Nichiren・Ikeda
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王朝文学の人間喜劇
「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)
前後
1 池田 芥川がもっとも興味をお、ぼえるといった、「本朝」の「世俗」や「悪行」の部――つまり『今昔』のなかで「もっとも三面記事に近い部」(前掲「今昔物語鑑賞」)を読んでいくと、そこにたしかに、新しい「時代」と「世界」の姿が、刻印されていることを実感せざるをえない。
さらに、もう一つの『今昔』の特色は、新しい「人間」を発見したことでしょうね。
根本 芥川は「王朝時代のHumanComedy(人間喜劇)」(同前)と言っています。
池田 登場人物の階層の多彩さもありますが、その人間把握の徹底した現実性は、まったく鮮烈です。紫式部ならば、美しいベ-ルで覆って間接的にしか暗示しなかったような、人間の生存の根元的な本能や欲望や闘争の実相を、少しもたじろがずに直視し、露に描いている。
何よりも、この作者には、人間に対する貪婪なまでの好奇心が感じられます。善悪両面を含めて、およそ人間のことに関する限り、興味をひかないものはないというふうです。
その好奇な眼は、ことに多く、人間の暗黒面に向けられ、さらに怪力乱神や、妖怪変化の話にまでおよんでいる。
『デカメロン』や西欧ルネサンス期の文学作品などを連想させるようなユーモアや笑いとともに、明らかに世紀末的な頽廃、デカダンスの空気にもひたされているように思えてならない。
根本 問題は、そうした新しい「時代」の新しい世界」と「人間」を発見した、この物語集の根本にあるものは何か、ということですね。
歴史学者の石母田正氏は、『中世的世界の形成』(東京大学出版会)という好著のなかで、次のように述べています。
「物語文学の作者にとっては貴族社会と都市社会が唯一つの現実であって、それを越えることがなかったために、彼等は現実の中に自己批判の媒介となるべき本質的に新しい何者も見出すことが出来ず、したがって宇津保と源氏を二つの頂点として、たどその後頽廃の一途を辿らざるを得なかった。しかしこれは平安後期の文学の一面にすぎず、そこに他の重要な面が発生していたことは注目すべきである。すなわち将門記、陸奥話記、今昔物語等の成立である。これらの作品の作者は、いずれも不明であるが、貴族階級の内部に地方の武士社会に関心を持ち、都市貴族的社会の外にも別箇の世界が存在することを発見した作家が現われたということはもっとも注目すべきことである」
いささか長い引用になりましたが、石母田氏は、その歴史的、社会的な観点にもとづいて、頽廃した貴族社会の内部から、その「自己批判」として『今昔』等が出現したと考えるわけです。