Nichiren・Ikeda
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1 旭日(1)
平和ほど、尊きものはない。
平和ほど、幸福なものはない。
平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない。
一九六〇年(昭和三十五年)十月二日──。
山本伸一、三十二歳。
彼は今、胸中に平和への誓いの火を燃やしながら、世界へと旅立とうとしていた。それは、第三代会長に就任してから、わずか五カ月後のことであった。
この日の東京は、快晴に恵まれ、澄んだ秋空が広がっていた。
羽田の東京国際空港は、朝から大勢の同志が詰めかけ、午前九時半ごろには、送迎デッキは鈴なりの人であふれた。初の海外訪問に出発する会長山本伸一を見送ろうとしてやって来た人たちである。
午前十時十分、送迎デッキにざわめきが走った。
伸一をはじめ、一行六人が、ターミナルビルから姿を現したのである。
メンバーは伸一のほか副理事長の十条潔、理事の石川幸男、教学部長の山平忠平、青年部長の秋月英介、そして、婦人部長の清原かつであった。
一行は搭乗機の前で一列に並ぶと、被っていた帽子を取り、見送りの人々に向かって手を振った。
歓声と拍手が、晴れ渡る空に舞った。
十時四十分、一行を乗せた日本航空(JAL)八〇〇便「富士号」は、轟音を響かせて離陸し、一路、ハワイのホノルルに向け、飛び立っていった。
この「富士号」は、八月十二日に就航したばかりの日本初の大型ジェット旅客機であった。
眼下には、伸一が生まれ育った、懐かしいふるさとの大森の海が見えた。
海面には、太陽の光を浴びた無数の波が、キラキラと銀色に照り輝いていた。それは、伸一の旅立ちを祝福し、見送っているかのようでもあった。
伸一は、静かに胸に手をあてた。彼の上着の内ポケットには、恩師戸田城聖の写真が納められていた。
彼は、戸田が逝去の直前、総本山で病床に伏しながら、メキシコに行った夢を見たと、語っていたことが忘れられなかった。
あの日、戸田は言った。
「待っていた、みんな待っていたよ。日蓮大聖人の仏法を求めてな。行きたいな、世界へ。広宣流布の旅に……。
伸一、世界が相手だ。君のほんとうの舞台は世界だよ。世界は広いぞ」
2 旭日(2)
あの日、山本伸一は、戸田城聖が布団のなかから差し出した手を、無言で握り締めた。
すると、戸田は、まじまじと伸一の顔を見つめ、力を振り絞るように言った。
「……伸一、生きろ。うんと生きるんだぞ。そして、世界に征くんだ」
戸田の目は鋭い光を放っていた。
伸一は、その言葉を遺言として胸に刻んだ。
彼は、亡き恩師に代わって、弟子の自分が世界広布の第一歩を印すことを思うと、熱い感慨が込み上げてならなかった。
彼が初の海外訪問の出発の日を、十月二日と決めたのも、二日が戸田の命日に当たるからであった。
伸一には、「世界に征くんだ」と語った戸田の思いが、痛いほどわかった。
あの世界大戦の終結から十五年、人類の平和への願いも空しく、歴史の回転は果てしない東西の冷戦の泥沼にはまり込んでいた。
東西両陣営の旗頭である米国、ソ連をはじめ、大国の核兵器開発競争は激化の一途をたどりつつあった。
また、アフリカでは、各地で植民地からの独立をめぐって紛争が続き、人種・民族問題も世界の随所で噴出していたのである。
そのなかで、人々は核の脅威に怯え、内乱の戦火におののき、不当な差別と虐待、貧苦と病苦にあえいでいた。そして、平和と幸福の夜明けを願い続けてきたといってよいだろう。
戸田の言葉は、世界を鋭く見すえた仏法指導者の、切実な救世の叫びであったにちがいない。
人生の目的──それは、幸福。
人生の願望──それは、平和。
その幸福と平和に向かって、歴史は展開されていかねばならない。
人間は、その確かなる軌道の法則を、追求する生き物である。
科学も、政治も、社会も、宗教も、目的はこの一点にあらねばならない。
伸一は思った。
──日蓮大聖人は、人類の苦悩をわが苦とされ、立正安国の旗を掲げて立たれた。まさに幸福と平和への軌道の法則を示されたのである。
そして、「法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」と、世界の広宣流布を予言され、その実現を後世の弟子たちに託された。
この世に生を受けて三十二年──世界広布を生涯の使命とし、その大業のを今、自らの手で開きゆくことを思うと、伸一の心は躍った。
3 旭日(3)
日蓮仏法は、一切衆生が、等しく仏性を具え、一念三千の当体であることを明かしている。
また、人間を拘束する、すべての鉄鎖を解き放つ方途を示している。
まさに、人間の性分「尊厳」と「平等」と「自由」を打ち立てた、この日蓮大聖人の仏法こそ、二十一世紀の未来を照らし、世界に普遍なる幸の大光を放つ、全人類の平和のための世界宗教にほかならない。
しかし、これまで、その大聖人の仏法が海を渡り、世界に弘まることはなかった。いや、日本の仏教そのものが、広く世界に流布されることはなかったといってよい。
明治以降、日本人の海外移住が進むなかで、浄土真宗などが海外布教に乗り出し、ハワイやアメリカ西海岸、ブラジル等で弘まったことはあった。
しかし、それは、日系人の間に流布されるにとどまり、日本仏教、民族宗教の枠を超えるものではなかった。
また、仏教思想家の鈴木大拙がアメリカなどに渡り、仏教思想の紹介に努めたが、欧米の知識人の間に「禅ブーム」を起こしたにすぎなかった。
そのなかで、この山本伸一の海外訪問は、苦悩する世界の民衆にヒューマニズムの光を注ぎ、人類の蘇生の歴史を創造する、今日のSGI(創価学会インタナショナル)運動の突破口を開くことになる。
それは、仏教史を画する新たな時代の幕開けにほかならなかった。
しかも、奇しくもこの年は、日蓮大聖人が「立正安国論」を認められ、恒久平和への光の矢を放たれてから、ちょうど七百年目であった。不思議なる時の一致といってよい。
伸一の訪問地は、アメリカのハワイ・ホノルルを振り出しに、サンフランシスコ、シアトル、シカゴ、トロント(カナダ)、ニューヨーク、ワシントン、サンパウロ(ブラジル)、ロサンゼルスの三カ国九都市である。帰国は十月の二十五日の予定であった。
訪問の目的は、各地に誕生し始めた会員の激励・指導である。
また、総本山に建立寄進する大客殿の建築資材の買い付けのためでもあった。
これは、伸一が第三代会長に就任した本部総会の席上、恩師の七回忌までの目標の一つとして発表したもので、世界各地の銘材を集めて、建設することになっていた。
更に、広布の未来構想のうえから、海外事情を視察することも、目的の一つであった。
4 旭日(4)
山本伸一は、戸田城聖の写真を上着の内ポケットから取り出すと、じっと視線を注いだ。
──もし、戸田先生をお連れできたら、先生はどんなに喜ばれただろうか。
彼は、戸田が生前、よくこう語っていたことを思い出していた。
「日本は戦争に負けたが、マッカーサーの占領政策で、治安維持法は撤廃され、本当の信教の自由が訪れた。それで広宣流布の時がつくられた。マッカーサーは諸天善神だ。梵天・帝釈だよ。アメリカにはその恩返しに行きたいな」
また、戸田は、アメリカの歴史をはじめ、政治、経済、文学、哲学にも驚くほど精通していた。
しばしばリンカーンやワシントン、また、エマソンやフランクリンについての人物論を語ってくれた。
彼の語る人物論は、生き生きとして精彩を帯び、それでいて透徹した深さがあった。話を聞いているうちに人間像が鮮明に描き出され、まるで本人を目の当たりにしているような気がしてくるのである。
しかし、その戸田は、海外の地を踏むことなく、五十八歳で世を去った。
──私は先生の分身として、アメリカの大地に立つのだ。新しき歴史を、この手で、断固、開くのだ。
彼は唇をみしめた。
羽田を発って、ハワイを目指して七時間、ジェット機は次第に高度を下げ始めた。ハワイ時間に合わせた伸一の腕時計の針は、一日の午後十時半を指していた。日本とはマイナス十九時間の時差である。
やがて、ジェット機は着陸体勢に入った。
伸一は窓の外を見た。夜空の彼方に、宝石をちりばめたように点々と明かりがきらめいていた。ホノルルの街の灯である。
「富士号」は一時間ほど遅れて、午後十一時過ぎにホノルル空港に到着した。
深夜とはいえ、常夏の島・ハワイの外気は暑かった。背広に帽子という秋の装いをした一行の額には、途端に汗が滲み出た。
入国の手続きのゲートには長い列ができていた。手続きを待ちながら、伸一は十条潔に尋ねた。
「十条さん、英語は本当に大丈夫なのか」
十条が、出発前に、英語には、自信があると語っていたからである。
「はい。日常会話程度でしたら問題はありません。海軍兵学校で、英語は厳しく叩き込まれましたから」
彼は胸を張って答えた。
5 旭日(5)
山本伸一の一行は、入国手続きで三十分ほど待たされた。
一行の手続きの順番が近づいてくると、十条潔は伸一に言った。
「先生、私が先に手続きを済ませます。そして、先生の手続きの通訳をいたします」
いよいよ十条の番になった。パスポートを提示すると、係官が英語で何か尋ねた。十条は、しばらく、訝しそうな顔で立っていたが、やがて口を開いた。
「ワンス・モア・プリーズ(もう一度、お願いします)」
彼は、そればかり繰り返した。
係官は、何度か同じことを尋ねたが、埓があかないと思ったようだ。両手を大きく広げて、首を振って見せた。
