Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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6 道家、墨家、雑家の自然観
「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)
前後
1
老子、荘子の説
季
ここまで儒家についてふれましたが、前に述べたように「天人合一」は儒家に限りません。
広い意味で「天人合一」を見てみると、それは人と大自然の関係と理解することができます。その意味では、儒家以外の道家、墨家そして雑家なども、類する思想をもっています。
池田
中国思想のなかでは、道家がとくに「自然を尊ぶ」ことを強調していますね。
季
たとえば、老子は「人は地にのっとり、地は天にのっとり、天は道にのっとっている。道は自然、ありのままを
則
のり
とするのだ」(阿部吉雄・山本敏夫『老子』、前掲『新訳漢文体系』7所収)と言っています。
池田
老子は、宇宙の法則を「道」として表現しました。結局、人間は「道」にあたる「自然」の正しさにのっとるべきであるという意味ですね。
現在、生態学が、大自然の連関のリズムを解明するにいたっております。
この大自然のリズムを破壊してしまえば、人間自身が滅びてしまうという厳粛な事実への注視です。
蒋
池田先生のお話から、中国の「物極必反」(物事が極まれば必ず逆の方向へ転化するとの意)という成語が頭に浮かびました。
西洋文明の自然征服のやり方が、全世界で無制限に続き、極端なところまで向かって行ってしまったならば、大自然を征服した人間は、逆に大自然から征服されてしまうでしょう。
季
『荘子』斉物論には、「悠久な天地はわれわれと並び生きているし、もろもろの物はわれわれと一つになっている」(市川安司・遠藤哲夫『荘子』上、同前、所収)と。
道家における「天人合一」の主張は、儒家よりもよほど明確であるとさえ言えるほどです。
池田
荘子は、悠久なる大宇宙、大自然の中に大いなる律動、調和を見いだしていました。それゆえに、人間が「自然」に順応して生きる道を示したのですね。
2
墨子の矛盾、呂不韋の主張
季
他方、墨子の天命鬼神に対する見方には矛盾があります。
一方で「非命」「尚力」を強調して人の富貴貧賤、栄辱は「力」にあり命」にあらずとしますが、もう一方で彼は、「天志」「明鬼」を尊重します。彼の言う「天」とは意志があり、賞罰を行う人格神のようです。
「兼愛」「非攻」「尚賢」「尚同」などの彼の政治思想には、同様の表記がありますまた、
呂不韋
りょふい
は『呂氏春秋』応同で次のように述べています。
「成ること
斉
ひと
しく類が同じであれば、皆合うのである。故に
堯
ぎょう
は善を行って衆善が至るのであり、
桀
けつ
は非を行って衆非が来るのである。商(股)の戒めに云う『天の災害を降し、祥を布くのは、並びによるところがあるのである』」と。
また「山雲は草むらのごとく、水雲は魚鱗のごとく、早雲は飛火のごとく、雨雲は水波のごとく、皆その生ずるところに類して以て人に示さないことはないのである」(『呂氏春秋選注』王范之注釈、中華書局)とも言います。
ここからわかるように、呂不韋は自然が人と相応するものであると主張しています。
ここまで述べてきたように、中国古代の「天人合一」思想は、紹介すると多岐にわたり、中国古代において、いかに普遍的であったかがわかると思います。
池田
中国思想にも、「天人相関」を否定した荀子や王充のような例外はあります。
しかし、中国思想の二大潮流として対極に置かれる儒家と道家を比べてみても、儒家の最高規範である「天」と、道家の最高規範である「道」の間には、その自然観において、本質的な違いは見受けられないと思います。
そのことは、季先生の説明でよくわかります。
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