Nichiren・Ikeda
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十界論の範疇から
「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)
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1 根本 だいたい、どんな思想も、貴族や、僧侶や、知識人の世界に入ると、飾り物の知識、教養になってしまいやすい。(笑い)
池田 根本先生は別ですよ。(笑い)
仏教に十界という範疇がある。現実にあてはめて言えば、六道というのは、人生の基本的な境涯ですね。日々の生活は、六道輪廻で、その絶えざる生起を繰り返している。そして喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しんだり……。
この現実を無常として観る――それは、それなりに満ち足りた生活に対して、反省的な、批判的な意識を働かせているのですね。十界論でいう二乗(声聞・縁覚)――つまり知識人の境涯といえる。これも、一つの悟りであるにちがいない。
だが、二乗の悟りは、どうしても観念世界に閉じ込められる傾向がある。一種の美的、あるいは哲学的陶酔状態におちいって、とかく自己完結しやすい。無常観が、その出発点においてもっていた生き生きとした、ダイナミックな生活現実への意志力、復原力が喪われている……。
根本 『源氏物語』の人物たちの道心、宗教心には、たぶんにそうした現実厭悪の調子が見られますね。
池田 もちろん、一般にも、宗教を求める動機というのは、安定した現実生活に、大きな亀裂を生じたときに、もっとも端的に現れるものでしょう。つまり、それによって、これまで揺るぎないものと信じてきた自己の生存の基盤への疑いが生じるわけですね
しかし、王朝の貴族には、それがパターン化しているようです。それだけ仏教的な観念が普及していることを証明していると同時に、すでに常套化され、きまり文句になっていたとも考えられる。
根本 物語のなかでも朱雀院、薄雲女院(藤壷中宮)、朧月夜、空蟬、女三宮、浮舟など、いずれも政治的な状況とか、のつぴきならぬ矛盾に追いつめられて、まさに現実から離脱し、避難するというかたちで、出家していますね。
池田 一方で、二人の主人公――光源氏と薫の場合には、作者は、容易には出家遁世させていない。そこに、紫式部の重要な構想上のポイントがあったと思えてならない。
根本 光源氏の場合は、出家する直前のところで、筆が止められている。今日、名前だけ残っている
「雲隠」という巻に、その叙述があったとも言われていますが、これはやはり、初めから書かれていなかったと考えるべきでしょうね。
池田 そうだと思います。
根本 薫のほうは、二十八歳になるまでで、物語自体が終わっている。出家したのかどうかは、まったく不明です。もっとも、本来、これで完結しているのではないとも考えられていますが。
池田 宇治十帖を執筆しはじめた当初の構想では、「夢浮橋」以後の展開が考えられていた、と私は推測してみたい。作者は薫に、もっともつと、人間葛藤の世界を遍歴させようと意図していたような気がする。いろいろな伏線のはり方で、そう考えるのですが……。
だが、物語は中断している。それには、作者の死とか、種々の事情があったかもしれない。しかし私は、むしろ、それは未解決の解決というか、物語としての必然的な中断だった、とみたい。
根本 そのために、かえって不思議な余韻が残っていますがね。