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日蓮大聖人・池田大作

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太古の日本における世界性  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

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1  池田 いやいや、神様より人間のほうがいいですよ(笑い)。この神話なんかは、政治的な匂いはないと思う。説話、伝承に対する文学的な感興(かんきょう)から記録されたと考えられるのではないでしょうか。
 ところで、余談になるかもしれませんが、この話の起源を調べてみると、たいへん興味深いものがあります。――この説話は、もともとは民間の伝承だったものが、大国主命の神話にまとめられたのでしようが、これと類似の話が、朝鮮にもあるそうですね。
 根本 それは、『漢書』東夷伝とういでんに高句麗の建国者、東盟王の話があります。敵に川へ追いつめられた東盟王が、魚や亀が橋がわりに並んでくれたので、無事に向こう岸に渡ることができたという話です。
 池田 また、高天原たかまがはらから追放され、出雲へ降り立った須佐之男命スサノオノミコトの、有名な「八俣やまたのおろち」退治の話は、いろいろな解釈はあるが、こうした怪物退治の伝説は、世界的に広く分布していると言われています。「ペルセウス・アンドロメダ神話」というのですが、これはギリシャ神話で、怪獣に人身御供にされそうになる王女アンドロメダを救う英雄神の話ですね。そして、この型の神話は、紀元前一千年紀の半ばごろの、鉄、剣をともなう、西方から東方への大きな文化の流れによって伝播されたものであると、神話の比較研究学者、大林太良氏が指摘しています。(『日本神話の起源』角川書店)
 根本 天孫降臨てんそんこうりんの話なども、朝鮮の『三国遺事』に記されている檀君だんくん神話と酷似しているようです。
 池田 そういう例は非常に多いらしい。かつて高山樗牛は、日本神話とポリネシア地方の神話との類似を論じて、日本民族南方起源説をとなえたりしましたね。(『文藝及史傳下』、『樗牛全集』第三巻所収、博文館)
 根本 天孫降臨神話には、北方系の遊牧民文化の要素に、南方系の稲作文化の要素が混じりあっている――これらのことから起源論や、伝播経路について、いろいろな推測が試みられています。
 池田 それで、ただちに起源を決定するのはたいへんむずかしいでしょうが、神話の伝播力というのは、想像以上のものがあることは、間違いないと言っていい。
 ですから私は、太古の日本における世界性というか、世界のなかの日本という視野の広がりを痛感するのです。
 根本 古典、――とくに『古事記』などを論ずるときには、ふつう固有の文化というか、土着性の要素が強調されるのですが……。
 池田 もちろん、それを無視するわけではありません。日本神話とギリシャ神話との類似点も、かなりあると聞いたことがありますが、それだけで文化の普遍性の論証にはならないでしょう。
 また、普遍的なるものも、現実には、特殊的なもの、土着的なもののうえに初めて定着することができるわけですから――とくに『古事記』のような、一見、もっとも土着的、日本的なものと考えられている古典から、普遍的、世界的なものへの可能性を探るというのは、飛躍であるかもしれません。
 ただ、私は、土着性というものを、狭い、国粋主義的なワクのなかに封じ込め、「万世一系」とか『日本書紀』にも記されているように「天壌無窮てんじょうむきゅう」とかを誇示するような志向とは、訣別すべきだと思うのです。
 根本 民族や風土の独自性、個性を保存し、発揮しながら、同時に、それが普遍的なものへと連帯していく、ということですね。
 池田 ええ。もちろん、単純に図式的にいくものではない。だが、古代人の体験を昇華した神話も、時代と風土の相違を超えて、内観し、追体験できるとすれば、そこには、一つの時空を超越した人間の原点が示唆されていると言えるでしょう。
 つい最近のことですが、晩秋の一日、私は山陰の地に行ってまいりました。そのとき、神話の故郷である出雲路の散策を思い立ったのですが、松江の宍道湖にたたずみ、また、日本海に臨む日御碕ひのみさきに立って、私はふと、はるかな遠い時代に生きた人々の姿が、生き生きと蘇ってくるような気がしました。……それは、人間のロマンの永遠性というものが、実感として浮かんできたのでしょう。
 ともかく、古代の宍道湖は、まだ日本海につながっており、出雲大社は、海に浮かぶ島に建てられた社殿だったそうですね。現在の大社は、当時より、ずっと小さな規模のものですが、今でも太古の面影を伝えていると、土地の人が言っていました。
 私は、政治的に利用された伊勢神宮より、出雲のほうにこそ、ロマンとしての神話が、漂っているような気がしますね。そんな想いで、名残惜しく散策したものです。
  

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