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日蓮大聖人・池田大作

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“万人が創造者”の魅力  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

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1  根本 率直な表現は浅い、という錯覚ですね。万葉の歌をみていると、同じ言葉の繰り返しがよくあります。
 私たちですと、気になって、別の言葉を使おうかと考えるのですが、万葉人は、平気で同じ言葉を使う。それでいて、決してマンネリズムにならないのは不思議です。自然な感情の発露がもたらす強さがあるのですね。
 池田 同じ言葉であっても、それを用いる人の内面の充実度が、表れるのでしょう。言葉というもの、また声の響きには、その人の生命が集約され、凝縮されるのだと私は考えます。それが短い詩歌のなかには、端的に表れてしまう。
 よく挙げられる例ですが、『万葉集』のなかにある、
  ももしきの大宮人はいとまあれや梅を挿頭かざしてここに集へる(大系6)
 という歌の下句を、『新古今集』などでは「桜かざしてけふもくらしつ」(大系28)と改めて載せていますが、同じように見えても、響きの強さは異なっている。
 根本 そういう違いをもたらす根本は何でしょうかね。万葉以後の歌集の時代になると、歌が、風流の遊びになったり、社交の手段になったりしている。また、貴族、僧侶などの専門的な文学知識人という階層が成立してきますが、それに反して、歌の内容の実在感リアリティーは稀薄化していくのですが……。
 池田 万葉の歌は、少し誇張して言えば、古代の人々の魂の燃焼の譜であると言えるのではないでしようか。そこには、おそらくジャンルの意識もなかったでしょうし、いわんや、それがどのような社会的な効果をもたらすかといった計算などは之しかったでしょう。
 ただ、何か表現を求めてやまない感情のたぎりがあり、胸奥から噴きあげるものが存在していた。だから、表現技法は、まだ稚拙なものであるかもしれないが、そのかわり、現実の骨格と肉体とを持った真実の感動があった。
 根本 表現するに足る、――というより、表現せざるをえない、生きた生活の現実があったということでしょうね。考えてみれば、詩歌に限らず、文学も、哲学も、結局は、生活からかけ離れたところに孤立してあるのではなく、生活のなかに、生の追求のなかにあるのだと思われます。
 万葉人たちには、大系的な哲学などはなかった。しかし、生きた思索はあったのでしょう。真実に人生に取り組んでいる人には、多少なりとも、哲人の風貌が秘められているはずです。万人が「哲学する心」を持つことが望ましいと言いますが、『万葉集』は、文学の領域で、万人が創造者たりえた稀有の業績ではないでしょうか。
 池田 同感ですね。
 万葉の「葉」という語の意義には、言葉=歌の意とする説と、「代」の意味であるとする説とがありますが、現在では後者のほうが有力らしい。しかし私には、万葉とは、万の歌の集であると考えるのが、よりぴったりするような気がする。天皇、貴族から、兵士、農漁夫等の民衆にいたるまでの幅広い層を含む、この歌集の魅力は、まさに、万人が歌の創造者であり、同時に享受者であったというところに求められましょう。特定の層もなければ、イデオロギーもない。流派もむろんなかった――それらが渾然としつつ融和しているところに、言いがたい力の源泉があると思えてなりません。
 もちろんまだ、マスコミの支配もなく、商業主義的な文学の流布など夢にも知らない素朴な時代で、一部の宮廷歌人の存在はありますが、創作が、純粋に無償の行為だった時代と言っていいでしょう。錯雑さくざつした情報の過剰に、感受性が鈍らされるということもなかった。そこに、この厖大なな歌群の、人間的な輝きがある、人間の生きた声の響きがある――という発見の驚きが、現代人を強烈にとらえるのですね。

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