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日蓮大聖人・池田大作

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4 古代からの文化交流と仏教伝来  

「希望の世紀へ 宝の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)

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1  韓国初開催の「自然との対話」展
 池田 過日、ソウルで開催された「自然との対話」写真展の開幕式に、わざわざお越しいただき、誠にありがとうございました(=二〇〇二年五月二十八日から六月六日まで、「芸術の殿堂」美術館で。主催韓国=韓国SGI、韓国・中央日報社チュンアンイルボ
  いえ、とんでもない。友人として、当たり前のことをさせていただいたまでです。
 韓国初開催となる写真展、本当におめでとうございます。
 会長の写真の展示は、昨年訪日した折にも、じっくり拝見させていただきましたが、あらためて目を見張るほどに、すばらしい写真の数々でした。
 百点の作品が、それぞれ一つひとつの「ドラマ」として胸に迫ってくるのです。
 開幕式では、「世界の自然のみならず、宇宙的な現象の一瞬の真実をとらえ、人類に贈る作品です。平和・教育・環境・人権に関する対話を重ねてこられた池田先生の『愛の心』が凝縮されています」と祝辞を述べさせていただきました。
 池田 私の拙い作品に対し、ご寛大な評価を賜り、恐縮です。
 さらに、済州大学の創立五十周年記念式典(二〇〇二年五月二十七日、同大学で)には、わが創価大学の代表もお招きいただき重ね重ね、御礼申し上げます。
  創価大学の方々が済州大学に来られるのは、「いつものこと」ではないですか(笑い)。「兄弟の大学」なのですから、こんなにうれしいことはありません。
 私が総長の職に就いていた頃、新たに交流関係を結んだのは、国内の大学が一つ、日本の大学が二つ、中国の大学が一つです。
 創価大学は、そのうちの一つ(一九九八年、学術交流協定を調印)ですが、現在、最も実質的な交流が行なわれている大学です。
 韓国と日本の大学で、毎年、何十人もの学生が長期滞在して交流を深めているのは、あまり例がないのではないでしょうか。
 池田 創価大学の創立者として、学生たちが、貴国で生き生きと交流を重ね、豊かな文化を学び、人間として大きく成長した報告を聞くことは、何よりもうれしいことです。
  私も、創価大学から戻ってきた学生の話を聞くことが、楽しみでなりません。
 以前、お話ししたように、交流協定を結んだ当時は韓国がIMF(国際通貨基金)の管理下に置かれ、あらゆる経営管理体制が合理化を求められていた時でした。
 そのさなかに総長として大学を引っ張っていくのは、時に苦悩をともなうものでした。
 特に、予算が削られるなかで、交流関係を結んだ大学と、どのように具体的・実質的な交流を進めていくかが、私にとって最大の課題でした。
 当然のことながら、こちらだけの熱意では限界があります。交流先の大学にも、こちらに勝るとも劣らない、熱意、情熱がなければ、到底満足のいく交流にはならないだろうと覚悟していました。
 理想どおりに進めるのは難しいことだと、もちろん分かってはいましたが、私は、第一に学生のために、妥協するわけにはいきませんでした。
 池田 趙博士の熱意に、感謝は尽きません。
 大学は、学生のために存在します。学生のために尽くすことこそ、大学の精神であり、本来の在り方です。総長としての博士のご尽力こそが、今日の交流を開いてくださったのです。
2  光った韓国の「負けじ魂」
 池田 さて、韓国と日本の共催による、アジア地域初のサッカーのワールドカップは、両国に大きな感動をもたらしました。
 なかでも、両国の決勝トーナメント初出場、しかも、ともに一次リーグを一位で通過したことは、両国民に計り知れない勇気と希望を与えました。
 日本はその後、惜しくも決勝トーナメントの一回戦で敗れてしまいましたが、貴国は優勝候補の国に、見事、勝利しベスト4に進出されましたね! おめでとうございます。
  ありがとうございます。