そんなやり取りを見るに見兼ねてか、傍らにいた旅行会社の社員らしい人が、通訳してくれた。
一行は、それでなんとか窮地を脱した。
「いやー、ハワイの英語は聴き取りにくいですな」
十条は苦笑しながら、頭をいた。
伸一は、本格的な世界広布の展開のためには、有能な通訳の育成が不可欠であることを痛感した。
更に、通関の手続きにも手間取り、それぞれが荷物を取り、到着ロビーに向かったのは、現地時間の二日午前零時を過ぎていた。
空港では、三年前の五月にアメリカに留学した男子部の正木永安が、迎える手筈になっていた。正木はこの旅で、一行の通訳と案内をすることになっていたのである。
「飛行機が遅れたんで、正木君が待ちくたびれているだろうね」
伸一は、心配そうに十条に言った。
「そうですね。彼は、ハワイでは同志を大結集して盛大にお迎えします、と言っていましたからね」
到着ロビーに出ると、賑やかな、多くの人の姿があった。
しかし、正木の姿は見当たらなかった。
一行は、ロビーの一隅に荷物を置いて、正木を待った。
初めて見るホノルルの空港の光景は、一行の目にはもの珍しかった。
色鮮やかなレイを手にしたムームー姿の若い女性もいた。赤いアロハシャツを着た、白髪の初老の男性もいた。また、きちんとネクタイを締めた日本人男性の一団もあった。
そして、待ち人の姿を見つけると、一様に笑みの花を咲かせ、時に、抱き合いながら、一組、また、一組と空港を去っていった。
6 旭日(6)
十条潔が、不安そうに秋月英介に語りかけた。
「正木君がいないね。ここに迎えに来るはずだがね……」
「ええ、そうですね。……変ですね」
ロビーに出て来たほかの乗客は次々と去り、人影はまばらになっていた。
「困っちゃうわね。こんなところに置き去りにされたんじゃ。右も左もわからないんだから」
いつもは気丈夫な清原かつの声も心細そうだった。
その時、ロビーの隅で、一行の様子を見ていたアロハシャツ姿の小柄な青年が近づいてきた。
「あのー、学会の会長の山本先生ですね」
青年の顔に、山本伸一は見覚えがあった。
「やあ、ご苦労さん」
伸一が答えると、青年は安心したように、屈託のない笑みを浮かべた。
「ぼくは男子部のトニー・ハラダといいます」
「知っているよ。前に一度会ったね」
「ええ、ハワイに来る前に、学会本部で会っていただきました」
ハラダと名乗ったこの青年は、用意してきたレイを伸一の首に掛けて、握手をした。予期せぬハラダの出迎えに、皆の顔に安堵の色が浮かんだ。
しかし、一行にレイを掛けるとハラダは言った。
「では、ぼくはこれで失礼します」
帰ろうとするハラダに、伸一は語りかけた。
「ありがとう。もう、帰ってしまうの?」
「はい。お迎えできましたから」
「ほかの人は?」
「さあ、わかりません。ぼくはこのオアフ島ではなく、ハワイ島に住んでいるんです。先生がホノルルに来られることを、日本からの手紙で知らされ、飛行機でやってきました」
「そう。泊まるところはあるの?」
「大丈夫です。叔母の家に泊まりますから。ぼくのことなら心配いりません。失礼します」
一行の窮状を知る由もなかったハラダは、長居をして迷惑になることを気遣っていたのである。
「それなら、私はカイマナ・ホテルにいるから、あしたの朝にでも、また、会いましょうね」
ハラダは、「はい」と明るく返事をすると、足早に帰っていった。
一行は呆気にとられた顔で彼を見送った。ハラダがいなくなると、皆、急に心細さが身に染みた。
7 旭日(7)
やがて、空港のロビーのライトが、少しずつ消され始めた。
辺りはますます閑散としていった。
「正木は、いったいどうしたんですかね」
怒りっぽい性格の石川幸男が、怒りを含んだ声でぽつんと言った。
「先生、私は正木君を探してまいります。秋月君、ぼくは外を見てくるから、君はこの建物のなかを探してくれないか」
十条潔はこう言うと、秋月英介を伴って正木を探しに出かけた。
しばらくすると、秋月が帰ってきた。構内には正木の姿は見当たらなかったという。
それから間もなく、十条も戻ってきた。
「先生、正木君はいませんでしたが、外にはカイマナ・ホテルの車が待機しておりました。もう夜も遅いですから、その車でひとまずホテルに行くことにしてはいかがでしょうか」
十条の提案に従い、一行はホテルに向かった。
カイマナ・ホテルはワイキキの海岸の外れに建つ、三階建ての質素なホテルであった。
一行がホテルに着いたのは既に午前二時近かった。
それぞれ自分の部屋に荷物を置くと、誰からともなく、山本伸一の部屋に集まって来た。
機内の夕食から、かなり時間もたっており、皆、空腹をかかえ、疲れ切った顔をしていた。
「お腹が空いたね」
みんなの思いを代弁するように伸一が言った。
しかし、繁華街から離れたこのホテルの周辺には、店は一軒もなかったし、深夜のせいかルームサービスもしていなかった。
伸一は日本から持ってきた海苔を取り出すと、皆に分けた。
誰もが浮かぬ顔をしていた。初めての外国で迎えもなく、海苔を口にして空腹を紛らすことに、わびしさと心細さを覚えていたのである。
すると、伸一が愉快そうに笑いながら言った。
「こうやって、みんなで海苔を食べたことが、将来、最高の思い出になるよ。これが人生の歴史に残る、壮大なドラマの幕開けの一夜だと思えば、楽しいじゃないか」
そう言われても、誰も伸一の言う楽しさを、実感することはできなかった。
しかし、悠々と笑顔を浮かべる彼に接していると、不安が拭われていくような気がした。
窓の外は、夜明け前の深い闇に包まれていた。
8 旭日(8)
山本伸一たちがカイマナ・ホテルに到着したころ、正木永安はホノルルの日系人が経営する旅館にいた。
彼は四日ほど前に、居住地の首都ワシントンからホノルルにやってきて、点在する会員に連絡を取るとともに、激励に当たっていたのである。
当初、正木は、伸一たちのホノルル到着は、確かに一日の午後十時と知らされていた。また、聖教新聞に発表された山本会長の海外訪問のスケジュールにも、そう記されていた。
正木は、伸一が到着する十月一日には、日本で女子部の組長をし、ハワイの連絡の中心者となっていた永田由美子と、一人の男子部員とともに、朝から島内の二十軒ほどの会員の家々を回り、その夜の会長到着を再確認して歩いた。
夕刻、永田をアパートに送ると、彼女の部屋に、一通のエアメールが届いていた。学会本部の海外係からであった。
急いで封を切った。
「スケジュールに変更がありましたので、急ぎ連絡いたします。ホノルル到着は十月一日二十二時となっていましたが、十月二日の午前七時五十五分に変更になりました。飛行機はJAL八〇〇便で同じです。皆様方にもその旨、ご連絡をお願いします」
三人は愕然とした。すぐに永田のアパートを飛び出し、車を駆って再びメンバーの家を一軒一軒訪ねて回った。到着時間の変更とともに、明朝六時に空港に集合して欲しいと伝えた。
全員の家を回り終えたのは、午後十時ごろだった。
帰途、青年たちは、ホノルルの街を見下ろす、タンタラスの丘に車を止めた。丘の上に立つと、眼下には街の夜景が美しく広がっていた。その右手には空港がある。
「あしたの朝には、あの空港に山本先生をお迎えすることができるんだなー」
正木の声は、興奮のために、心なしか震えていた。
「先生にハワイに来ていただけるなんて、まるで夢を見ているようだわ。あしたは、ハワイの新しい出発になるのね」
永田の声も弾んでいた。いよいよ会長山本伸一と、このハワイの地で会えるのかと思うと、一日中、同志の家々を走り回った疲れも吹き飛んだ。
汗ばんだに、さわやかな夜風が心地よかった。
しかし、そのころ、伸一の乗ったジェット機は、間もなくホノルルに到着しようとしていたのである。
9 旭日(9)
正木永安は、旅館に戻ると、すぐに唱題を始めた。
──朝になれば、いよいよ山本先生をお迎えすることができる。先生の世界広布への第一歩が、このハワイの地に印されるのだ。なんとしても、この海外指導を成功させなければ……。
正木の唱題の声に、いやがうえにも力がこもっていった。唱題しながら、三年前の五月、留学生としてアメリカに渡ってからの苦闘の歳月が、次々と彼の頭をよぎった。
日本を発ち、念願のアメリカ・ロサンゼルスに着いて五日目に、父の死を知らせる便りを手にしたこと。
悲しかったが、早くも、それから四日目の朝に、伸一から励ましの便りが届いた。彼は、何度も何度も手紙を読み返した。
「正木君、悲しいだろう。辛いだろう。しかし、使命に生きる君らしく、いかなる悲しみや苦難をも乗り越えて、雄々しき指導者に成長されんことを祈ります」
この手紙に、正木は泣き濡れた。しかし、それは悲哀の涙ではなかった。新しき決意を湧き立たせる感涙であった。
彼は、苦しみの天地から決然と立ち、勇んで苦学の道を歩み出した。学費を稼ぐためにボウリング場の雑役係や皿洗いのアルバイトをしながら、懸命に学業に勤しんだ。
更に、その一年後、今度は、第二代会長戸田城聖の逝去の報に接したのである。異国の地で孤軍奮闘する正木にとって、戸田の去は、心の柱を失うに等しかった。
その時の深い悲しみの底から、彼を奮い立たせたのも、また、伸一からの激励の便りであった。
「真の使命を忘れてはならぬ。世界の指導者に育つことを忘れてはならぬ」との、伸一の烈々たる呼びかけに、彼は、今こそ弟子が立ち上がり、戦いを開始する時であることを知った。
山本伸一が第三代会長に就任したのは、それから二年後の一九六〇年(昭和三十五年)の五月三日のことであった。
