Nichiren・Ikeda
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素材としての輝き
「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)
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1 池田 ところで『今昔』を読んで感ずる、もう一つの新鮮さは、王朝文学にはない、広い外の「世界」への広がりという点です。
『源氏物語』には、人間の内面への深い凝視があり、文学作品としては、ほぼ完壁に近い傑作でしょう。
それにくらべて『今昔』は、粗けずりというか、素材としての輝きに充ちてはいますが、何といっても、作品としてみれば、未完成品の印象は、いなめない。
芥川をはじめとする小説家たちによって、近代的小説の題材として取り上げられているということ自体が、その証左ではないかとみたい。
だが、『源氏』の世界は、あまりにも狭い。そのするど底流に、時代の動向への鋭い予感は秘めながらも、あくまで、きわめて閉鎖的な世界に終始している。部分的には、市井の描写もあったし、貴族社会の外の人物も登場している。
しかし、そこには作者の本質的な関心の眼は向けられていない。つまり『源氏』の世界は、深いが狭いと言える。
対比して言えば、『今昔』の世界は、浅いかもしれないが、はるかに広い。登場する人物は、天皇、貴族からはじまって、武士、庶民から、盗賊、物もらいにまでおよんでいる。舞台も、日本国内のほとんど全域にわたっている。これは、驚くべきことだと思います。
根本 当時の日本の地域のなかで、一度も地名の表れないのは、壱岐、対馬、石見だけだそうです。もっとも、各地域の特色はほとんど描かれていませんが。
池田 それはしかたがないですね。現在のように、直接、現地におもむいてルポルタージュしたわけではないでしょうから。
しかし、こうした説話が鄙から都へ、また都から鄙へと流通する経路は、すでに長く積み重ねられていたと考えられる。
いろいろな噂話やゴシップが口から口へ語り伝えられ、新たに付け加えられたりしたにちがいない。現代のような情報社会とは違い、その速度は、ずいぶん遅々としたものだったかもしれないが、話の伝播力というのは、私たちの想像以上のものがあったと思えてならないのです。
根本 そういう伝播の役割を担う層があった、とも考えられますね。ちょうど西洋の吟遊詩人のような……。
池田 私は折口信夫博士が示唆された「唱導文学」(『折口信夫全集』4、中央公論社)という面があったのではないかと思う。
唱導というのは、仏教教化の方法で、およそ宗教が教団内にのみとどまらず、外への布教、弘法という実践活動をともなうものであれば、かならず行われるものと言っていい。
そして、民衆のなかでの教化には、たんに高遭難解な教理の講説だけではすまなかった。もっと実際的、現実的な生活に即しての話が必要になったと思われる。
寺院内での経論の講義とは異なり、平易な語りくちで耳目を惹きつけることも、要請されたにちがいないでしょう。
根本 たしかに、教理に無知な民衆の心をつかむには、たいへんな努力があったでしょうね。