 言うまでもなく、今回のワールドカップは、二十一世紀の「韓日友好」の流れをつくる大きなきっかけの一つです。
 第一次リーグを突破したときも、ソウルをはじめとして大変な盛り上がりでしたが、イタリア戦・スペイン戦はそれ以上でした。
 池田 本当にすばらしい戦いでしたね。
 韓国の人々の「底力」というか、「負けじ魂」に、感動した日本人も大勢いました。
 韓国のチームを突き動かしたのは、「何としても勝ちたい」という「一念」でした。応援した人々も皆、だれもあきらめなかったにちがいありません。
 韓国の人びとの「負けじ魂」が光っていました。
 また、海外メディアの取材に対して、「共催国の韓国にも頑張ってほしい」と応じた日本の若者が何人もいました。
 ともかく、「韓国も、日本も、本当におめでとう!」と、心から申し上げたい思いです。
  本当に、そのとおりですね。韓日両国にとって、大きな意味のある大会でした。
 池田 ところで、済州島でも、西帰浦ツグイポ市が開催地でしたね。外国の方々も大勢いらしたのでしょうか。
  ええ。もともと観光客が多い島ですが、このような「平和の祭典」でにぎやかになるなら、大歓迎です。
3  激動の七世紀
 池田 これまで、鎌倉時代の元冠の影響、豊臣秀吉による侵略、かつてない友好交流をもたらした江戸時代の朝鮮通信使、そして日清・日露戦争を経て、日本が貴国の外交権を剥奪する過程などを語り合ってきました。
 ここで、歴史を立ち戻って、平安時代以前の、両国の関わり合いを見ていきたいと思います。
 まず「建国時期」ですが、両国ともその具体的な年代がはっきりしないというのが現状です。
  確かにむずかしい問題です。
 日本について言えば、日本列島の統合の出発、つまり今日、「日本」と呼んでいる地域が大まかにまとまってきた時期が三世紀か、五世紀か、七世紀かということで、意見が分かれています。
 三世紀は、「魏志倭人伝」に記された「邪馬台国」の時代。
 五世紀は、『宋書』倭国伝の「倭の五王」と巨大古墳の時代。
 そして、七世紀は、いわゆる”飛鳥・藤原京”が造成され、古代国家がほぼ成立する時代です。
 史実を検証するための文献として、日本には『日本書紀』が、貴国には『三国史記サムグクサギ』があります。
 しかし現在では、これらの文献の記述の一部は、史実を正確に反映していないというのが定説となっています。
  人間は、ともすると史実よりも、自国を正当化する歴史観に陥りがちです。
 「事記としての史実」と、「史料の選択・解釈・編集の結果としての史実」が異なることは明らかです。
 後者は、「選択」という段階で「史観」が含まれてくるからです。
 また、歴史とは、「歴史的勝者」の記録が、「敗者」の記録に比べて量的にも質的にも、有利に作用するようにできています。
 池田 ええ、それは、世界の歴史全般について言えることですね。
 また歴史は、為政者の側からの記述が主となり、民衆の側からの視点が欠落しがちです。
 ここで、「激動の七世紀」について、少々、概説しておきたいと思います。
 まず、紀元六一八年、中国で、高祖・李淵が「隋」を滅ぼし、巨大王朝「唐」が誕生します。
 このころ韓半島では、高句麗、百済、新羅の国が割拠しており、日本では聖徳太子の摂政政治が行われていました。
 ついで、日本では、六四五年、舒明天皇と皇極天皇(女帝)の子である中大兄皇子(後の天智天皇)が、中臣鎌足(後の藤原鎌足)とともに、渡来系の有力豪族であった蘇我氏を倒します。「大化の改新」と呼ばれる事件です。
 十五年後の六六〇年、唐と新羅の連合軍が百済を破り、半島の三国の均衡が崩れます。
 中大兄皇子は斉明天皇(皇極天皇が再度即位)とともに、”百済救済軍”の派遣を決定。六六一年と六六三年の二度、派遣します。
 しかし、六六三年の「白村江の戦い」で大敗を喫します。
 これらの大きな出来事については、内容、年代ともに、ほぼ認められています。
  白村江での敗戦は、日本人がかつて経験したことがなかった試練だったのですね。
4  白村江での敗戦が日本にもたらしたもの
 池田 その辺の事情について、次のような記述があります。
