Nichiren・Ikeda
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人間回復の可能性
「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)
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1 池田 一見、何か人間に絶望し、厭悪しているかのょうですが、その根底には、ふつふつとたぎるような愛が感じられます。「貧窮問答歌」にしても、決して読んで心愉しいものではない。長歌の末尾の「斯くばかり 術無きものか世間の道」(大系5)という句、また短歌の、
世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば(大系5)
にも、救いのない絶望の嘆息が聞こえてきますが、しかしやはり底を流れるものは、限りない人間への愛です。
憶良のこれらの詩的世界には、他の万葉歌人のような華麗な、または清澄な情趣は見られない。たとえば、
淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば情もしのに古思ほゆ(柿本人麻呂、大系4)
とか、
み吉野の象山の際の木末にはここだもさわく鳥の声かも(山部赤人、大系5)
とかいった絶唱と並べてみると、同じ歌集のなかにあるのが不可解なくらいです。しかし、貧窮や老醜、病苦等を主題にした憶良の歌は、真実をつきつめて歌ったという点において、やはり美しく感動的であると思うのです。
根本 貧窮とか、人生の陰の部分を主題とする詩歌は、憶良以後、永く空白のままでした、日本の伝統のなかでは。中国では、貧をテーマにした作品はかなり多いので、陶淵明などは、その代表ですね。もっとも彼は、貧乏生活を礼讃しているんですが。いわゆる人間嫌いというか、中国では官僚生活に愛想をつかし、官を辞して田園に帰る、そういう詩人のタイプがある。杜甫でも、李白でも、白楽天でもそうですね。世俗的には不遇ですが――。
ともあれ、私たちにとって『万葉集』は、失われたものへの郷愁を誘うとともに、また新たな人間回復の可能性を示唆している文学であると言えるでしようか。
池田 『万葉集』は私も愛読してきた書物の一つでした。その広々とした世界、巨きさには、いくら語ってもつきないものがあります。読むたびに、新しい発見の喜びがあります。
優れた古典がすべてそうであるように、人間が、このように生き生きと、豊かでありうることを確認し、追体験するほど、充実した喜びはないようですね。