正木たちアメリカの同志は、その知らせに、小躍りして喜んだ。
そして、ほどなく伸一の妻の峯子からエアメールが届いた。
そこには、会長一行が近く渡米の予定であることがつづられていた。
そして、打ち合わせのために、一時帰国できないかとの、伸一の伝言が記されていた。
手紙の文面からは、伸一が、そのための旅費のことまで心配していることがよくわかった。
正木は、嬉しくもあり、ありがたくもあった。
10 旭日(10)
九月初め、正木永安は喜び勇んで、懐かしい日本の土を踏んだ。
彼は、自分を励まし続けてくれた山本会長と久し振りに会えると思うと、胸が高鳴るのを覚えた。
はやる心を抑えながら、空港からまっすぐに学会本部にやってきた。
「ただ今帰りました!」
本部で山本伸一の顔を見るなり、彼は元気いっぱいにあいさつした。
「やあ、よく帰って来たね」
懐かしい、温かい声であった。
伸一の声を聞いた瞬間、彼の目に涙があふれた。
伸一は、目を赤らめる正木に言った。
「アメリカに行って、少しは大きくなったかと思ったら、むしろ縮んじゃったじゃないか」
正木の着ている背広はダブダブとして大きかった。それが、彼の小柄な体を、ますます小さく見せていたのである。
正木は、手の甲が隠れてしまった自分の背広の袖口を見ながら、はにかむように言った。
「実は、この背広は、アメリカに住んでいる義兄に借りてきたんですが、少し大きすぎまして……」
アルバイトで生計を維持する正木には、スーツを新調する経済的なゆとりなどなかったのである。
「そうか。生活が大変なんだな。それで、お母さんには、何かお土産は買ってきたの?」
「はい、スーツを買いました」
「自分が着る服もないのに、お母さんには洋服を買ってきたのか……。感心だな。それじゃあ、君の背広は、私が買ってあげるよ」
伸一は、スーツをプレゼントした。
新調したスーツは、彼の体にピッタリと合い、色もよく似合った。
正木の感激はひとしおだった。
喜びのなかで、初の海外指導の打ち合わせが始まった。彼は、学会本部に新設されて間もない「海外係」の職員の武藤靖らに、知り得る限りの現地の実情を話し、スケジュールを詳細に検討していった。
また、アメリカ在住の会員の大半は婦人であることから、婦人部の幹部の同行が必要であることを、進言したのである。
正木は、約十日間、日本に滞在し、アメリカに戻ると、一行の受け入れの準備に奔走した。そして、ホノルルで、伸一たちの到着を待っていたのである。
11 旭日(11)
正木永安は、ハワイのメンバーに到着時間の変更を伝えて歩いた後、旅館に戻り、午前五時前には空港に向かった。
空港には明け方から、二人、三人と会員が集まってきた。それぞれ手にレイを持ち、胸には鶴丸の学会のバッジが光っていた。
集合時間とした午前六時には、メンバーは二十人を超えた。
ほとんどの人が互いに初対面である。皆、ハワイにも、これほど多くの広布の友人がいたことを知り、心強さを覚えた。
それぞれ自己紹介をし合い、語らいの輪が広がっていった。なかには記念撮影するメンバーもいた。
午前七時を過ぎた。しかし、各航空会社のカウンターには明かりもつかず、係員の姿もなかった。
正木は、次第に不安になり始めた。パン・アメリカン航空のカウンターに、一人の係員が姿を見せた。
正木は英語で、七時五十五分に到着予定のJAL八〇〇便について尋ねた。
係員は怪訝な表情で、そんな時間に到着する便はないが、JAL八〇〇便ならば、既に昨夜、到着していると告げた。
正木は動転した。自分の体から、血の気が引いていくのがわかった。
彼は永田由美子に、きのう届いたエアメールを、もう一度見せてもらった。そこには間違いなく、二日朝の七時五十五分の到着と書かれている。
──なぜ、こんなことになったんだ!
到着しているなら、ともかく、ホテルに電話をしてみるしかない。しかし、正木は、会長一行の宿泊先は聞いていなかったことに気づいた。
電話帳を開き、主なホテルに片っ端から電話をかけた。だが、どこのホテルでも、そういう客はいないとの答えだった。
その時、ハワイの事情に比較的詳しい、日系二世のヒロト・ヒラタが言った。
「まさか会長は、あそこには泊まることはないと思うんですが、カイマナ・ホテルという、よく日系人が使う、小さなホテルがあるんです。念のために、そこにも聞いてみましょう」
ヒラタが電話帳で番号を調べ、電話を入れると、会長一行が泊まっていることがわかった。
全員が数台の車に分乗して、カイマナ・ホテルに向かった。正木は、どんな思いで山本会長の一行がハワイ入りしたかと思うと、泣き出したいような気持ちだった。いや、生きた心地さえしなかった。
12 旭日(12)
水平線に広がりゆく朝靄のなかに、エメラルド色の海が光り、それは銀波となって、白い砂浜に静かに寄せ返していた。
山本伸一は朝早く、一人で外に出た。ホテルの裏がすぐ海であり、海に面してテラスがあった。
彼は、ほとんど眠ることができなかった。午前三時ごろにはベッドに入ったが、一、二時間うとうとしただけで、目が覚めてしまった。
それは、時差のせいばかりではなかった。迎えに来るはずの正木永安が来なかったことから、正木の安否が気になって仕方なかったのである。
窓の外が白み始めると、伸一は起きて勤行し、正木が無事であることを祈念し、唱題した。
また、このハワイの地の広布を願い、題目を染み渡らせる思いで、真剣に祈りを捧げた。
それから、浜辺を散策しようと戸外に出た。
幾重にも連なる、静かな白波は詩的であった。振り向くと、背後にはヤシの林が広がり、その向こうに、朝の光に照らされ、頂を金色に染めたダイヤモンドヘッドがそそり立っていた。
伸一は六年前の一九五四年(昭和二十九年)の夏、恩師戸田城聖とともに、戸田のふるさとである厚田の浜辺に立った日のことを思い起こした。
日本海に沈む真っ赤な夕日を見ながら、戸田は語っていた。
「伸一君、ぼくは、日本の広宣流布の盤石な礎をつくる。君は、世界の広宣流布の道を開くんだ。構想だけは、ぼくがつくっておこう。君が、それをすべて実現してくれ給え」
彼は、この言葉を命に刻んだ。その日から、どうやって世界広布の道を開くかを、模索し続けてきた。
弘教は、人間と人間との触れ合いに始まることはいうまでもない。しかし、日蓮仏法とは無縁な外国の人々に、正しく仏法を、そして、学会を理解させていくには、その思想と運動をまとめ、紹介した書物が必要ではないかと、彼は考えた。
そして、会長に就任すると、直ちに、海外向けの英語版の紹介の書籍を製作することにした。
聖教新聞の編集部長で青年部長の秋月英介と、大学で英語の教鞭をとっていた神田丈治を中心に、計画が具体化されていった。
当初は、『折伏教典』を抄訳して掲載する案もあったが、文化、習慣はもとより、ものの考え方も異なる海外の事情を考えると、原稿を新たに書き起こす必要があった。
13 旭日(13)
学会の紹介書の原稿の完成を待って、七月半ばに、会員のなかから英語ができるメンバーを集め、翻訳者の選抜試験が行われた。
白髪の年配者から学生まで、三十一人が試験を受け、八人が選抜されたが、いずれも習熟した翻訳者というにはほど遠かった。
七月下旬には翻訳がスタートした。
メンバーが最も頭を悩ませたのは、仏法用語の翻訳であった。
「久遠元初」「一念三千」「十界互具」など、英語の辞書にもない言葉を、仏法について、なんの知識もない人にもわかるように、訳さなくてはならない。
メンバーは夏休みを返上し、頭を抱えながら、必死になって翻訳作業に取り組んでいった。
こうして学会紹介書『ザ・ソウカガッカイ』が刷り上がったのは、山本伸一たちが海外に出発する直前であった。
また、彼は、七月中旬には、学会本部に「海外係」を発足させた。
これは、次第に増え始めた海外在住メンバーと連携を取り、便宜を図るために設けられたもので、世界各地とのパイプ役ともいうべき部門であった。
彼は、世界広布の夜明けの到来のために、水面下で、着々と手を打ってきたのである。
伸一は、ただ一人、今、静かなワイキキの浜辺にたたずみながら、その世界広宣流布の第一歩を踏み出した自覚をみしめた。
しかし、その思いは、すぐに憂慮に変わった。
何よりも、正木永安のことが気にかかっていたからである。
──なんの連絡もなかったということは、不慮の事故に遭った可能性もある。あるいは、何か一身上の大問題が生じたのかもしれない。しかし、正木君だけでなく、女子部の永田さんまで、姿を現さないのはなぜだろうか……。
伸一の憂慮は深かった。
もし、正木がこのまま現れなければ、案内や通訳をどうするかも、考えなければならない。
それから彼は、部屋に戻り、同行の幹部が目覚めるのを待った。
そして、午前八時半ごろから、ホテルのテラスで、全員で朝食をとった。コーヒーにトーストと卵料理という簡素なものであったが、海を見ながらの食事は壮快だった。
その時、慌ただしい足音が響いた。三十人ほどの人がテラスに向かって走ってきた。
「先生!」
先頭で叫んでいるのは、正木永安であった。
14 旭日(14)
正木永安は、息を弾ませて駆けて来た。その横には永田由美子もいた。
「おお、正木君!」
山本伸一が声をかけた。
正木は、伸一のテーブルの脇に立つと、肩で息をしながら、頭を下げた。
「先生、きのうは、大変に申し訳ございません」
「いったい、どうしたんだい。みんな心配していたんだよ」
伸一が言うと、同行のメンバーが一斉に険しい視線を正木に注いだ。