 「『日本書紀』では、『日本』という国名をつかっているが、兵士たちに国家への意識があったかどうか。氏族という小世界の長老の命ずるがまま軍船にのり、いつのまにか涯もない大海にうかんでしまっていたというのがおおかたの実感であったろうし、ときには日本という国名さえ知らない若者もいたにちがいない」
 「日本人が個々の意識のなかで誕生するのは、このときが最初であったにちがいない」(司馬遼太郎「韓のくに紀行」朝日新聞社」
 諸説はありますが、かなり的を射ている記述ではないでしょうか。
 さらに、「白村江の戦い」については、常葉学園大学の金両基キムヤンキ教授も、最近の『聖教新聞」に、興味深いお話を寄せてくださいました(二二年六月九日付)
  どのようなお話でしょうか
 池田 「白村江での敗戦」が、日本人のトラウマ(精神的外傷)として残いるとする、精神分析の学説を紹介しているのです。
 金教授は、次のように解説を加えています。
 「『敗北の無意識的な記憶が』日本人のなかに残り、豊臣秀吉の侵攻(文禄・慶長の役)、明治維新時の『征韓論」、日韓併合、朝鮮人差別などはそのトラウマの延長線上にあるというのである。
 そのトラウマが、徳川幕府と朝鮮王朝との二百年を超える親善友好の象徴であった朝鮮通信使の往来をも、歴史の表舞台から消そうとしてきたのである」
 朝鮮通信使については、詳しく語り合いましたが、極めて友好的な関係を担った、「平和のイベント」でした。
 しかし、残念なことに、明治以降、語られることが少なくなった。その原因も、七世紀の事件が発端になっているというのです。日本人の心の傾向性を探る、ヒントになる指摘かもしれません。
5  日本初の”大学総長”は百済人
  「白村江の戦い」は日本にとって、外国との初めての大規模僚な戦争でしたが、百済の残党とともに戦った日本は、負けてしまった。
 負けたこと自体も相当のショックだったでしょうが、一方で「カルチャーショック」も大きかったのではないでしょうか。
 池田 百済王子であった余豊璋ヨブンジャンと、百済復興軍の指導者であった鬼室福信クイシルボクシンとの確執が、敗退への原因であったとも伝えられています。
 日本では、六六三年の戦いの翌年には、「冠位二十六階」をはじめ、さまざまな律令が整え始められました。そして六六七年、飛鳥から大津に遷都します。
 この頃に、諸制度のなかで、「大学寮」が初めて設けられます。
 大学寮とは、まだ制度はさほど整つてはいなかったのですが、今でいう大学のようなもので、その「常識頭ふみのつかさのかみ」とは、文部大臣と大学総長を兼ねているとも言うべき立場です。それに、鬼室一族の鬼室集斯クイシルジブサが抜擢されています。つまり、日本最初のか大学総長は、百済人だったのです。
  それは興味深いお話です。
 「唐」という大帝国と戦って惨敗し、強い統一国家を確立する必要に迫られていたのでしょうか。
 何万という百済人が、日本に移動したといいますが、そのように待遇していただいたことは、当時の日本人の懐の大きさを示すものではないでしょうか。
 池田 それと実際問題として進んだ文化を受容していくには、百済に頼るしかなかったとも言えるのです。
 一方、六七二年には、日本古代史上最大の合戦が勃発しました。
 「壬申じんしんの乱」です。皇位継承をめぐる争いでした。
 その後、律令国家の国づくりが推進され、七一年には、平城京に遷都。「天平文化」が花開くことになります。
 以後、八世紀からの日本の歴史は、文物も多く残されていることもあって、追いやすいのですが、七世紀までの時代の研究は、多くの学者が実にさまざまな説を発表しており、それらを一つひとつここで検証するには、時間も紙数も足りません。
 もう少しはっきりとした輪郭で歴史が浮かび上がってくるまで、研究の成果を待たざるをえないのが現状です。
 両国の共同研究の成果も待たれるところです。
  そうですね。
 古代史は、民族のアイデンティティーに関わる部分でもあり、韓国と日本、また日本国内でも、意見が分かれるところだと思います。
 池田 ええ。それでここでは、「文化」という側面にしぼて、古代の文化交流を探ってみたいのです。
  賛成です。
6  仏教=総合文化の伝来
 池目 あらためて申し上げるまでもないことですが、仏教を日本に伝えてくださったのは、文化「兄の国」であり「師匠の国」である貴国です。
