Nichiren・Ikeda
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庶民の歌の真摯さ
「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)
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1 根本 本当の詩は、充実した生活のなかから生まれるということですね。しかも、古代人の生活は、共同体の地盤にしっかりと根づいており、制作された歌も、たとえば「歌垣」というような共通の場で、交換され、輪唱され、伝承されていったのですから、創作を純然たる個人だけの精神活動の所産である、と考える現代の観念では割り切れないものがあります。
池田 『万葉集』を繙いて、私がいつも感銘するのは、万葉というこの巨大な山脈をかたちづくっているのが、柿本人麻呂とか、山部赤人とか大伴旅人、山上憶良とか、大伴家持などといった傑出した大歌人たちだけではない。“作者未詳”の歌、そしてわずかな数首ずつを残しているにすぎない多くの無名歌人の存在があり(ほとんどが下級の官人や庶民たちである)、それが、万葉の輝きを高めているということです。
それらの歌群は、有名歌人たちの秀歌と優に拮抗していると言ってよい。貧しく、身分の低い庶民たちが、自分なりの生命を輝かせている姿、仏法で説かれる“自体(じたい)顕(けん)照(しょう)”ともいうべきその真摯さには、胸を打たれずにはいられません。
私が東歌や防人歌に、特に心ひかれるのは、そのためです。
根本 東歌は、共同体の場で、皆の共感につつまれながら愛誦されたものですね。『万葉集』では、巻十四に収録されていますが、東国の民衆の、労働と土の生活から謳いあげられた純朴な心情が、豊かな地方色と、健康な野趣にあふれて表現されています
池田 庶民の心が、――美しいものは率直に美しいといい、生活の真実によかれあしかれ、目をそむけずにぶつかっていく心、それがいたるところに横溢している。いわば文芸意識にいたる以前の生活実感が歌になったと言える。ある意味では類型的な表現も多いのは事実でしょうが、それも、それだけ民衆の共通感情が成熟していたことの証左でもあるでしよう。
根本 根本東歌にも、「相聞」――恋の歌が多い。大胆で直接的な表現で、びっくりするようなものがあるが、それにも、現代の文明先進国での性表現のような、変にじめついて、病的な感覚はまったくない。おおらかとしか言いようがない。(以下、大系6より)
上毛野安蘇の真麻群かき抱き寝れど飽かぬを何どか吾がせむ
強烈ですが、厭な感じはしませんね。
池田 また、非常に優れた情趣を湛えた歌も少なくない。
信濃道は今の墾道刈株に足踏ましなむ履着けわが背
そこには、旅をする夫の身の上に寄せる妻の情愛が、さわやかに出ています。
日の暮に碓氷の山を越ゆる日は夫なのが袖もさやに振らしつ
吾が恋は現在も悲し草枕多胡の入野の将来も悲しも
これも巧まずして微妙な心のありようを伝えています。
根本 こういう真実の人間讃歌を謡(うた)う詩歌が、東歌以後の日本の文学的伝統のなかでは、ほとんど継承されていないのは、じつに残念ですね。それにしても、都から離れた地方で、これほどの歌が作られ、かつ集められて残されたということは、たいへんなことだと思わざるをえません。
これは、都と鄙という一応の区別はありながら、それをこえた共通感情があったと言えるのではないか。また、それをあわせてまとめた編者の見識はたいしたものだと思います。
2 99999999 民衆の記録・防人歌
3 池田 そうですね。天皇の歌と一緒に、国家体制に反撥したりするような民衆の歌も入っていますし……戦前だったら、厭戦、反戦思想として、発禁になるか、削除されるかするようなものまで。
根本 その点で、防人歌は興味深い。九州(太宰府)防備にかり出された東国人の愛別離苦が歌われ、時代をこえて訴えてくるものがありますね。防人は、東国から難波にくるまでの旅費は、すべて自弁であったし、陸路、海路の旅もたいへんであった。故郷の父母や妻子への別離の情は、今読んでも、惻々として迫るものを感じますね。
池田 東歌のあの素朴な響きの裏側に、防人歌の悲しみがあったということは、いつの時代にも、権力に使役され耐え忍ばざるをえない民衆の運命を、暗示しているように思えてならない。この悲しい宿命
は、断じて変えねばならないと思うのです。
しかし、それはそれとして、苛酷な運命にじっと耐え、ぎりぎりの想いで歌った防人歌は、民衆の貴重な記録であり、極限的な条件のなかで結晶した稀な文学だと言っていいのではないでしょうか。
根本 いくつか引いてみます。(以下、大系7より)
畏きや命被り明日ゆりや草がむた寝む妹無しにして
公の義務の意識によっても消すことのできない妻との別れの悲しみですね。また、
家にして恋ひつつあらずは汝が佩ける大刀になりても斎ひてしかも
という防人の父親の歌もある。
父母が頭かき撫で幸くあれていひし言葉ぜ忘れかねつる
これは年若い防人の歌でしょうか。
池田 妻の歌もありますね。
防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思もせず
それから、胸せまる哀感のこもった、こんな歌もある。
韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして
これなどは、作られた歌というのでなく、酷い運命に直面して噴きでた魂の共鳴そのもののように思えてならないのです。それでいて、いたずらに喚いたり、抽象的・概念的な言葉でかざったり、というふうなところがまったくない。むしろ、淡々と具体的に叙述するだけで、強く訴えてくる、これが『万葉集』の特徴ですね。
根本 ところで、例外的にではありますが、なかには戦時中に、愛国百人一首に加えられたような“減私奉公”の見本のような歌もある。
今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つわれは
これは“火長”という下級指導層に属する者が、名誉欲、出世欲にかられて歌ったものだという指摘がされていますね。
池田 そうかもしれません。いわゆる下士官根性というものもあるのでしょう。しかし私は、この歌の作者にしても、決して家族との別離に心を動かされなかったわけではないと想像するのです。それを振りきるようにして、みずからを鼓舞しているのではないでしょうか。彼もまた庶民層の一人であったことには間違いないので、むしろ、私はそういう誤った方向への使命感にかり立てていったものを憎みたいと思います。