Nichiren・Ikeda
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唯識論的な人間分析
「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)
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1 根本 前回は、光源氏の人間像にふれて、紫式部の人間把握の独創性を指摘されましたね。この点について、もう少し敷衍してみたいのですが……。
池田 古い物語文学と比較して、『源氏物語』には、非常に新しい、近代的な人間理解が見られます。人間の性格を、一面的、固定的にとらえていないという特徴です。
根本 それは、まえにも言われたように、作者の、独特な内面的凝視の資質によるところが大きいわけですね。
池田 そう思います。と同時に、やはり、仏教思想の影響性が強く感じられてなりません。たとえば唯識の思想のような……。
根本 仏教の基本的な教理ですね。五官の感覚を前五識とし、意識を第六識、思量分別を第七識(末那識)とし、さらにその奥底に深層の領域を見る――それが第八識ですね。
池田 そう。阿頼耶識です。無意識の深淵にひそむ人間の根源的なものを追究して、そこに善悪無記の根本を発見しようとしたのです。天台は、さらに第九識として根本浄識を立てて掘り下げた。
そうした教理についての理解が紫式部には、ある程度、あったにちがいない。知識としてはともかく、直観としてかなり深く体得していたと思うのです。
根本 一般的にも、すでに仏教思想が、相当深く浸透していた
池田 そうです。かなり内面化されていたと言っていいでしょう。
根本 その点で、たとえば『源氏物語』に、しばしば出てくる物の怪というのはどう考えたらいいか――あの、六条御息所の怨霊というのは、怪奇譚としてみても、不思議な現実性がありますね。
池田 一つには、当時の生活様式も影響しているのではないでしょうか。とくに、現代人には想像できないような室内の暗さ……。ちょうど石油不足で、ネオンの消えた夜の街みたいで(笑い)――ほのかな灯明しかなく、御簾や凡帳で隔てられた薄暗い室内を考えないと、あの恐怖感は理解できない。
根本 物の怪の存在が、深刻に信じられていたのも無理はないわけですね。
池田 迷信として、一笑に付すこともできるでしょう。が、紫式部のとらえ方は、ちょっと違うようです。六条御息所の無意識の心理にひそむ怨念であるとも言える。だが、御息所の霊を見るのは、いつも光源氏自身ですね。私はむしろ、それは光源氏の深層に秘められたものの表現ではないか、という仮説を立ててみたい。
つまり、光源氏の表面的な意識の範囲では自覚されていない罪の意識、もう一つの自我といったようなものを形象しているように思えてならない。
根本 なるほど、それはおもしろい観点ですね。唯識論との関連も考えられるし……。
池田 そこまで直接的には、結びつかないかもしれない。作者の鋭い観察力が、たまたま唯識論的な人間分析と合致している面をもったと考えるのが妥当のように思えますがね。