「すみません。実は、本部から、到着は今朝になったと連絡が来たものですから。これをご覧ください」
正木は、緊張した顔で、本部の海外係から届いた到着時間変更のエアメールを伸一に見せた。
伸一は、その手紙を読むと、愉快そうに声を上げて笑った。
「これじゃあ、しようがないな。どこかに行っちゃったのかと思ったよ。でも、この手紙を持っていてよかったね。なかったら、大変なことになっていたよ。きのうは、みんな怒っていたんだから」
伸一は、同行のメンバーに手紙を回した。
「しかし、どうしてこんな間違いが起こったんでしょうね。原因を究明しておかないと、また、同じ間違いが起こりかねません。海外係の手違いでしょうか」
怒りを含んだ口調で十条潔が言った。
「きっと時差のことを忘れてしまっていたんだよ。日本人はあまり海外に出ないからね」
同行のメンバーの笑いが広がった。
伸一のこの言葉で、話は打ち切られた。
彼は、十条の言うこともよくわかった。問題が生じた時には、徹底して、その原因を究明し、再び同じ過ちを起こさぬよう対処することは当然である。
しかし、やっとハワイの同志と会い、既に問題が一段落した今、ミスについてとやかく考えることより、友を労い、励ますことに、伸一は少しでも多くの時間を使いたかった。
また、正木が無事でいてくれたことが、彼にとっては一番嬉しかった。
実は、この間違いの原因は、旅行会社の、タイプの単純な打ちミスにあった。
出発の数日前に、最終確認のために旅行会社がつくった便名とホテルを記した日程表が届けられたが、それが間違っていたのだ。
そして、これを見た海外係が、慌てて到着時間の変更を知らせるエアメールを、発送してしまったのである。
15 旭日(15)
山本伸一は、テラスの隅に固まって立っていたハワイのメンバーに向かって、手招きした。
「ご苦労様。みんなも、こっちにいらっしゃい」
会長の伸一と会うのは、ほとんどの人が初めてのせいか、緊張した顔をしていたが、伸一が声をかけると、皆の表情が和んだ。
彼は笑顔で語りかけた。
「わざわざありがとう。朝早くから空港に来てくれたんだね。
それにしても、よくこんなにたくさん集まったね。正木君も永田さんも頑張ったんだな」
正木の顔にもようやく微笑が浮かんだ。
メンバーは、伸一の前に進み出ると、手にしていたレイを、次々と彼の首に掛けた。彼の顔は、レイに埋もれてしまった。
「ぼくだけでなく、ほかの人にも掛けてあげてよ」
同行の幹部にも、何本ものレイが掛けられた。
伸一は、朝食に食べようと持ってきた海苔を、メンバーに分けた。
「何もないけど、みんなで食べようよ。これは、ぼくが生まれ育った東京の大森で採れた海苔なんです」
ほぼ全員が日系人とあって、皆、懐かしそうに日本の味をみ締めた。
それはメンバーが伸一と接して初めて味わう、創価家族の温もりでもあった。
伸一の食事は中断されたまま、交歓の語らいが弾んだ。友の心は、瞬く間に打ち解けていった。
彼は同行の幹部に、部屋から袱紗を持ってくるように頼んだ。それは友への土産として用意してきたもので、伸一の書いた「歓喜」という文字が、紫の地に白く染め抜かれていた。
袱紗は小さな子供にも配られた。早朝から空港に出向き、自分を迎えようとしてくれた同志を、伸一は一人も漏れなく励ましたかったのである。
それから、記念撮影をした。皆、喜色を満面にたたえてカメラに納まった。
そこに、昨夜、空港で会ったトニー・ハラダもやってきた。伸一は、ハラダに、第三代会長就任の記念メダルを贈った。
「きょうの午後の座談会で、またお会いしましょう。どうもありがとう」
こう言って伸一は、メンバーを見送った。
ホテルをあとにする友の足取りは軽やかだった。
一行は、座談会までの時間を使い、レンタカーでオアフ島を見学することになった。皆でこの新しい天地を知るためであった。
16 旭日(16)
ホテルを出発する前に、山本伸一は、案内役のハワイの友に尋ねた。
「座談会には、どんな服装で行ったらいいですか」
違和感なく現地の友に溶け込み、和やかな語らいをするための心配りである。
「そうですね。こちらでは女性はムームーですし、男性はアロハシャツですから、背広は着ないで、シャツだけで行かれた方がいいと思います」
「シャツの色は?」
「アロハの色が派手ですから、明るいブルーがいいのではないでしょうか」
「ブルーですか、ブルーのシャツは持ってこなかったな。じゃあ、白いシャツにしよう。
みんなも気楽な服装で行こう。清原さんは、ムームーがいいよ」
「ムームーですか」
清原かつは、こう言って首をかしげ、小声で案内役のメンバーに聞いた。
「ムームーって、どんな服かしら?」
「さっき、ここに来た女性たちが着ていた服です」
「あのアッパッパみたいな服? あれ、寝間着じゃなかったの?」
「いいえ、ハワイではどこに行くにも、たいていムームーを着て行きます」
「あら、そうなの。私、さっきね、みんなに『きょうは歴史的な座談会になるんだから、まさかそんな格好では来ないでしょうね。きちんと正装していらっしゃいよ』って、言おうかと思っていたのよ」
伸一は笑いながら、清原に言った。
「清原さん、ここは日本じゃないんだよ。ハワイにはハワイの風俗や習慣があるんだから、それを尊重することだよ。
日本とは気候も文化も違うのに、学会では、日本と同じ服装やヘアスタイルでなければいけないなんて言われたら、みんな信心するのがいやになってしまうよ。まるで、戦時中の国防婦人会みたいでさ。
そんなことは御書にも書かれていないし、仏法の本義とは違うんだから、それぞれの良識に任せ、自然なかたちでいいんだよ。
ましてや、きょうのような座談会では、みんなの悩みや疑問をよく聞いて、納得できるように、的確に指導し、励ましていくことが主眼になる。
そのためには、自由で和やかな、どんなことでも話せる雰囲気をつくることが大事なんだ。だから、みんなにも気楽な服装で来てもらって、こちらも、それに合わせていくべきだね」
清原は、自分の考えの浅さを恥じた。
17 旭日(17)
清原かつは言った。
「そうですね。私、みんなに、変なこと言わないでよかったわ。でも、先生、私はムームーなんて持ってきていないんです」
「わかっているよ。いいよ、その格好で」
笑いが広がった。
すると、十条潔が口を開いた。
「風俗や習慣の違いというのは、確かに大きな問題ですね。先生、私は、勤行の時の正座も、外国人にはかなり苦しいのではないかと思うんです。しかも、アメリカの家はたいてい木の床ですから。でも、これは変えるわけにはいかんのでしょうね」
山本伸一が、即座に答えた。
「いや、当然、イスに座って勤行をすることも検討しなければならないだろう。正座の習慣がない人たちにとっては、拷問に等しい苦痛だもの。それでは、勤行しても歓喜なんか湧かないね。
だから、仏法には随方毘尼という考え方がある。御本尊への信仰という、大聖人の仏法の本義に違わない限り、化儀などは各地の風俗や習慣、時代の風習に従ってもいいんだよ」
「なるほど……。これからのことを思うと、もっと柔軟に物事を考えていかないといけませんね」
「私が一番恐れているのは、日本でやってきたことを絶対視して、世界でもすべて同じようにしなければならないという考え方に、幹部が陥ることだ。
それでは、世界の人たちに、日本の民族衣装を無理やり着せるようなものだ。
そして、そうすることが正しい信心の在り方のように思ったりしたら、仏法を、極めて偏狭なものにしてしまうことになる。
そうなれば、仏法というより、″日本教″になってしまう。
大聖人の仏法は、日本人のためだけの教えではなく、全世界の人類のための宗教なんだからね」
伸一は、戸田城聖に、世界の広宣流布を使命として託された日から、やがて、海外で直面するであろう諸問題について思いをめぐらし、その一つ一つについて、熟慮に熟慮を重ねてきたのである。
風俗や習慣の違いに対して、どう対応していくかということも、彼のなかで、検討し尽くされてきた問題であった。
彼の胸中には、既に世界広布の壮大にして精緻な未来図が、鮮やかに描かれていたのである。
しかし、それを知るものは誰もいなかった。の絵巻を繰り広げた
18 旭日(18)
車窓には、ヤシの並木が風にそよいでいた。
山本伸一の一行が乗ったステーションワゴンは、ホノルルの街を抜け、太平洋国立記念墓地を目指した。
開け放たれた車の窓から吹き込む、緑の風がさわやかであった。
太平洋国立記念墓地は、パンチボールと呼ばれる小高い丘の上にあった。
芝生のなかに埋められた碑には、色とりどりの花が捧げられていた。それが、芝生の緑に鮮やかに映えて美しかった。
「この墓地には、第二次大戦で犠牲になった人たちが葬られているんです。あの戦争では、ハワイの日系人たちの部隊がつくられ、イタリア戦線で大活躍したんですが、その人たちのお墓もあります」
案内者の説明に耳を傾けながら、墓地のなかを一巡すると、伸一たちは、ここで題目を三唱して戦没者を弔った。
わずか九人のささやかな慰霊ではあったが、平和への深い祈りが込められた追善であった。
一行の車は、それから再び市街に出た。しばらく行くと、銀の鏡のような海が広がっているのが見えた。
パール・ハーバー(真珠湾)である。
一九四一年十二月八日未明(ハワイ時間七日朝)、日本の戦闘機、爆撃機、計百八十三機が、ここに停泊中のアメリカ軍戦艦と軍事施設を急襲し、あの悲惨な太平洋戦争の火蓋が切られたのだ。
奇襲成功を伝える「トラトラトラ」の暗号が打電され、日本は開戦の知らせと緒戦の勝利に沸き返った。
