Nichiren・Ikeda
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思想的なバックボーン
「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)
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1 池田 文学の本質論としては、私もそのとおりだと思う。文学作品から、勧善懲悪的な教訓や、イデオロギー的な解釈を導きだそうとするのは誤りであるにちがいない。
ただ、まえにも言いましたが、「もののあはれ」という理念は、あまりにも情緒的に解されすぎているように思われてならない。私は「もののあはれ」というのは、現実の人生苦に肉薄し、超克しようとする主体的な姿勢のなかに、凝結してくるものとみたい。
根本それは仏教の本質、むしろ出発点でもあるわけですね。
池田そうです。あえて言えば、宣長は仏教への反感から、その真髄を誤解していると思う。そこに彼の国学主義の偏見がある。もっとも、当時の仏教界の状況や、教義のドグマ化を見れば、それも理由のないことではない……。
根本 固定した教義に縛られた立場から解放しながら、それ自体、やはりあるイデオロギーに制約されている。
池田 たとえば、紫式部が、天台教学を物語として展開したと考えるのは、宣長も言っているように、たしかに作者の本意ではない。だが、式部の精神的、思想的なバックボーンに、そういうものが絶無であったか――となると、それを否定するのは、あまりに狭い見解だと言っていいのではないでしょうか。
根本 同感です。
池田 たとえば、ミルトンとか、ダンテとか、またはユゴーでもいい。その作品が、キリスト教を根底としていることは事実ではないか。もちろん、それはキリスト教の宣伝文書ではない。キリスト教徒でない日本人が読んでも、十分感動することができる。
そこにはたしかに、普遍的な人間の真実が浮き彫りにされているからです
私は特定の宗派や教義を問題にしているのではない。宗教思想を基盤にもたない傑作はないなどと言うつもりもない。だが、文学が人間の生存の根底から発したものであるなら、そこに宗教、信仰という次元からの光を当ててみるべきだと言いたいのです
根本 より深く作品を理解する鍵として、という意味ですね.
池田 宗教を否定し、軽視する近代の傾向にとって、宣長の物語本質論は絶好の武器だったように思える。
しかし、その受けとめ方に、安易なものがなかったかと思うのです。
一例を言えば、「柏木」の巻で、光源氏が、じつは柏木右衛門督と女三宮の子である薫の誕生にさいて、「『わが世とゝもに、おそろし』と思ひしことの報いなめり。このよに、かく、思ひかけぬ事にて、むかはりきぬれば、後の世の罪は、すこし軽むらんや」(大系17)と、かつての義母・藤壺中宮との密事を省みて、想いに耽る箇所がある。
これを運命の皮肉として受け取るのは、いわば三世の因果観を無視した、現代的観念です。この個所には、もちろん、それだけで読んでも迫真性はある。
しかしそれでは、光源氏の胸奥を震撼させたものの実体は、わからないでしょう。
根本 たしかに、宗教、信仰の基盤のない倫理、道徳というものは、ほとんど考えられないのですから、古典を理解するために、政治、経済や、社会的な背景だけでは、十分ではない。宗教的、思想的な角度からの分析が、より重要な意味をもつわけですね。
池田 近いものはよく見えないものです。だから西欧文学を理解するためには、キリスト教という思想的基盤を重視する必要があると説く人でも、日本の古典における仏教の影響性は、意外に見すごしている場合がある。
だが、たとえば『復活』や『罪と罰』、などから、宗教性をまったく除いてしまったならば、深刻ではあるが、かなり通俗的な悲恋小説、犯罪小説になりかねないでしょう。
同様に、私は『源氏物語』から、宗教性を抜いたら、一つの風俗小説にすぎなくなってしまうと思えてならないのです。
根本 かならずしも、特定の宗教思想が作品中に展開されているか否か、ではない……。
池田 そうです。
文学作品というのは、思想や信仰が、なにもナマに出てくる必要はない。それらは、いわば作者の精神の坩堝のなかで、練られ、鍛えられ、昇華されければならない。
宗教性、思想性は、作品の骨格をつくるものであるが、それだけでは痩せこけたものにしかならないでしょう(笑い)。当然、表現という豊かな肉づけが必要です。