が言っていた(笑い)。「自分」という確たる芯ももたず、ささいな出来事に愚痴をこぼし、心を揺るがしていくような”未熟な人間”に、諸君はなってもらいたくない。それでは確固たる人間としての「成長」も「完成」も、ありえなくなってしまうからだ。
6  「圧迫」への「抵抗」が生物の進化生む
 さて宇宙の話から、地上に目をおろしたい。先日も、ある会合で、トインビー博士の歴史観の一端として「挑戦と応戦」の話をさせていただいた。じつは、同様の法則は人類の歴史のみならず、生物の進化にもあてはまる。すなわち、生物の世界においても、何らかの「圧迫」の壁があり、それに懸命に「抵抗」してきたところに、生命の「変革」と「進歩」が生まれてきたといわれる。
 生物の進化については、さまざまな説や論議があり、いちがいに言えない部分が多い。また今後さらに解明されていくこともあろう。
 ここでは、著名なアメリカの科学者であるロバート・ジャストロウ博士の著作『太陽が死ぬ日まで』(小尾信彌監訳、集英社文庫)をもとに、話を進めさせていただく。(=1993年9月にアメリカ創価大学で創立者とジャストロウ博士は会見した)
 それによると、たとえば、「魚類」の一部が陸地に上がったのは、長期の旱魃かんばつのせいだという。乾期になると池や川が浅い水たまりに変わってしまい、魚は酸素が不足して生きられない。
 そこで、水の豊富な場所へ移動したりするうちに、水中だけでなく、空気中の酸素も吸収できるような「肺」をもった魚が出現する。これがカエルなど、水陸両方に住む「両生類」の第一歩となった。また、ヘビやトカゲなどの「爬虫類」から、ウサギや人間といった「哺乳類」への進歩は、超大型の爬虫類、すなわち恐竜による”圧迫”のなかから生まれた。
 恐竜の全盛時代、片すみに追いやられた小さな爬虫類は、身の危険を避けて、寒い夜間にしかエサを探せない。寒いゆえに、体温を一定に保てれば活動に有利である。体温が気温とともに低くなると活発に動けないからだ。そこで自然からの”圧迫”を受け、しだいに、恒温動物としての機能が形成されていく。「夜行性の爬虫類が完全な恒温動物に変わった――これが原始哺乳類の祖先である」(同前)と。そして恐竜絶滅のあと、この哺乳類たちの時代が訪れた、と。
 また、四本足の「類人猿」から二本足の「人類」への進歩は、気候の乾燥化という圧迫が重要な機縁とされる。乾燥化によって森林が減少し、乾いた草原が広がる。草原では猛獣がエサを探して動きまわっている。しかし、逃げて隠れる木も少ない。そこで身の安全のために、立ったままの姿勢で敵の動きを見張らなければならなかった。猛獣がどこから出てくるか、四本足だとよく見つけられない。こうして、直立して歩くようになったのが人間だという。
 さらに猿人からホモ・サピエンス(知恵ある人)への進歩は、二百万年ほど前にはじまった大氷河時代にもたらされたとある。凍える寒さの圧迫のなかで、どう生きぬくか。その一つの方法として、動物の毛皮をはいで身にまとったりした。それがやがて「道具」の発達にも結びついていく。人間の頭脳は、氷河に苦しめられることによって飛躍的に進歩したともいえる。
 こうした、長い生命の”逆境と苦闘”の歩みが意味するものは何か。ジャストロウ博士は語る。
 「逆境と苦闘が、生物進化の根底にある。逆境がなければ、生物に加わる”圧力”はなく、この”圧力”がないと、変化は起こらない」(同前)と。
 圧迫や障壁のないところに進歩はない。生きぬこう、戦いぬこうと知恵を発揮し、環境を克服して進んでいくのが、生きとし生けるものの鉄則である。人間も、その他の生物も、また集団も、進歩し発展しゆく方程式は同じである。
 諸君の勉強や試験も、ある意味では自分への「圧迫」かもしれない。しかし、それをやりきっていくところに、知性と人格を深め、人生を勝ちゆくための「進歩」がある。その意味で、今、勉強しておかなければ、あとで後悔をする。どうか将来のために、自分自身のために、しっかりと勉強をしていただきたい――これが創立者としての心からの期待であり、願いである。(拍手)
7  ”友よ正義の旗を振れ”
 諸君は、今回の栄光祭のテーマを「友よ正義の旗を振れ」と決めた。ドラクロワの背景画の横にも、この言葉がくっきりと書かれている。私も、心から賛同するし、この言葉を諸君に呼びかけたい気持ちでいっぱいである。
 ところで背景の絵は、十九世紀の市民革命を描いたものである。十八世紀末のフランス革命で掲げられた「自由」「平等」「友愛」の理想。その実現のため、時代を超えて戦い続けるフランス市民に対して、ドラクロワがささげた感動の賛歌といってもよいであろう。
 精神にも「遺産」がある。ひとたび築かれ、打ちかためられた魂の「遺産」は、長く、たしかに、一つの民族、一つの国家を養っていく。とりわけ、危機の時に、その”宝”は発揮されるものである。