しかし、ハワイの日系人にとっては、それは、過酷な運命の幕開けにほかならなかった。
この奇襲は、一八六八年(明治元年)の、いわゆる「元年者」の移住以来、苦難のなかで、日系人が営々として築き上げてきたハワイ社会での信頼を、一気に覆したのである。
ハワイ全島は直ちに戒厳令下に置かれ、日系人は「敵国人」となり、要注意人物としてリストアップされていた百六十余人が、まず、その日のうちに逮捕された。
更に抑留所がつくられ、次々と日系人が収容され、そこからアメリカ本土の、各地の抑留所に移送されていった。
日本の奇襲攻撃に激怒するアメリカの人々には、すべての日系人が、「敵性日本人」に思えたようだ。
軍部の一部では、ハワイの日系人全部を、どこかに収容すべきだという、強硬な意見まで出されたほどであった。
19 旭日(19)
真珠湾の奇襲によって、日系人は、不安と屈辱に苛まれながら生きることを、余儀なくされたのである。
やがて、アメリカ陸軍省は、徴兵されていたハワイの日系人で部隊を編成し、アメリカ本土に送り猛訓練を開始した。これが第一〇〇歩兵大隊である。
続いて日系人の志願兵の募集が発表されると、二世たちは勇んで応募した。そして、入隊したのが第四四二連隊戦闘部隊だった。
彼らはアメリカへの忠誠を尽くそうと、猛訓練に耐えた。しかし、軍隊にあっても、奇襲という卑劣な手段に出た敵国人の血を引く者として、常に侮と憎悪の冷たい視線を浴び、偏見と差別にさらされなければならなかった。
やがて、ヨーロッパ戦線に送られた彼らは、誰よりも勇猛果敢に戦った。
「敵国人」の汚名を晴らすには、アメリカのためには命も惜しまぬという忠誠心を、身をもって示すしかなかったのであろう。
彼らは、敵を目指して真っ先に突進した。機関銃の前に、惜しげもなく体も投じた。
家族や同胞である日系人が、アメリカ社会にあって不当な差別と偏見、そして、仕打ちから免れることを念じての奮闘だった。
最も多くの武勲をあげた彼らは、日系人の忠誠心を見事に証明した。トルーマン大統領は「敵に勝っただけでなく、偏見にも打ち勝った」と、称賛を惜しまなかった。
しかし、幾多の青年たちの、死というかけがえのない代償を払っての、余りにも悲しい血の証明であった。
この大戦で命をなくしたハワイの戦没者のうち、日系人が占める割合は、一説によれば、実に六割を超えたといわれる。
山本伸一はパール・ハーバーを眺めながら、このハワイの地に、世界広布の第一歩を印した意味をみ締めていた。
──戦争の辛酸をなめた人ほど、平和を渇望している。いな、最も不幸に泣いた人こそ、最も幸せになる権利があるはずだ。そうであるならば、太平洋戦争の開戦の島であり、人種の坩堝ともいうべきハワイこそ、世界に先駆けて、人類の平和の縮図の地としなければならない。また、それが出来るのが仏法である。
彼は窓外に広がる海を見ながら、心で唱題した。
一行はその後、パイナップル畑や、カメハメハ大王のハワイ統一の際、最も熾烈な戦いが展開された断崖の古戦場のヌアヌ・パリなどを見学し、座談会場へと向かった。
20 旭日(20)
座談会場に向かう車中、山本伸一は、何かを深く思索しているようであった。
しばらくすると、彼は静かな口調で言った。
「きょうの座談会で、ハワイに地区を結成しようと思う」
驚いた表情で、十条潔が尋ねた。
「地区ですか? 班ではなくて」
当時、地区といえば、たいてい数百世帯の会員を擁し、なかには千世帯を超える地区も珍しくなかった。
それがハワイでは、子供を含めても、人数にして三、四十人しかいない。規模から見れば、班にしても少ないくらいである。
「そう、地区だよ。ハワイは日本とは違うからね。今後、世界広布は急速に伸展するはずだ。それを考えれば、アメリカの玄関口ともいうべきハワイには、班ではなく、地区を結成しておく必要がある。
それに、地区ができたというみんなの自覚が決意となって、新たな活力をもたらせば、本当に大地区になっていく。スケールは大きくもつものだ。
ところで、きょうの座談会では、ぼくは質問会をするから、その間に、みんなで新地区の人事案を考えてくれないか」
車中でサンドイッチの昼食をとり、座談会場となったホノルルのベレタニア通りのメンバーの家に着いたのは、午後一時ごろのことであった。
会場には、三十人を超える同志が集まっていた。ほとんどが日系人である。
「どうもご苦労様です。お世話になります」
会場に入るなり、伸一は笑顔で語りかけた。
「さあ、ハワイの広宣流布と、皆様方のご一家の繁栄と幸せを祈念して、一緒に勤行をしましょう」
伸一を中心に、勤行が始まった。彼の朗々たる声が室内に響いた。
唱題が終わり、伸一がテーブルを挟んで座ると、会場の真ん中がポッカリと空いていた。
皆、遠慮がちに、緊張した顔で、壁際にへばりつくように座り、前に来ようとしないのである。
「さあ、どうぞ。前にいらっしゃい」
伸一は、一人一人を前に招きながら、笑顔を向け、声をかけていった。
会場の一隅に、がっしりとした体格で、柔和な目をした、三十半ばと思われる男性がいた。朝、ホテルに来た壮年の一人であった。
伸一と視線が合うと、彼は微笑みを返した。
21 旭日(21)
その壮年は、当時、熱狂的な人気を博していた、プロレスラーの力道山に似ていた。
山本伸一は語りかけた。
「きょうの朝から思っていたんですが、あなたはプロレスの力道山にそっくりですね。名前はなんとおっしゃるんですか?」
「はい、ヒロト・ヒラタです」
「そう。その名前より、力道山の方が覚えやすいね。これから″リキさん″と呼んでいいですか」
どっと笑いが起こった。伸一の気さくな言葉に、場内に漂っていた緊張が、次第にほぐれていった。
「奥さんはいらっしゃるの?」
「はい、奥さんは、日本の仙台にいます。後でハワイに来ることになっています」
自分の妻を奥さんと言うヒラタの話し方が、皆の笑いを誘った。よく聞いていると、どことなく、ぎごちなさが感じられる日本語であった。
このヒロト・ヒラタの人生の歩みは、ある意味でハワイの日系人の歴史を象徴していたといってよい。
彼は日系二世であり、父は真珠湾攻撃の後、すぐに抑留されて、アメリカ本土の抑留所に収容された。
母とヒロトも父の後を追って本土に渡り、同じ抑留所に入った。そして、一九四三年の日本との捕虜交換で、ヒラタ親子は捕虜交換船に乗ることができた。
船はニューヨークから大西洋を渡り、アフリカの南端を経て、シンガポールに寄港した。シンガポールは当時「昭南島」と呼ばれ、日本の軍政下にあった。
ヒロトは、ここで船を降り、英語を生かして、放送局のニュース班員として働くことになった。
しかし、間もなく、彼のもとに、日本の召集令状が届いた。彼は、アメリカ国籍とともに、日本国籍をもっていたのである。
同世代のハワイの日系人は、アメリカ軍として、イタリア戦線で戦っていた。だが、徴兵された彼は、そのアメリカを「鬼畜米英」として敵対する、日本軍として戦わねばならなかった。
日本は父母の祖国であるが、アメリカは彼の祖国である。戦争が人間を引き裂き、更に、彼の心をズタズタに引き裂いていった。
ハワイ生まれの彼は、うまく日本語が話せないことから、軍隊では、何かにつけて目の敵にされた。
緊張のあまり英語が出てしまうと、古参兵から「敵国語を使うな!」と殴られた。また、敬語が正しく使えないために、「その日本語はなんだ!」と、顔の形が変わるほど、殴られたこともあった。
22 旭日(22)
ヒロト・ヒラタは、祖国アメリカを憎むことを強いられ、殴られ続けることに耐えて、ようやく終戦を迎えた。
そして、二年後、父の郷里の宮城県に復員した。
やがて、結婚するが、妻は病弱だった。その妻が先に入信し、彼も妻や訪ねて来る学会員から、信心の話を聞かされた。
「祈りとして叶わざるなし」との確信あふれる言葉が、ヒラタの心を揺さぶった。彼は信心を始めた。
ヒラタには一つの願いがあった。それは、既に失われたアメリカの市民権を再び得て、ハワイに帰ることだった。
日本での暮らしにも慣れ、日本語にも、かなり習熟はしたが、生まれ育った故郷で暮らしたいとの思いを、断つことはできなかったのである。
彼は一心に勤行・唱題に励んだ。最初は慣れぬ勤行に半日も費やした。
しかし、信心を始めて一カ月もたたないうちに、一通の手紙が届いた。アメリカ政府からの市民権の復活を許可する知らせだった。
ヒラタがハワイに戻ったのは、半年前のことであった。彼は、生活の足掛かりをつくるために、まず一人で、ハワイに帰ってきたのである。
山本伸一は、ヒラタに尋ねた。
「奥さんは学会の役職はもっていますか」
「地区担をしています」
「そうですか。あなたは何か役職にはついていましたか」
「日本を発つ前に、組長の任命を受けました」
それから伸一は、一人一人に、信心を始めて何年になるかを尋ねていった。多くは一年ほどで、長い人でも三、四年ほどである。
「わかりました。きょうは、日本から私と一緒に、五人の幹部が来ています。皆さんが顔を知っている人もいると思います。
これから一人ずつあいさつしてもらいます。みんな英語はペラペラなんです」
伸一が言うと、同行の幹部がポッと顔を赤らめた。笑いがもれた。
「本当は英語で話したいらしいけど、きょうは、皆さんに日本語を忘れないようにしてもらうために、日本語で話をしますからね」
幹部が次々に立って、自己紹介を兼ね、日本での活動の模様を伝え、指導、激励していった。
話が堅苦しくなると、伸一はユーモアを交えて、解説を加えた。
