Nichiren・Ikeda
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法華経の習熟度
「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)
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1 根本 紫式部は、相当に経典を読んでいたようですね。
池田 ええ。かなり習熟していた、と考えられます。
一条兼良の『花鳥余情』三十巻は、有識故実の『花鳥余情』や北村季吟の『湖月抄』などは、『源氏物語』における仏典の摂取、影響について、ずいぶん詳しく論じていて、興味深い注釈書ですが、たとえば、雨夜の品定めの叙述は、法華経の三周の声聞に対する説法の形式を借りているというのです。
根本 三周の説法というと……。
池田 法華経方便品で、釈尊は「諸法実相」の法理を説くわけです。このときは、上根の舎利弗だけが、その妙理を悟る。これが法説周です。
さらに、他の声聞の弟子たちのために、譬喩品で三車火宅の譬喩を説く。これによって、須菩提、迦栴延、迦葉、目連の四大声聞が領解し、悟りを得ることができる。これを譬説周という。これでも、まだ領解しない、富楼那などの下根の声聞のために、宿世の因縁を説いていく。それが因縁周。化城喩品ですね。
「雨夜の品定め」では、まず最初に、一般的な女性論が語られ、それから譬えを用い、最後に各自の体験が語られるという構想になっている。これが、三周の説法を模したものだというのです。(笑い)
根本 なるほど、しかし、女性論に応用する、というのは、いささか不謹慎のような……。(笑い)
池田 まあ、いいでしょう。(笑い)
ともかくこれらは、まだ表面的な影響性の部分です。『枕草子』などを見ても、法華経が、仏教の代表的な経典として、当時の知識人たちの常識になっていたことはたしかですから、このくらい引用や摂取があったとしても、考えてみれば、べつに不思議はないわけです。
根本 現代では、知識、教養としてさえも、仏教について無知になっている。むしろ、平安時代の人のほうが、驚くほどかもしれまんせね。
池田 ええ。まえに論じた『古事記』などと比較してみても、『源氏物語』のほうが、当然とはいえ、摂取の深さ、広さは顕著になっている。
『古事記』の場合は、どちらかと言うと、文章構成上の技法や用語についての影響性でしたが、『源氏物語』では、はっきりと内容的なものにまで進んでいると言っていい。
根本 物語の主題に、深く関わっているということですか。
池田 そうです。私は『源氏物語』の思想性について論ずるには、仏教思想、とくに法華経の問題は、絶対に看過することができないと思う。
仏教は、人間の生老病死という問題から出発して、それをさまざまな角度から解明し、また、その克服、救済の方途を提示している。
それは結局、生命の究極にあるものの悟達に帰着する。天台の一念三千の生命哲理は、法華経を機軸にして展開された、いわば仏教の哲学的な精粋の結晶です。
文学は、人間の現実相に即して、やはり永遠、究極なる実体への追究を試みるものだ言える。十界論で言えば九界の、九識論で言えば六識または七識の立場から、仏界の境界、九識の究極へ迫るものと考えたい。
根本 『源氏物語』の根本思想と言うと……。
池田 それは、例の「螢」の巻の物語論に、明らかにされている。ここは物語本質論であると同時に、作者・紫式部の内面の主題を表現しているものとみたい。
「仏の、いと、うるはしき心にて、説きおき給へる御法も、方便といふ事ありて、さとりなき者は、こゝかしこ、たがふ疑ひを、おきつべくなん。方等経の中におほかれど、いひもてゆけば、一つ旨にあたりて、菩提と煩悩との隔たりなむ、この、人のよしあしきばかりの事は、かはりける。よく言へば、すべて何事も、むなしからずなりぬや」(大系15)
つまり、物語論に仮託しながら、人間の生死、燃悩の問題をはっきりととらえている……。