 フランス革命が国民に残した「精神の遺産」は、少なくない。その一つが、いかなる圧力や弾圧にも屈しない「抵抗レジスタンス」の精神ではあるまいか。第二次世界大戦でフランスは、ナチス・ドイツに占領された。この時、燃えあがったのが、この「レジスタンスの炎」である。彼らは、いかなる苦境にも、”しかたがない””あきらめよう”などとは決して思わなかった。――最後の最後まで抵抗し、戦おう。そして、ついには勝利を勝ち取るのだ――と、確信してやまなかった。
 これこそ、フランス革命から生まれた”フランス魂”である。その意味で、フランス革命は過去のものではない。脈々と国民の心に受け継がれているといえよう。
 確たる「伝統」が築かれ、脈動しているところは強い。ここ創価学園にも「栄光祭」というすばらしき「伝統」が構築された。しかもそれは、一人一人の心に強く生きている。私にとって、これ以上の喜びはない。(大拍手)
 本日の栄光祭には、心臓病を克服して、すっかりお元気になられた学園の先生も参加されており、私はたいへんうれしい。(拍手)
 先日、この教師の方から丁重なお手紙をいただいた。その中に、脳裏に蘇る栄光祭の思い出ととともに”死の淵”から蘇生された生々しい模様もしたためられている。私信ではあるが、了解を得て、その一部を紹介させていただきたい。
 ――手術を終えて、集中治療室でめざめた時に、人工肺をくわえたままに唱題をはじめますと、完全に冷えた身体に精気が湧いてくるのがわかりました。
 そのうちに、これまでの栄光祭で、池田先生の前で青春の誓いのままに、純粋な情熱の舞いを全魂をこめて演じている生徒たちの姿と叫びが、何度も脳裡に現れ、私も一緒にスクラムを組んで歌っていました。
 そのたびに、まるで寒中にお湯を飲んだ時のように熱い血潮が五体のすみずみまで湧き、まわっていくのがはっきりとわかりました。林立する冷たい医療器具に身体中から出ている管で連結され、少しの身動きもできないままでしたが、私にとっては、感謝と感激と感動の世界でした。
 栄光祭も、創価学園のすべてもが、仮死状態を蘇生させる生命力をもっていることを実感することができました――。(大拍手)
 これは、この先生が病気に打ち勝って、学園にもどられたさいに送ってくださった一文である。
 草創以来、学園建設に尽くしてこられた方である。この貴重な体験は、伝統の栄光祭が、どれほど一人一人の魂に深く深くとどめられ、偉大な力となっているかという、一つの証左であると、私は深い感慨を禁じえなかった。
8  強き心、優しき心の人に
 ここで、何点か諸君にお願いしておきたい。
 その一つは、どうか、お父さん、お母さんを大切にしていただきたいということである。
 それは両親のためであることはもちろんであるが、しかし、親の心というものはもっと深い。親が子どもの「親孝行」を喜ぶのは、決して自分のためではない。親は、子どもが孝行してくれようとも、またそうでなくとも、子どもを思う心には変わりはないものである。
 ただ、わが子が「親孝行」のできる子どもであれば、将来も心配はない。そういう温かい心根があれば、いつになっても、何をやっても、どこへ行っても、立派な人間性をもって進んでいけるであろう。また、どんな苦難があろうとも、その強く優しい心が、一生の幸せを築きゆく原動力となっていくだろう、と親は考えて喜ぶのである。
 どうか、そうした”親の心”のわかる諸君であっていただきたい。親に心配をかけないこと自体が、立派な親孝行である。その人はすでに立派な「大人」、立派な「人間」であるといえる。そして、これが創価学園の人間教育の精神であることを申し上げておきたい。
 もう一点は、現在、多くの学校が不登校(登校拒否)や校内暴力の問題に悩んでいる。教育の最大の課題ともなっている。幸いにもわが創価学園ではこれまで、人間教育のすばらしい伝統を築いてくることができた。暴力を振るうことなど絶対にあってはならない。「暴力」は「人間失格」の行為である。どうかわが学園では、これからも、良き先輩、後輩として、さらにうるわしい友人関係、人間関係の絆を強めていっていただきたい。
 また、不登校については、私もこれまで、教育現場でこの問題に取り組んでこられた方々の体験をうかがい、意見を交換しながら、私なりに掘りさげてきた。そこにはさまざまな事情があり、原因がある。ささいなことから「学校に行きづらい」と思うようになる場合もある。また、何らかの理由で少々、学校を休んだ時に、教師やクラスメートから責められると、気弱になっている心に圧迫を感じて、ますます登校するのが嫌になる場合もあるようだ。
 諸君の周囲にはあまりそのような例はないかもしれないが、友人が何らかの理由で学校を休み、ふたたび登校してきた時には、どうか心温かく迎えてあげていただきたい。人は言葉ひとつで勇気づけられもし、また心を傷つけられることもある。どうかそうした”思いやり”の心を忘れない諸君であっていただきたい。
 最後に、諸君のいちだんの努力と成長と健康、また諸君のご両親のご多幸とご長寿をお祈り申し上げ、わが創価学園の偉大なる発展を願って祝福のスピーチとしたい。

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