  繰り返し、わが国を讃えていただき、本当にありがとうございます。
 仏教が日本に伝えられたのは、諸説ありますが、おおむね六世紀の中ごろのようです。
 このうち、有力なものの一つが、百済の王であった聖王ソンワンが、紀元五三八年に伝えたという説です。『日本書紀』などでは「聖明王」として記されています。
 聖王は、仏像をもたらしたほか、高名な苦行僧、尼僧、祈祷師、寺大工、仏師らを派遣し、欽明天皇に次のように伝えたと言われます。
 「仏教は数々の教えのなかでも最も秀で、周公、孔子も及びません。天竺から三韓まですべての国が敬っています。
 倭国の地において弘まるならば、仏が語った、この教はこの教えは東に伝わるであろう、との言を果たすことになります」と。
 以後、蘇我氏を中心とする「崇仏派」によって、仏教文化の導入は加速されていますね。
 池田 当時、「仏教」とは、単なる「宗教」「思想」ではなく、「総合文化」とほぼ同義でした。
 インドの哲学者・ロケシュチャンドラ博士も語っていました。
 「奈良・橿原の考古学博物館を見学して、あらためて知ったのですが、仏教伝来を機に、日本文化が一変しているのですね。
 仏教の伝来以来、日本の宗教は、『儀式』にとどまるものでした。古墳など『死後の世界』が関心の中心でした。
 仏教の伝来以後、特に法華経に象徴される『花開く』イメージーー『死後』ではなく、『現在を花開かせる』思想が、日本の構造を変えたのです」と。
  なるほど。仏教がどのようなイメージで人びとに受け止められたのか、その側面が分かるようですね。
 池田 先ほどの話で聖王が派遣したなかに、大工や仏師が含まれていたように、「仏教」を伝えるということは、同時に、漢字、美術、音楽、土木・灌漑技術、医術、薬学、天文学などを伝えることーーつまり、ありとあらゆる「文化」を伝えることと同じ意味でした。さらに古くには、稲作も、青銅器や鉄器も、紙や墨や漆も、貴国の先哲によって伝えられてきた。御礼をいくら申し上げても、足りないくらいです。
 日蓮大聖人の「御書」には、「百済」の名が、なんと三十カ所以上に登場します。
 例えば、「百済国より一切経並びに教主釈尊の木像・僧尼等・日本国にわたる」(263ページ)、「百済国より経・論・僧等をわたすのみならず金銅の教主釈尊を渡し奉る」(997ページ)、「百済国と申す国より聖明皇・日本国に仏法をわたす」(1309ページ)など、まさに枚挙にいとまがありません。
 貴国からの大恩に関する記述を、繰り返し繰り返し、後世のために厳然と残されているのです。
 私どももまた、同じ気持ちです。
 これが、「貴国は文化大恩の国である」と、繰り返し申し上げている大きな理由の一つです。
7  日本で初めての寺院
  日蓮大聖人という方は、聖明王、つまり百済の王の名まで、書き残してくださっているのですね。
 さて、日本で初めての「寺院」は、蘇我馬子が建立した「飛鳥寺(法興寺)」であると言われています。
 五八八年、百済から仏舎利とともに派遣された僧や技術者らが参加しての造営でした。
 池田 当時の最高の技術、最高の人材を投資して行なわれた、「一大国家行事」であったことがうかがえます。
  飛鳥寺の発掘は、一九五六年から、奈良文化財研究所によって行なわれていますね。
 飛鳥寺は、礎石の上に丹青の漆を塗った柱を立て、木材を渡してはめ込み合わせ、白い壁と瓦屋根をもった豪華壮麗を誇る建築物であり、これが日本初の本格的な木造建築となりました。
 塔を中心として東・西・北の三方に金堂を配し、中門から発する回廊がこれらを囲む、特徴ある伽藍配置でした。
 これは日本には類例がない配置であり、高句麗の清岩里廃寺チョンアムニベサ(現・平壌ピョンヤン市)と酷似していることが分かりました。
 また、金堂の建築も日本には見当たらず、百済の定林寺チョンニムサ(現・扶余ブヨ郡)に類例が見られることが分かったのです。
 池田 日本初の仏教建設に、そのような社大な交流史があったのですね。
 ところで、飛鳥寺の発掘に携わった奈良文化財研究所が、興味深い発表を行なっています。現存する世界最古の木造建築である法隆寺五重塔の「心柱」の円盤標本を、木材年輪の精密な測定による「年輪年代法」で測定したところ、伐採された年が「五九四年」であることが分かったのです。