ここでは伸一は中心者であるだけでなく、司会者であり、進行係でもあった。
23 旭日(23)
皆の心は、次第に一つに溶け合い、会場は笑いと和気に包まれていった。
互いに同志の存在さえ知らず、孤軍奮闘してきた同志にとって、そこは心から安できる、ほのぼのとした安らぎの園となった。
山本伸一は、それを待っていたのである。
彼はにこやかな笑顔で、皆を包み込むように見渡して言った。
「皆さんはハワイにやって来て、いろいろなご苦労をされたことでしょう。言葉も、文化や習慣も違うなかで、どうやって信心していけばよいのか、悩んだ方もいるでしょう。皆さんの苦労も、悩みも、よくわかります。
きょうは、どんなことでも構いませんから、自由に質問してください」
すぐに、二、三人の手があがった。
質問会が始まると、同行の幹部はそっと座を外し、地区結成の人事の検討に入った。
最初の質問は、若い婦人だった。
「私、日本に帰りたいんです。でも、どうすればよいのかわからなくて……」
こう言うと、婦人は声を詰まらせた。目が潤み、涙があふれた。
しかし、嗚咽をこらえて婦人は話を続けた。
彼女は東北の生まれで、戦争で父を亡くしていた。家は貧しく、中学を卒業すると東京に出て働いた。
数年したころ、朝鮮戦争でアメリカの兵士として日本にやって来た、ハワイ生まれの夫と知り合った。母親は結婚に反対したが、それを押し切って、彼と一緒になった。
そのころ、彼女は知人から折伏され、入信した。二年前のことだ。そして、ハワイに渡り、夫の実家での生活が始まった。
自由と民主の豊かな国アメリカ──それは、彼女の憧れの天地であった。いや彼女だけでなく、当時の日本人の多くが憧れ、夢見た国といってよい。
しかし、彼女の夢は、あえなく打ち砕かれた。夫の実家での暮らしは経済的にも決して楽ではなかった。また、言葉も通じない日本人である彼女に、家族は冷たかった。
更に、夫までも、彼女に暴力を振るうようになり、夫婦の間にも亀裂が生じていったのである。
日ごとに、後悔の念が増していった。孤独の心は、次第に暗くなり、海に沈む真っ赤な夕日を見ながら、彼女は泣いた。
──この海の向こうには日本がある。帰りたい。
頬を伝う涙は、傷ついた心に冷たく染みて、悲しさをますますつのらせた。
24 旭日(24)
山本伸一は、婦人の話をじっと聞いていた。
「……それで私、主人と別れて、日本に帰りたいのです。でも、母の反対を押し切って結婚しましたから、日本に帰っても、誰も迎え入れてはくれません。どうしてよいのか、わからないんです……」
婦人はここまで話すと、肩を大きく震わせて泣きじゃくった。その涙に誘われるように、会場の婦人たちからも嗚咽が漏れた。
座談会の参加者のなかには、似たような境遇の婦人が少なくなかった。国際結婚という華やかなイメージとは裏腹に、言語や習慣の異なる異国での生活は、予想以上に厳しく、多くの障害が待ち受けていた。
「敵国人」であった日本人に対する偏見もあった。彼女たちの多くは、そんな生活に落胆し、暗澹たる思いで暮らしてきたといってよい。
伸一は大きく頷くと、静かに語り始めた。
「毎日、苦しい思いをしてきたんですね。辛かったでしょう。……でも、あなたには御本尊があるではありませんか。信心というのは生き抜く力なんですよ」
彼の言葉に力がこもっていった。
「ご主人と別れて、日本に帰るかどうかは、あなた自身が決める問題です。ただし、あなたも気づいているように、日本に帰れば、幸せが待っているというものではありません。
どこに行っても、自分の宿命を転換できなければ、苦しみは付いて回ります。
どこか別の所に行けば、幸せがあると考えるのは、西方十万億の仏国土の彼方に浄土があるという、念仏思想のようなものです。
今、自分がいるその場所を常寂光土へと転じ、幸福の宮殿を築いていくのが日蓮大聖人の仏法なんです。
そのためには、家庭の不和に悩まなければならない自らの宿命を転換することです。自分の境涯を革命していく以外にありません。
自分の境涯が変われば、自然に周囲も変わっていきます。それが依正不二の原理です。幸せの大宮殿は、あなた自身の胸中にある。そして、それを開くための鍵が信心なんです」
彼は今、様々な不幸を追放せんと格闘していた。
一人の婦人の心を覆う不幸の闇を打ち破り、勇気の泉を湧かせ、希望の明かりをともすための、真剣勝負の戦いであった。
伸一には、婦人の辛さも、苦しさも、寂しさも痛いほどわかった。それだけに、何としても強く生き抜く力をもって欲しかった。
25 旭日(25)
山本伸一は、強い確信を込めて言った。
「真剣に信心に励むならば、あなたも幸福になれないわけは断じてない!
まず、そのことを確信してください。そして、何があっても、明るく笑い飛ばしていくんです。
ご主人だって、奥さんがいつも暗く、めそめそして、恨めしい顔ばかりしていたのでは、いやになってしまいますよ。
また、言葉が通じなければ、家族の間でも誤解が生まれてしまいます。ですから、一日も早く英語をマスターして、誰とでも意思の疎通を図れるように努力してください。これも大事な戦いです。
ともかく、ご主人やご家族を憎んだり、恨んだりするのではなく、大きな心で、みんなの幸せを祈れる自分になることです」
彼は、ここまで語ると、優しく笑みを浮かべた。
「あなた以外にも、このハワイには、同じような境遇の日本女性がたくさんいると思います。
あなたが、ご家族から愛され、慕われ、太陽のような存在になって、見事な家庭を築いていけば、日本からやってきた婦人たちの最高の希望となり、模範となります。みんなが勇気をもてます。
あなたが幸せになることは、あなた一人の問題にとどまらず、このハワイの全日本人女性を蘇生させていくことになるんです。
だから、悲しみになんか負けてはいけません。強く、強く生きることですよ。そして、どこまでも朗らかに、堂々と胸を張って、幸せの大道を歩いていってください。さあ、さあ、涙を拭いて」
伸一の指導は、婦人の心を、激しく揺さぶらずにはおかなかった。慈愛ともいうべき彼の思いが、婦人の胸に熱く染みた。
彼女は、ハンカチで涙をぬぐい、深く頷くと、ニッコリと微笑んだ。
「はい、負けません」
その目に、また涙が光った。それは、新たな決意に燃える、熱い誓いの涙であった。
伸一の平和旅は、生きる希望を失い、人生の悲哀に打ちひしがれた人々に、勇気の灯を点じることから始まったのである。
それは、およそ世界の平和とはほど遠い、微細なことのように思えるかもしれない。
しかし、平和の原点は、どこまでも人間にある。一人一人の人間の蘇生と歓喜なくして、真実の平和はないことを、伸一は知悉していたのである。
26 旭日(26)
次の質問者は、日本で入信し、二年前に一家でハワイにやって来たという、中年の小柄な婦人であった。
彼女は困り切った表情で、小声で尋ねた。
「あのー、私の息子がキリスト教の学校に通っているんですが、やはり謗法なのでしょうか……。ほかに適当な学校がないんです」
「かまいません。あなたのお子さんは、キリスト教を信仰するためではなく、学問を学ぶために学校に通っている。そうであれば、全く問題はありません」
山本伸一は、明快に答えた。婦人の顔に安堵の色が浮かんだ。
「本当ですか! よかった。キリスト教の学校にお金を払っているものですから、謗法に供養しているのではないかと、心配だったんです」
日本で、法の正邪の判別の大切さを教えられてきた彼女は、息子をキリスト教の学校に通わせていることに、強い心の痛みを覚えていたようだ。
「学校にお金を納めているといっても、それは授業料であって、キリスト教への供養とは違います。そこで学問を教わっているのですから、それに対して報酬を支払うのは当然ではないでしょうか。
私たちの信心の根本は、日蓮大聖人の顕された御本尊を信じ、祈ることです。その根本さえ誤らなければ、後は窮屈に考える必要はありません」
キリスト教の影響が色濃いアメリカ社会で生きるメンバーにとっては、こうした事柄の一つ一つが、深刻な悩みとなっていたにちがいない。
彼は、更に掘り下げて、この問題について、語っておこうと思った。
「私たちの生活様式や文化は、たいてい宗教となんらかの関わりをもっています。例えば、日曜日にはほとんどの会社が休みにしていますが、これはキリスト教が、日曜を安息日としたことから始まっています。
だからといって、日曜日に会社を休むのは謗法だなどといっていたら、社会生活はできなくなってしまいます。
また、音楽や絵画の多くも、宗教の影響を受けています。でも、芸術を鑑賞することは、その教えを信ずることとは違います。ですから、こんな絵を見てはいけないとか、こんな音楽を聴いたら謗法だなどと考える必要はありません。
もしも、信心したことによって、芸術も鑑賞できないようになってしまうなら、それは人間性を否定することです」
27 旭日(27)
「人間」のための宗教がある。「宗教」のための宗教もある。
「宗教」のための宗教は教条主義に陥り、宗教の名のもとに民衆を縛り、隷属させようとする。その結果、人々の精神の自由は奪われ、良識も人間性も否定されてしまう。そして、社会との断絶を深めてゆく。
日蓮大聖人の仏法は、人間性の開花を目指す、「人間」のための宗教である。その仏法を口にしながら、芸術や文化を「謗法」と断ずる宗教の指導者がいるなら、大聖人の御精神を踏みにじる、邪悪な教条主義者といわねばならない。
それは、仏法を歪め、世界広宣流布の道を閉ざす行為以外の何ものでもあるまい。
山本伸一は、次の質問に移っていった。
