Nichiren・Ikeda
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「煩悩」と「菩提」の関係
「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)
前後
1 根本 それで、嫌われついでにというわけでもありませんが(笑い)、この煩悩と菩提との関係についてうかがいたいと思います。
煩悩とは、貪・瞋・癡の三毒など、人生の不幸、苦悩を言い、菩提とは悟り、幸福の境涯ですね。おおまかに言えば、この煩悩を断じて菩提を得ることが一般に、仏道修行の目的である、と考えられていた。ところが、法華経では十界互具を説き、煩悩即菩提の法理が明らかにされた、というわけですね。つまり、煩悩を断ずるのではない、という……。
池田 そうです
根本 煩悩がそのまま菩提であると……。
池田 それはちょっと違うんですね。そう考えると、うっかりすると、煩悩そのままの肯定におちいってしまいやすい。無批判の、安易な現実肯定に、逆もどりすることになる。
本来、煩悩と菩提とは、厳しく対立しているものです。その認識を欠いた「煩悩即菩提」という観念は、たんなる現実肯定か、または現実逃避かの、いずれかに帰着せざるをえない。
根本 なるほど。
王朝貴族の意識にも、その二面性がありますね。極端な栄華賛美と、現世厭離と……。
池田 つねにそうした傾向は見られます。それは「即」という概念の受けとめ方に、起因しているとみたい。「即」というのは、なかなか含蓄の深い言葉ですが、ともすると非常に単純に解されやすい。
「即席(インスタント)」とか。(笑い)
根本 たしかに誤解しやすいですね。
池田 「即」とは「不二」「不離」の意味ですが、現代的に言えば、矛盾の統一・止揚の原理として、また、とくに変革・実践の原理として考えてみたいと思う。
煩悩を菩提と開くのは、一つの飛躍であるかもしれない。それを可能にするのは、いわゆる仏力・法力、すなわち教法そのものの功力でしょう。だが、もう一面から言えば、信力・行力――つまり、信仰者の主体的な実践がなければならない。煩悩を菩提に転換する「即」には、信仰実践という強靭な発条が秘められている。
現実には、さまざまの苦悩があり、矛盾がある。その現実から逃避してはならない。現実と妥協し諦め、眠りこけてもいけない。あくまで現実を直視しながら、その変革への限りない辛労をつくしていくところに、煩悩生死を菩提涅槃へ開き、昇華させでいく生命流の湧現があるのでしょう。
根本 たんなる瞑想や観想によって開かれるものではないわけですね。
池田 そうです。
紫式部には、この煩悩と菩提とのあいだにある越えがたい径庭は、かなり見えていたにちがいない、と思う。
出家遁世を願い、口にすることは、王朝貴族たちの一つの型にさえなっていたようです。厳しく言えば、それは浄土往生への免罪符を手にするためであったかもしれない。それだけに、紫式部には、かえって反発する気分もあったらしい。権門に仕える僧侶たちの実態も知悉していたでしょう。
根本 権力と癒着した宗教というのは、かならず本来の使命を喪失していくものですね。
池田 ええ、そう思います。
深い無明煩悩の心を自覚し、根本においては救済を信じながら、どこにも依処とすべきものを見いだせない。それが光源氏や薫の嘆きだったわけです。
「幻」の巻の光源氏の歌は、
死出の山
越えにし人を
慕ふとて
跡を見つゝも
なほ惑ふかな(大系17)
であり、そして最終巻「夢浮橋」での薫の歌は、
法の師と
たづぬる道を
しるべにて
思はぬ山に
踏み惑ふかな(大系18)
というものです。これはまた、『源氏物語』の作者の胸中の声でもあったのでしょう。
私はあまりに、仏教的視点に重きを置きすぎてきたかもしれません。『源氏物語』はあくまで一個の文学作品として読まれ、味わわれるべきものであることは、繰り返して言うまでもない。ただ、その偉大な文学性、世界性は、なによりも作品の宗教的、思想的課題の深さを基底にしていることは疑いえないのではないでしょうか。
それは現代文学の方向性を考えるうえにも、一つの示唆を与えるものではないかと思うのです。