 五重塔の完成は、平城京遷都の頃である「七一一年」とされてきましたから、これでは伐採から完成まで、百年以上の年代差が生じてしまいます。
 それで、新たな「謎」として、議論の的になっているのです。
  五九四年といえば、飛鳥寺の塔が建て始められた直後になりますね。
 あるいは、飛鳥寺と法隆寺は、当初、兄弟として建立される予定だったのでしょうか。古代へのロマンがあふれでいます。
 「年輪年代法」は、科学の進歩が歴史の解明に役立った好例ですね。
 いずれにしても、飛鳥寺の例でも分かるとおり、六世紀からの日本の新しい文化発展の基底には、韓半島からの精神文化、および物質文化の伝来があることは、数々の出土品が物語っています。
 池田 七世紀、韓半島を統一した新羅と日本の間にも、仏教の思想を根底に、絶え間ない往来が続きました。
 七世紀後半から九世紀にかけてのおよそ百四十年間に、日本から新羅へは三十一回、新羅へは三十一回、新羅から日本へは四十五回も、使者が行き来したという記録があるほどです。
 交通が発達していない当時のことですから、この往来の頻度は相当なものだと思います。
 「正倉院とシルクロード」の話を持ち出すまでもなく、「飛鳥文化」に統く奈良時代の「天平文化」も、貴国が”礎”を築いてくださった。
 さらには十世紀初頭に、新羅も唐も滅亡して王朝が変わっていくなか、日本は平安京中心に「平安文化」を築くことができました。
 「文化」です。「文化の力」です。
 日蓮大聖人は「大乗仏教の精髄である法華経は、船にたとえるならば、大いなる珍宝を積み、百人、千人もの人びとを乗せて、高麗へ渡りゆく大船のごとくである」(御書1218ページ、趣意)とも説かれています。
 「最高の法」の譬喩として、「韓半島への大船」を挙げていることに、私は、深い意味を感じるのです。
  宝を積んだ、「韓半島への大船」ですか。
 鎌倉時代といえば、これまでも触れてきましたが、蒙古襲来によって韓半島の高麗は壊滅的な状況に追い込まれ、日本でも社会不安が増大していたことでしょう。
 そのさなかに、どこまでも民衆に希望を送り続けていたのが、日蓮大聖人だったのですね。
 韓日両国の友好も、そうした「大きな心」の連帯によって、花開いていくのかもしれません。
8  友好の心で「人間性」を回復
 池田 そのとおりです。仏教の伝来という歴史の大きな側面に焦点を当てて話し合いましたが、日本が受けた恩恵は、計り知れなかったのです。
 私は、『聖教新聞』の連載随想(二〇〇二年五月二十五日付「人生は素晴らしい」)に、こう記しました。
 「今、真の『韓日友好の花』を育てるためには、どうしても公正な歴史認識が不可欠なのである。
 過去の権力者が日本人の体内に植えつけた「隣邦の民族への偏見』という毒草を、徹底的に駆除し、根絶しなければならない。そうしなければ、日本人の人間性の回復はできないだろう。
 韓日友好は、だれのためでもない。第一に、日本人自身の魂の浄化のためなのである」ーー。
 特に、在日韓国・朝鮮人の方々への「差別」を温存したまま、「共生」を主張することは”暴力”にも等しいと私は思います。
 ましてや、大恩ある貴国の方々です。その方々との友好を、日本人はもっと真剣に、考えなければいけない。「無関心」は、悪です。
 「韓国と日本を知れば知るほど、歴史認識の溝など、埋まるはずがないと思う」との意見をもつ識者がいることも、私は知っています。
 その識者なりに得た「実感」まで、否定するつもりはありません。
 しかし、だからといって、私どものこの歩み、この対話を、止めるわけにはいきません。韓日友好への希望を、捨てるわけにはいきません。
 未来の友好のために、私は今、日本人に巣くう「根源の闇」を、「友情の光」で照らしたいのです。
  ありがとうございます。
 韓国人もまた同じです。「反日」を繰り返すだけでは、成長はありません。ワールドカップの共同開催を通じて培った信頼関係を、後退させてはいけません。
 「対話」は、わが国の人々にも、等しく必要なのです。
 「等身大」の韓国人と日本人が、両国のいたるところで屈託なく「文化論議」の花を咲かせる風景を、つくり上げなければなりません。

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