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日蓮大聖人・池田大作

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積極的な世界認識  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

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1  池田 おそらく、そうでしょうね。
 細かく見ていけば、採集された説話には、いわば玉石混淆といった面もあるでしょうが、その企図は高く評価したい。
 根本 そもそも大系的な伝記とか、歴史とかを編纂し、著述しようとする意識、歴史意識というのも、たんなる懐古趣味や好事癖からではなく、なんらかの意味で、自分の生きている時代の関心や課題にこたえたいという切実な欲求を、内面に秘めているものですね。
 池田 ところで、私は、そういう時間的な歴史意識が、同時に、おのずから空間的な世界認識への広がりをもったという点を重視したい。
 先ほど引用された話のなかに「閻浮提」という言葉がありました。これは現代的に訳すれば、まさに、「世界」を意味するのですが、日本の古典文学のなかで、『今昔』ほど、広い「世界」への関心にささえられたものは、ほとんど他に類例をみない。
 根本 たしかに、天竺(インド)、震旦(中国)、日本というのは、当時知られていた限りでの全世界、つまり「閻浮提」を表しているわけですね。
 池田 そこには、本来、国家とか民族などの境界にとらわれない、世界宗教としての仏教の普遍性が示されている。
 『今昔』が鎖国的な時代状況にありながら、「世界」への開かれた眼を持ちえた理由は、そこに求められるのではないか。もちろん、その世界認識は、決して総体的(トータル)な、また構造的な把握であるとは言えないでしょう。
 現代的な意味で、運命共同体としての世界をとらえようとする、積極的な意図があったとは考えられない。また実際、そうした「世界」はまだ成立していなかった。
 その世界把握は、かなり平板な、羅列的なものにすぎない。また、意図的にではなく、ただ結果的に、たまたま「世界」を視野のなかに収めたと言うべきであるかもしれません。
 私はこの点で、過大評価をするつもりはないのです。
 しかし、たとえば、はるかに遠い僧迦羅国(セイロン島)の建国伝説(巻五・第一話)や、棄老国きろうこくの風習などにも、『今昔』の作者は素朴な関心を寄せたのでしょう。
 表面的な異国趣味からであるにせよ、海の彼方に向ける眼の背後にあるものには、かならずしも無視できないものがある。
 根本 現在のマス・レジャーのなかでの海外旅行ブームとは違う。(笑い)
 池田 そう。現在とは異なり、閉ざされた社会ですから。
 根本 むしろ、幕末の知識人たちの海外への関心と似ていますかね。
 池田 さあ、そこまで類比できるかどうか……。
 『今昔』の場合は、あくまで過去の歴史への回顧で、同時代的な関心とは言えないでしょうね。
 根本 ちょっと話は変わりますが、きだ・みのる氏によると、「震旦」部の「盗人、国王ノ倉ニ入リテタカラヲ盗ミ父ヲ殺セルコト」(巻十・第32話、大系23)の話は、へロドトスの書いた「ランプシニトス王と二人の盗賊」の話と、非常に類似しているそうです。(「説話の西と東」、『日本古典文学大系』月報36、岩波書店)
 『今昔』の原典は、『法苑珠林』であると考証されていますが、話の大筋と登場人物の類似から見て、ここにエジプト、ギリシャ、インド、中国をつなぐ説話の普遍性が推定できるのではないか、というのです。
 池田 それは興味深い指摘ですね。
 根本 まえに『古事記』について、神話の世界性という論点を提示されましたが、もし同じようなことが言えるとすれば、説話の流通力も、驚くべきものがあることになる。

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