Nichiren・Ikeda
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人間把握の独創性
「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)
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1 根本 なるほど、そう見れば主題が一貫しますね。――だが、まえに言われたように、その新しい試みは、未解決に終わるわけですね。
池田 それは作品としての形象化の限界でしょう。それに文学の立場は問題の解答ではなく、その試み、いやむしろ問題の提示にあると言えるかもしれない。そういう意味で、第三部が書かれたのは、いかにも興味深い。小説として見ると、第二部が、もっとも躍動し、充実しているかもしれませんが。
根本 第三部の興味は、主として思想的なものですか。
池田 思想的といっても、西洋の小説によくあるように、高級な思索や深遠な議論が述べられているわけでは、ない。しかし、自己の出生の秘密を疑い、なにか永遠の憂愁めいた思いをいだきながら登場してくる薫に、私はふと『ファウスト』などを連想せざるをえない。
「匂宮」の巻で、薫が、「いかなりける事にかは。何の契りにて、かく、やすからぬ思ひ添ひたる身にしも、なり出でけん。瞿夷太子の、我が身に問ひける悟りをも、得てしがな」(大系17)と言ぃ、「おぼつかな誰に問はましいかにして始めも果ても知らぬわが身ぞ」(大系17)と自問するところがある。
もちろん、薫の生き方には、「世界をその最も奥深いところで統べているものを、これぞと認識することもでき、一切の作用をひき起とす力と種子(たね)とを観照し、もはや言葉の詮索をすることもいらなくなる」(ゲーテ『ファウスト第一部』相良守峯訳、岩波文庫)と、行為によって、人生を体験しつくそうとするファウスト的な強さ、積極性はない。薫の求道心は、あくまで情趣的な世界のワクのなかにとどまっでいる。受動的であり、諦観的です。
根本 それは薫の――というより、作者の生きた時代、社会の宗教意識の反映ですね
池田 そう思います。
紫式部にしても、現代の社会的、思想的状況からは、自由ではありえない。だが、光源氏や薫を宗教的人間としてとらえることによって、『源氏物語』の世界は深められ、人間の永遠の問題に参与することになったのだと思える。さらに言えば、恋愛人、権勢人、宗教人という三つの要素を、バラバラなものとしてではなく、いわば同心円的な構造において、作者は描いている。そこに、作者の人間把握の独創性があるとみたい。