Nichiren・Ikeda
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聖徳太子の仏教理解
「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)
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1 池田 仏教ということになると、『ヴェーダ』の神々も、ずいぶん採り入れられていると言える。
たとえば、インドラは、仏教では釈提桓因、つまり帝釈天と呼ばれる、仏法守護の善神になっている。
また、忉利天(三十三天)というのは、ヴェーダの神々の一群を総称したものです。
根本 日本の民間信仰では、いろいろな例があげられます。水天宮というのは、『ヴェーダ』の神ヴァルナが、仏教で「水天」となり、日本にきて神社となった。弁天というのも、仏教では弁才天で『ヴェーダ』では湖沼の女神だったそうです。
池田 大黒というのは、庶民に親しまれた七福神の一つですが、これはヒンドゥ-教のシヴァ神の別名の漢訳だと言われる。日本では神話の大国主命と、音が似ているところから、同一視されて信仰されるようになったものです
また金毘羅の本体は、ガンジス川の鰐を神格化したものです。
これなどは、かなりの変身ですね。(笑い)
根本 ところで、仏教と『古事記』の関係ですが、――『古事記』の成立は、仏教公伝から、およそ一世紀半を経ている。公伝は、五三八年というのが通説ですが、実際には、もちろんそれ以前にも、帰化人によって伝えられていた、と見るのが自然ですね。
また、カマド塚という古墳があります。これは六世紀のものですが、明らかに火葬が行われたことを示すもので、すでに仏教的な習俗が、民間のルートで伝播されていた一つの証拠とされている……。
池田 習俗は、比較的早く移植されても、高度な思想の理解や、一般への浸透は、ずっと後のことにならざるをいない。
私は、こうした思想の交流や継受にあたって、つねに先覚者というか、かならず先駆的な役割を果たす指導的人物が存在していた、という事実に注目したい。
異質の風土と精神的地盤のなかで、東西の接点に立って、相互の融合と定着のために、悪戦苦闘して道を切り開いた人々の、生涯をかけた献身的な営みがなかったならば、――おそらく、文化の交流も、文明の進展も、なかったであろうと考えます。
根本 日本における仏教の受容についての、最初の偉大な先覚者となると、やはり聖徳太子をあげなければならないでしょうね。
ただ、聖徳太子については、近来、評価が分かれている。たとえば、有名な十七条憲法にも偽作説があり三経義疏さえも、太子の撰ではないとする説もありますが……。
池田 かつての理想化の反動として、偶像破壊的に、種々の批判がなされることは、時代の趨勢でもあるのでしょう。しかし、すべて抹殺しさえすればよいというのでは、歴史の真実像はとらえられないと思う。
聖徳太子については、興味のある問題なので、さまざまに論じられているようですが、結論的に言って、三経義疏は、太子の制作であるが、書生に口述筆記させたものであるという説(大野達之助『聖徳太子の研究』吉川弘文館)が、もっとも妥当だろうと思います。
ともかく聖徳太子が、稀に見る深い仏教理解者であったことは、種々の徴証に照らして、疑いえませんね。
根本 太子の死後、妃の橘大郎女が、その死を悼んで造ったとされている天寿国曼陀羅繍帳については、どうですか。その「天寿国」というのが何を意味するか――阿弥陀浄土とする説と弥勒浄土とする説とが、有力なものですが。
池田 たしかに、西方浄土の思想も、この時代にはすでに受容されていたと推測される。弥勅信仰もあったかもしれない。
しかし、私は、太子の仏教理解が、法華経を最第一とするものであったことから考えてみると、それは霊山浄土の表現であったとみたい。聖徳太子の信仰内容から、それがもっとも自然な見方ではないかと思います。
法華経 八巻二十八品から成り、開経(無量義経)と結経(観普賢菩薩行法経)を入れて十巻ともいう。釈尊一代五十年の説法中最後のそして最第一のものと言われ、哲学的な深さにおいても、他の経をはるかに凌駕している。鳩摩羅什の漢訳をはじめ多くの訳があるが、羅什訳が傑出している。
根本 天寿園、すなわち天竺(インド)であるという説もありますね。
池田 ええ。これはおもしろい考え方ですね。その場合でも、たんに「天寿」と「天竺」の音が似ているというだけでなく、その根底に、インドを霊鷲山(霊山)の存在する国土として理想化する思想があったとみるのが、穏当ではないでしょうか。
根本 なるほど、そう考えれば、すっきりしますね。