一人の壮年が、おずおずと手を挙げた。数日前に信心を始めたばかりの壮年である。名前はミツル・カワカミといった。
「この信心で、亡くなった父親も救われますか」
唐突とも思える質問であった。カワカミは彫りの深い顔に憂いを漂わせ、真剣に伸一を見つめていた。
「必ず救われます。その証拠として、あなたの境涯が変わります。あなた自身が幸せになります」
確信にあふれた答えであった。壮年の表情が和らぎ目に涙さえ浮かべていた。
彼にとって、他界した父が救われるかどうかは、自分の現実以上に大きく心にのしかかる問題であった。
彼はオアフ島の出身で、九人兄弟の次男であったが、弟三人は幼児期に相次ぎ病死していた。五歳の時、彼も原因不明の病気で、「右足首切断」の宣告を受けた。
父は、彼にはなんとしても、五体満足でいて欲しかった。日本での治療に望みを託した父親は、養豚業をやめて帰国を決意した。
彼は、父の故郷である広島の病院で精密検査を受けた。病名は骨膜炎と診断され、幸いにも切断を免れることができた。愛児を救おうとする父親の思いが、彼を救ったといってよい。
しかし、十三歳の時、その父親が他界した。
ミツル・カワカミは十五歳になると、母と弟妹を日本に残して、家計を支えるためにハワイに旅立った。
苦労に苦労を重ねて地歩を築き、木炭製造業の仕事もなんとか軌道に乗ってくると、他界した父に、親孝行一つできなかったことが悔やまれた。
──あの世にいる父を幸せにし、恩返しをすることはできないものか……。
彼は、真剣に考え始めたのである。
28 旭日(28)
亡き父への報恩の道を求めて、ミツル・カワカミの宗教の行脚が始まった。
人に勧められるままに、皇大神宮の神札をはじめ、ありとあらゆるものを拝んだ。
キリスト教の教会に行って、牧師に、「他界した父親を信仰で救うことができますか」と、尋ねたこともあった。
牧師は「救えます」と断言したが、「それでは、その証拠を見せて欲しい」と迫ると、途端にいやな顔をした。牧師の答えはあいまいであり、彼は落胆して帰ってきた。
その彼が、信心する契機となったのは、日本にいた母が入会したことであった。母親は、学会の出版物を彼に送ってよこした。そこには、誤った宗教こそが不幸の原因であることが書かれ、鋭く他宗を破折していた。
──ここまで言い切り、もし、それが真実でないとしたら、当然、名誉毀損で訴えられているだろう。学会のいうことは本当なのかもしれない。
彼は、母をハワイ旅行に招待した。母に会って詳しく信心の話を聞くうちに、入会してみる気持ちになった。そして、数日前に正木永安と会い、信心を始めたのである。
山本伸一は、こう話を結んだ。
「日蓮大聖人は『法華経を信じまいらせし大善は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う』と仰せです。
つまり、子供であるあなたも、亡くなったお父さんも成仏し、必ず幸せになれると、宣言されているんです。
ですから、何があっても、堂々と信心し抜いていくことです。あなた自身が、こんなに幸せになりましたと、胸を張っていえる信心を全うした時、お父さんも、必ず幸せになっています」
ミツル・カワカミは、伸一の確信にあふれた指導に、自分の心を覆っていた霧が、払われていくような思いにかられた。
更に二、三人の質問に答えた後、伸一は言った。
「きょうは、日本での学会の活動を紹介するスライドを持ってきておりますから、それを見ましょう」
このスライドは、遠く日本を離れている同志に、学会の新たな前進の鼓動を伝えようと、伸一が、聖教新聞の編集部長である青年部長の秋月英介に依頼して、制作したものであった。
秋月がスライドを操作し、説明した。その間に、伸一は、同行の幹部の人事案をもとに、地区結成の人事の検討に入った。
29 旭日(29)
副理事長の十条潔をはじめとする同行の幹部の人事案では、女子部の区長は、これまで海外係との連絡の窓口になってきた、永田由美子となっていた。
また、男子部の隊長は、島内見学の際に車を運転していた青年ということで、意見の一致を見ていた。
しかし、地区部長、地区担当員は決めかねていた。
伸一はその話を聞くと、直ちに言った。
「地区部長は、あのリキさんにしよう。彼は英語が堪能だ。これからは、日系人以外の人もどんどん信心するだろうから、英語ができることは、大事な要件になる。
また、日本とアメリカの狭間で苦労してきた彼は、人種の坩堝といわれるハワイをリードしていくには、適任ではないかね。それに彼は人柄がよい」
皆、多少、不安を感じている様子であったが、さりとて代案もなかった。
「地区担はどうしましょうか」
婦人部長の清原かつが尋ねた。
「確かリキさんの奥さんは、日本で地区担をしていて、間もなくハワイに呼ぶことになっていると言っていたね。
それなら、その奥さんが来たら、地区担をやってもらうべきだ。
それまでは空席でよいと思う。決して、焦ってはならない」
スライドの上映が終わったところで、伸一から、地区結成の発表がなされた。
「きょう、私はこのハワイに地区を結成したいと思っていますが、皆さん、いかがですか」
一瞬、誰もがキョトンとしていた。
同志の数も少ないハワイに、地区ができることなど、誰も予想していなかったからである。
「ハワイは世界の広宣流布の大事な要衝の地です。また、今回、世界への平和旅の第一歩が印された、広布の歴史に永遠の輝きを放つ場所となります。
ですから、未来のためにも、敢えて、ここに地区をつくっておきたいのです」
伸一がこう言った時、初めて歓声があがった。
「地区部長は、リキさんにやってもらおうと思いますが、いかがでしょうか」
賛同の拍手が起こった。
一番驚いたのは、ヒロト・ヒラタ本人であった。
「私が地区部長ですか。そんな大任を果たせるかどうか……。私は信心のことは、本当に何もわからないのです」
30 旭日(30)
戸惑いの色を浮かべるヒロト・ヒラタに、山本伸一は言った。
「そうです。あなたに地区部長をお願いします。今は何もわからなくても、これから一つ一つ覚えていけばよいのです。
まず、何よりも、この地区の人たちを幸せにするんだという、強い一念をもつことです。また、みんなの相談相手になり、どうすれば全員の力が引き出せるのかを考えてください。
これからは、あなたが真剣に祈り、動いた分だけ、ハワイは発展します。また、それが全部あなたの功徳と福運に変わります。
力道山といえば、世界一強いレスラーです。リキさんも負けないで、世界一強い、立派な地区をつくってください。楽しみにしています」
「はい!」
ヒラタは、これから自らが担う責任の重さに、打ち震える思いがしたが、伸一の励ましは、それに勝る勇気を沸き立たせた。彼の目は、闘志に燃えていた。
その時、「先生……」と言って、一人の青年が立ち上がった。トニー・ハラダである。
「申し訳ありませんが、時間がないので、これで失礼させていただきます」
「ハラダ君、また帰ってしまうの?」
伸一は、ハラダに笑顔を向けた。
「ええ、ハワイ島に帰る飛行機の時間ですので」
「そうか。君のことは生涯忘れません。ところで、君にも男子部の班長になってもらおうと思うんだけど、いいかい?」
「はい……」
「日本で班長といえば百人ぐらいの部員がいるが、君には一人もいないことになる。でも、班長は班長です。その自覚で、君が自分の力で班をつくっていくんだよ。それが本当の学会の組織なんだ。
戸田先生は『青年よ、一人立て! 二人は必ず立たん、三人はまた続くであろう』と言われている。その精神で戦うのが学会の真実の青年です。
これから君が、どういう戦いをし、どう生きていくのか、私は、十年先、二十年先、三十年先まで、じっと見ていきます。
勝とうよ、人生に。絶対に自分に負けないで、ぼくに付いてくるんだよ」
「はい! 頑張ります」
ハラダのは、紅潮していた。
「じゃあ、気をつけて。どうもありがとう。また会おうね!」
伸一は、こう言ってハラダを見送った。
31 旭日(31)
山本伸一は一通り人事を紹介した後、最後に力を込めて語った。
「皆さんは、日本とハワイは遠く離れているように思うかもしれないが、ここは目と鼻の先です。庭先のようなものです。今はジェット機も就航し、七時間もあれば来てしまう。
ですから、寂しく感じたり、独りぼっちだなんて考えるのではなく、早く福運をつけ、行きたい時には、いつでも日本に行ける境涯になることです。私も、また、必ず来ます。何度もやって来ます。
ここは、常夏の楽園であり、海も美しい、花も美しい。世界中の人たちがハワイに憧れています。
しかし、ハワイの過去の歴史は、決して、幸せに満ちたものではなかった。ことに日系人の皆さんには、辛く、悲しい歴史であったといえます。
その宿命を転換するために、皆さんはここにいる。皆さんは、仏の子としての、限りなく大きな使命をもっているのです。
どうか、その使命と誇りを胸に、誰からも信頼される市民になってください。人々から愛され、尊敬されていくことが、弘教につながり、その広がりのなかに広布があるんです。
皆さんが、この美しき楽園で、幸せの大輪を見事に花開かせることを祈っています。今度は日本で、また、お会いしましょう」
メンバーの多くは、船で約一週間がかりでハワイに渡っており、日本とは遠く海を隔てた別世界であるとの思いが強かった。
ハワイは庭先であるとの指導は、日本が忘れられずに、ホームシックにかかっていた人たちの心を一変させた。
