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日蓮大聖人・池田大作

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宗教的人間としての側面  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

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1  池田 これは主題の展開のしかたとも、関連していると思う。そこで、光源氏と薫の人間像をどうとらえるか、という問題を提起してみたい。
 光源氏には、三つの側面があるように思える。それは――恋愛人、権勢人、宗教人、という三つの像です。
 まえの二つは、すでに指摘されたように、第一部の基調をなしていました。光源氏を、たんなる恋愛至上主義者に終わらせず、測り知ることができない政治的人間としても描いたのは、作者の社会認識の鋭さを示していると思う。
 根本 「日本紀の局」と綽名あだなされたという紫式部の、女流作家には珍しい、歴史に堪能な面が、よく表れていますね。
 池田 もっとも王朝物語の常として、権謀術数は明らさまには描かれない。マキャベリ的と言うには、あまりに優雅な挙措ですが、権勢人としての側面は、光源氏の性格に、立体的な厚みを加えていると言っていい。
 根本 とくに、柏木との対決の場面は、光源氏の性格の奥行きを示して、非常に迫力がありますね。秘密を胸にいだいて悩む柏木に対し、すべてを知りながら、さりげなく空酔いのていをして、「すぐるよはいにそへて、ひ泣きこそ、とゞめ難きわざなりけれ。衛門のかみ、心とゞめてほゝまるゝ、いと、心恥づかしや。さりとも、今しばしならむ。さかさまに行かぬ年月よ。老いは、えのがれぬわざなり」(大系16)とほのめかすところです。
 池田 たしかに圧巻ですね。
 しかし、光源氏の性格に、さらに深みを与えているのは、その宗教的人間としての側面であるとみたい。これによって、物語の世界の核心に、無常・生死という人間苦の本質的問題が、正面から追究されることになったと思う。
 根本 それが、第二部の基調になっているわけですね。
 池田 これは一つの考えですが、あらゆる優た資質を円満に具備した理想的な人間という、光源氏の設定には、仏典に示されている三十二相・八十種好をそなえた、いわゆる色相荘厳の仏身というイメージがあったような気がする。
 まばゆいばかりの光明に厳飾された相というのは、古代日本人が、仏典をとおして受けとめた「仏」のイメージです。天照大神にも、その影響あるという説もある。
 薫にも、若干、その要素が見られる。とくに、その身体から放たれる芳香は、「東屋」の巻の女房たちが、法華経薬王品に説かれる牛頭栴檀ごずせんだんの香りのようだ、と賞賛しているくらいです。
 根本 仏・菩薩の化身であると……。
 池田 第一部で、高麗の相人や宿曜師の予言が成就して、現世の栄華を極める光源氏には、明らかに、そのイメージがある。六条院は、地上における仏土、浄土と考えられていた、と思う。
 ここには、享楽的な貴族生活を肯定し、そこはかとない不安の意識をまぎらすために、法成寺や平等院を建立した権力者たちの姿が、投影している。
 ところが、物語はさらに展開していく。いわば第二部は第一部の批判、否定であり、新たな統合のための止揚です。それはもはや夢想的な彼岸憧憬の現世化の物語ではない。現世の栄華も無常であるという認識のもとに、作者は光源氏に、恋愛や政治をこえた、より困難な課題を背負わせている。つまり、無常の現実をいかに生き、克服するか。いかにして人間の救済はあるのか――という課題です。
 根本 求道者、宗教的人間としての光源氏が誕生したわけですね。
 池田 そうです。だが、物語の世界の光源氏には、もうそれ以上、主人公としての発展の可能性はない。薫を主人公とする第三部は、光源氏が生涯をかけて逢着した問題を、新たな舞台で試みるという構想ではないか。薫は血筋では光源氏の子ではないが、精神的には嫡出子と考えていいと思う。

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