Nichiren・Ikeda
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仏教的思想者としての憶良
「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)
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1 根本 少し話題が変わりますが、私が不思議に思うのは、奈良時代は仏教が盛んであった時代であるのに、万葉には仏教の影響、浸透が意外に之しいことです。
奈良には東大寺をはじめ相当な数の寺院も建立され、唐からは僧侶も渡ってきていた。大仏開眼などもあり、仏教美術は絢爛たる開花を示していたわけです。であるのに、仏教の思想的影響はほとんどないかに見える。
私なりに理由を考えてみると、一つは当時、伝来輸入された仏教が貴族仏教であったために、中央の一部教養人の間にのみ限定されていたのではないか。もう一つには、まだ生活に根づいた土着思想の牽引力が強くて、仏教が内面化し、定着するにはいたらなかったということが言えるのではないかと思います。
いわんや、民衆の信仰生活のなかに浸透するには、その時機がいまだ未熟であったのでしょう。
池田 現世が“仮合”のものであり、無常なものであるという認識は、一部にはあったようですね。大伴旅人の、妻の死にさいしての歌には「世間虚仮」という仏教思想が背景にあるし、
世間の繁き仮廬に住み住みて至らむ国のたづき知らずも(大系7)
という作者未詳歌には、死後の世界の観念が表れている。また、
世間を倦しと思ひて家出せしわれや何にか還りて成らむ(大系6)
の歌には、人生の無常観が意識されている。これらは厭世的、消極的な彼岸思想の芽生えと見てとれるでしょう。万葉末期の家持には、
うつせみは数なき身なり山川の清けき見つつ道を尋ねな(大系7)
という歌があり、「病に臥して無常を悲しび、修道を欲して作れる歌」という題詞がついている。しかし、求道の篤い志というより、政争の渦中にいた家持の現実逃避の願望を表したものとみるべきでしょう。
根本 思想的にみて、外来の思想・文化にもっとも接近した歌人は、山上憶良でしょうね。憶良は大宝元年(701年)、遣唐使少録に任ぜられて渡唐し、中国の文学・思想の影響を深く受けて帰国している。百済系帰化人の子孫であるという説もあるが、ともかく万葉のなかでは特異な存在ですね。
池田 万葉の抒情詩の主流に、東歌、防人歌の民衆詩の流れが入って、万葉の世界は豊かさを増したように、憶良によって、それはまたひときわ、拡がり、厚みを加えたと考えられます。詩的な流露感という点では、たしかに、やや之しい面のあるのは、いなめない。
しかし、人間苦の根本に肉薄していく彼の風貌には、どこか求道者の面影が感じられます。仏教の真髄というものを、表面的に無常観とか浄土思想としてとらえず、人生の苛酷な現実を直視していく姿勢にあると考えるならば、憶良こそもっとも仏教的な思想者であると言えるかもしれない。ちょうど、釈尊が、その時代の現実のなかで、生老病死という本質的な人間苦と対決していったのと、相通ずるものがあるようです。
根本 彼の代表作は「惑へる情を反さしむる歌」「子等を思ふ歌」「世間の住り難きを哀しぶる歌」等と、そして最大の傑作「貧窮問答歌」です。それらの「序」は、明らかに仏教思想を前提として書かれています。
瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処より 来りしものそ 眼交に もとな懸りて 安眠し寝さぬ(大系5)
という親子の本能的な愛についての思索を、こんなふうに問いつめたのは、憶良のほかには例を見ません。
また、「世間の住り難きを哀しぶる歌」の、無常と老醜についてのリアリスティックな描写は、類のないものですね。