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仏教公伝と歴史編纂  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

前後
1  池田 さて、少し回り道をしてきたようですが(笑い)、しかし『古事記』の成立事情を考えるうえで、これは必要な道草と言っていい。というのは、おそらく『古事記』の原型をなした『帝紀ていき』や『旧辞きゅうじ』には、すでに多くの中国古典とともに、仏典の摂取、影響があったと考えられるからです。
 根本 推古二十八年(620年)に、聖徳太子が蘇我馬子そがのうまこと議して『天皇記』『国記』等の記録を行った、という『日本書紀』の記事は、日本の編纂の記録としては、最古のものです。
 だが実際には、それ以前に、すでに歴史の記録は相当進んでいたと考えられる。五世紀には、帰化人も多くいて、倭王武わおうぶの上表文などの漢文の例もあり、さらに七世紀の推古朝遺文では、漢字を表音文字として使い、日本語を表現している。日本神話のもとになった『旧辞』は、六世紀前半の継体けいたい朝から、中葉ちゅうよう欽明きんめい朝にいたる時期に、記録化されたものとされている。
 仏教公伝が、まさにそれと時期を同じくするというのは、非常に意味深いことですね。
 池田 そのとおりです。
 すでに仏教渡来以前においても、インド文化は日本に伝わっていた。日本神話の伝承のなかには、ずいぶんそのイメージが、摂取されているにちがいない――と、私はあえて推測してみたい。
 さらに、それが記録化される時期にあたっての仏教伝来の影響は、かなり決定的なものであったとみていいのではないか。
 決して我が田に水を引くわけではないが、それは容易に想像することができる。そして、天武朝から元明朝における『古事記』の最終的な完成において、漢訳仏典が、その表現方法と思想内容に与えた影響は、無視することができないものである。そんなふうに要約して言えるのではないかと思うのです。
 根本 『古事記』については、撰述者の太安万侶おおのやすまろを通じて表現されたとみられるでしょうね。
 池田 そう思います。私はすでに、太安万侶に一個の文学精神の誕生をみたい、と言いましたが、――その場合、彼がもっとも多くよりどとろとしたのは、漢訳仏典、なかんずく法華経と維摩経であった、という事実を、神田秀夫教授が鮮やかに、かつ明快に論証(『古事記の構造』明治書院)しています。

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