Nichiren・Ikeda
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後記
「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)
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1 この対談は、昭和五十八年(一九八三年)五月から十三カ月間にわたって月刊誌『潮』の誌上に連載されたものである。その後、潮出版社から全三巻の単行本として刊行されたが、それに若千の加筆されたものを本全集に収録した。
対談は、アポロ十一号による人類の月面への第一歩という歴史的壮挙から十四年後に行われたものだが、当時の天文学界は、電波望遠鏡の開発による電波天文学等の発達や、また無人宇宙船による新しい情報の提供、さらには新しい宇宙理論の登場などがあいつぎ、第二次世界大戦を境にしての二、三十年間というもの、空前の活況を呈していた。そのような時に行われたこの対談は、まさに時宜を得たものであったといえよう。しかも、それは長年にわたる人類の夢が実現し、宇宙が身近に感じられるようになった社会状況を背景に、仏法と宇宙という全く新しい角度からのアプローチであった。 一見何のつながりもないように思えるこの両者が、実は大変密接な関係にあり、究極するところは一体であることを明かしたのである。
この対談は、気鋭の天文学者と池田名誉会長という異色の取り合わせで問題の本質に迫っている。難解な専門書が多い中で、人生や生命、それに身近な話題等をふんだんに織り込みながら分かりやすく展開される内容は、雑誌連載当初から読者を魅きつけてやまないものがあり、多くの識者からも好評を博した。以下にその一部を紹介したい。(発刊時の「推薦のことば」より抜粋)
2 作家の井上靖氏は「無量無辺なる宇宙の時空を離れて、たしかに万物万象はありえない。久遠といい、劫初というも、生死を超えた永遠なる生命、と開き顕したのが仏法であるという。池田大作氏が『仏法と宇宙』を語るとき言葉にみなぎる確信は、渾身の仏法実践による実感である。この対話は、誠に壮大な試みといってよい」と評価している。
また数学者の広中平祐氏は「人間の在り方を根源から間う仏法と、物理の永遠の謎である宇宙との出会いは、ありきたりの宗教・科学の討論ではなく、まさに宇宙的な世界観の展開となっている。(中略)人間が己の本来の姿をさぐりながら、やがて到達した仏教の世界観は、科学者たちが物質の根源をさぐりつつ、その最先端で、宇宙論に回帰してきた様子に似ている。(中略)仏法的世界観と、天文学的宇宙観に、それぞれ精通した第一人者同士の対話は、内容が豊富で充実しているうえに、不思議なほどの調和と共感をかもしだしていて、実になごやかな会話になっている。どちらの専門からも遠い素人が読んでも、驚くほど分かりやすく、また学ぶことが多くて楽しい宇宙論である」と高い評価を寄せている。
そして作家の水上勉氏は「ここには、生老病死というさけては生きれない人間苦を、如何に超克するかが問われているのである。云いかえれば、仏法の根本義がさしだされている。よんでゆくうちに、経典では味わえぬ慈光のようなものが対話行間からさしこんできた。(中略)凡庸の私は行間の光りを感じつつ、また何どかよみ直さねばならぬと、雑誌掲載号を枕もとにおいてきた」等々である。
3 ところで、科学が進歩すればするほど仏法の正しさが証明されるという。その良い例が宇宙に関する領域であろう。それほど仏法の宇宙観と現代科学の宇宙観とは同じ認識に立っているのである。いやむしろ現代科学が仏法の宇宙観にますます近づいているといってもよいかもしれない。
例えば法華経寿量品に「五百塵点劫」という語句がある。これは釈尊が久遠に成道したことを示した経文であるが、その内容は次のようなものである。
「譬えば、五×百×千×万×億×那由佗(一兆または一千億)×阿僧祗(無数または十の五十一乗)の三千大千世界(小千世界〔小世界とは須弥山を中心とした一世界なのでその千倍〕の千倍の千倍)を全て粉々の塵として、東の方に向かって行き、五×百×千×万×億×那由佗×阿僧祗の国を過ぎたらその粉の中から一塵だけを落として、そのようにしてず—っと東に行きながら一塵ずつ落としていき、その塵を全部落とし尽くしたとする。さて次にその無数の世界の、塵を落としたものも落とさなかったものも、それらを全て合わせてまた粉々にして無数の塵となし、その一つずつの塵を各一劫(測りがたい長遠な時間)として計算したとする。自分(釈尊)が成仏したのはそれよりもさらに五×百×千×万×億×那由佗×阿僧祗劫も大昔のことなのである」
4 一度読んだだけでは分かりにくいと思われるが、そこに展開されるものは気が遠くなるほど長遠な時間であり、とうてい数えきれないような無数の世界である。ここに説かれているのはあくまでも譬えではあるが、たとえ譬えであったとしても、そのような無数の世界がその中に出てくるということは重大である。それは現代科学が説く宇宙像よりも遥かに大きな宇宙像を、仏法が説いていたことを示しているのである。かつては荒唐無稽に思われたかもしれないこのような宇宙像が、科学が進歩するにつれてにわかに現実味を帯びてきている。そのことは何を意味しているのであろうか。それは科学が進歩するにつれて、仏法の正しさがますます証明されてきている一つの証拠といえよう。
以上の例からも分かるように、宇宙を深く知ることは仏法を知ることに通じるのである。というよりも宇宙は仏法そのものであるといってもよいであろう。これは何も宇宙に限ったことではない。自然界の全ての事象はもちろんのこと、人間界の全ての事象の一つ一つも全て妙法蓮華経に他ならないのである。このように万象はそのまま妙法蓮華経であり、その万象の本質を知ることはそのまま仏法を知ることになるのである。
5 日蓮大聖人はそのことを御書の中で次のように仰せである。
「されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし」
ここにいう「法界」とは宇宙の中の森羅万象の全てである。したがってこの御文はこの世の中の全ての事物・現象は、全て妙法蓮華経であるとの意である。これはもちろん総じてのお立場からお述べになったものではあるが、この御文に明らかなように宇宙は妙法蓮華経そのものなのである。このような御文は御書の中に数多く拝されるところであり、そのように達観して、初めて宇宙の真実も理解されるのである。
6 現代は「宇宙時代の幕開け」であるといわれているが、以上のことから「宇宙時代の幕開け」というのは「仏法の時代の幕開け」に他ならないことが理解できよう。そしてそれはまた「真実の世界平和ヘの幕開け」といってもよいであろう。
仏法は絶対の平和主義を主張する。創価学会はその仏法の平和主義を掲げて、力強く世界にその活動を展開している。生命の根本法に基づく生命尊厳の理念から発せられる創価学会の平和主義に対しては、人種やイデオロギーの壁を超越して、世界中の人々から多くの賛同と支持が寄せられているのが現実である。その平和活動は、宇宙時代にさらに進展するであろうことは、まさに明白である。
二十一世紀は「宇宙の世紀」になるであろうが、それは創価学会がかねてから主張してきたように「生命の世紀」になることは間違いあるまい。そしてそれは同時に「真実の平和の世紀」すなわち「仏法が世界に流布する世紀」になることを意味しているのである。
平成四年四月二日