自らの使命を自覚した人は強く、使命に生きる人は美しい。
皆、目からウロコが落ちたような気持ちがした。自分たちがこれまで、孤独に陥り、思い悩んでいたことが、不思議にさえ感じられるのであった。
そして、ついさきほどまで、悲哀の色に塗りつぶされているように見えた、山や海までが、希望の輝きを放っているように思えるのであった。
メンバーの立場も、境遇も、何一つ変わったわけではなかった。しかし、目に見えない何かが、確かに変わったことは間違いなかった。その無形の一念の変化が、それぞれの境涯を変えようとしていた。
伸一は、皆と握手を交わし、尊い仏子である宝友が、一人ももれなく、幸福の人生を歩むことを祈り念じつつ、会場を後にした。
車窓から見た、海を紅に染めて燃える夕日が、あまりにも美しかった。
32 旭日(32)
トニー・ハラダは、ハワイ島に向かう飛行機の窓から、真っ赤な夕日を眺めていた。彼の胸にも、決意の炎が赤々と燃え盛っていたのである。
──もう自分に負けてはいないぞ。ぼくは、若い仏法の指導者なのだ。学会の男子部のリーダーなんだ。
彼は、ハワイの地で広布に生きる自己の使命を思いながら、二十余年の、紆余曲折に富んだ人生を振り返っていた。
トニー・ハラダは、横浜で幼少期を送り、四歳の時、父を結核で亡くしていた。父はハワイ島生まれの日系二世であった。父親の死は、残された家族を貧乏のどん底に突き落とし、彼は小学校二年で養子に出された。「口減らし」のためである。
それから、他家を転々とする生活が始まった。どの家でも、労働力として働くことを強いられ、子守り、水み、薪割りなど、いつも空腹と眠気にさいなまれながら、身を粉にして働かねばならなかった。
しかし、それよりも辛かったのが、トニーという名前のために、「孤児のアメリカ人!」と言って、ほかの子供たちから苛められることだった。
幾度となく、石を投げつけられたりもした。彼は自分の名前が悲しかった。そして、自分を手放した母を恨んだ。
ハラダは中学を卒業すると漁船に乗った。仕事は、いつも危険との隣り合わせだった。
一九五四年(昭和二十九年)、十七歳の秋、大時化にあった。青函連絡船・洞爺丸が沈没し、死者・行方不明者千百数十名を出した、あの台風15号に遭遇したのである。
漁船は木の葉のように大波に弄ばれ、乗員は、皆、死を覚悟した。
彼は死の恐怖のなかで、ある考えが頭をよぎった。──もし、無事に帰れたら船を降りよう。そして、母を捜して会ってみよう。
九死に一生を得た彼は、船を降りた。約十年ぶりに母とも対面することができた。しかし、母からは親の情を感じとることはできなかった。それでも、暫くは一緒に暮らすことにした。
それから一年ほどしたころ、子供のときに住んでいた、横浜の家を訪ねてみた。
その家とともに、記憶の底に、かすかに息づいている父の面影をしのびたかったのである。
応対に出たのは、一人の婦人だった。彼女はこの家を購入したときのことを、よく覚えていた。
まだ小さかったハラダのことも記憶していた。
33 旭日(33)
婦人は、トニー・ハラダに、親しみのこもった笑みを浮かべた。
「まあ、トニーちゃんだったの」
彼女は、温かく彼を迎え入れてくれた。
その婦人は、学会員であった。そこで、彼は初めて仏法の話を聞いた。「宿命の転換」という言葉に、心が揺り動かされた。
また、自分を見下すことなく、誠意をもって話してくれる真心の温もりが、ささくれ立っていたハラダの心に染みた。
彼は入信し、男子部として、活動にも参加するようになっていった。
ある日、母親の荷物のなかから、一葉のハガキを見つけた。父の兄からの便りらしい。彼は、ハワイに伯父がいることを知った。
手紙を出した。返事がきた。そこには、ハワイに来て働かないかとあった。願ってもないことだった。日本には未練などなかった。
ようやくパスポートを手に入れ、ハワイ行きが決まった時、ハラダは男子部の先輩に連れられて、学会本部を訪れた。二年ほど前のことだ。そこで青年室長の山本伸一と会い、渡航を祝福されたのである。
彼は、ハワイ島で伯父が営む食品卸問屋で働いた。朝から晩まで仕事に追われ、休みも満足にもらえなかった。ハワイでも信心を全うしようとの決意は、瞬く間に色あせていった。
紹介者の婦人が、毎回、送ってくれる聖教新聞と、日本にいた時の男子部の先輩の便りだけが、彼の信心の糧であった。会長一行のハワイ訪問も、その新聞と先輩からの手紙で知った。
手紙には、君の一生を左右する大事な出会いになるだろうから、必ず会長一行を迎えるように──と書かれていた。
ハラダには、日本で伸一に励まされながら、満足に勤行もしなかっただけに、せめて、迎えにだけは行かなくては申し訳ないという思いがあった。
そして、伯父に無理に頼んで休みをもらい、ハワイ島から、ホノルルの空港に出迎えに来たのだった。
ハラダは今、ハワイに来てからのことを思うと、自分が情けなかった。
──先生は、そんなぼくに、会長就任の記念メダルまでくださった……。
彼は、熱い歓喜が、胸の底から噴き上げてくるのを覚えた。
──青年よ、一人立てだ。戦うぞ!
彼の心に、新たな決意がみなぎっていった。それは、ハラダ一人に限らなかった。この日、任命を受けたメンバーの誰もが同じ気持ちであった。
34 旭日(34)
夜になると、座談会で任命になった地区幹部が、ホテルにやってきた。
座談会を終えた山本伸一は、深い疲労を覚えていたが、むしろ、座談会の時以上に力を入れて、メンバーを励まし、指導した。
苗を植えても、水も、肥料も与えなければ、すぐに苗は枯れていってしまう。彼は、ハワイ地区という苗が、たくましく生長していくための養分を与えるために、心血を注ぐことを辞さなかった。
ことに地区部長になったヒロト・ヒラタには、深夜まで時間を割いて、指導に当たった。
彼は、ヒラタを連れて、ホテルのテラスに出た。テラスには、ほとんど人影はなかった。
伸一は、生活の問題から組織運営の在り方にいたるまで、あらゆる面からアドバイスしていった。
「リキさん、社会的な信頼を得るために、まず大切なのは、仕事で成功することです。それがいっさいの基盤になる。そのために、人一倍、努力するのは当然です。そして、題目を唱え抜いて、知恵を働かせていくんです。
広布をわが人生の目的とし、そのために実証を示そうと、仕事の成功を祈る時に、おのずから勝利の道、福運の道が開かれていくのです」
ヒロト・ヒラタは、瞳を輝かせ、真剣に、指導に耳を傾けていた。伸一は、確かな手応えを感じながら、幹部としての信心の姿勢を話していった。
海には、丸い月がほの白い影を映し、浜辺には、波の音が静かに響いていた。
「これからの人生は、地区部長として、私とともに、みんなの幸せのために生きてください。
社会の人は、自分や家族の幸せを考えて生きるだけで精いっぱいです。
そのなかで、自ら多くの悩みを抱えながら、友のため、法のため、広布のために生きることは、確かに大変なことといえます。
しかし、実は、みんなのために悩み、祈り、戦っていること自体が、既に自分の境涯を乗り越え、偉大なる人間革命の突破口を開いている証拠なんです。
また、組織というのは、中心者の一念で、どのようにも変わっていきます。常にみんなのために戦うリーダーには、人は付いてきます。しかし、目的が自分の名聞名利であれば、いつか人々はその本質を見抜き、付いてはこなくなります」
35 旭日(35)
ヒロト・ヒラタには、乾いた砂が水を吸い込むような、純粋な求道の息吹があった。
山本伸一は、ヒラタの手を握りながら言った。
「あなたを地区部長に任命したのは私です。あなたが敗れれば、私が敗れたことです。
責任は、すべて私が取ります。力の限り、存分に戦ってください」
「はい! 戦います」
ヒラタは伸一の手を固く握り返した。月明かりのなかで二人の目と目が光った。
ハワイはこれで大丈夫だと、伸一は思った。
月を映した海には、一筋の銀の道が浮かんでいた。
渾身の力を振り絞らずして、人の育成はできない。生命から発する真心と情熱のほとばしりのみが、人間を触発し、人間を育む。
月下の語らいは、深夜まで続けられた。
伸一が部屋に戻ると、同行の幹部も、それぞれハワイのメンバーと懇談していた。
メンバーが帰っていった時には、既に、午前零時を回っていた。
それから、一行は伸一を中心に、懇談のなかで出てきた要望や懸案事項について話し合った。
翌三日は、サンフランシスコへの移動日であった。
一行は、午前七時には、ホテルを出発し、空港に向かった。
ホノルル空港には、二十人近い人たちが見送りにやってきた。
空港に着くと、伸一は待ち時間を利用して、学会本部宛に絵葉書を書いた。
「これからサンフランシスコの指導に回るところです。なにとぞ、留守をよろしくお願いいたします」
彼の頭からは、常に日本のことが離れなかった。
伸一が絵葉書を書いていると、ハワイのメンバーが書籍や色紙を手にして、彼の周りを取り囲んだ。
「先生、何か記念の言葉を書いてください」
伸一はためらったが、メンバーの顔を見ると、なんでもしようと思った。
「みんなが喜んでくれるなら書きましょう」
彼は、一人一人の成長を念じつつ、次々とペンをとった。搭乗間際まで、寸暇を惜しむようにして、激励は続けられた。
伸一たちの乗ったユナイテッド航空九八便が、ホノルル空港を出発したのは、午前九時のことであった。
世界広布の第一ページを開いたハワイ訪問は、わずか三十数時間の滞在に過ぎなかった。
しかし、ここに、人類の歴史に新しい夜明けを告げる、平和の旭日は昇ったのである。