Nichiren・Ikeda
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人生無常の相を描く
「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)
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1 根本 逆に、表現は多彩でも、骨組みが貧弱だと、虚弱な肥満児になる。(笑い)
池田 思想と表現の関係は、いわば相即的なものです。たとえば、無常という観念がある。『源氏物語』の主題は、人生無常の相を描いたものだ、とも言える
たしかに、第二部の「御法」「幻」の巻あたりになると、さしもの栄華を極めた光源氏の世界も、一転して凋落と落莫の感が深い。
「物思ふと過ぐる月日も知らぬまに年もわが世も今日や尽きぬる」(大系17)という「幻」巻末の光源氏の歌にいたって、読者は、茫々たる人生の無常を実感せざるをえない。
しかし、そのまえに作者は、光源氏の生涯の伴侶であった紫上の死と、それにつづく一年間の主人公の孤愁を、四季の循環にあわせて綿密に書いている
さらに考えてみれば、第一部の光源氏の青春絵巻と栄華物語という前提があって、はじめて第二部の「無常」の主題が、重く、深い実感として響いてくるのではないでしょうか。
根本 『源氏物語』の主題は「時間」であるとも言われていますが。
池田 それは「無常」の現代的表現とみたい。つまり「無常」というのは、あらゆる生命の変化相をリアルな眼でとらえたものです。だが、無常の根底には、常なるものがある。流れ行き、移ろう時間も、よく見れば瞬間瞬間の生命の燃焼にほかならない。そこには、たしかなる実体がある。
現象の無常の奥に、その常住の実体を究竟していこうとするときに生まれるのが、「あはれ」の感情だと考えたいのです。
根本 すると、本来はかならずしも、ただ直線的に諦観、諦念と結びつくものでもない……。
池田 そう思います。
しかし実際に、王朝文学に見られる無常観には、かなり美的な意識で受けとめられている要素が強い。無常の思想が、様式化され、装飾化されているといった面がある。いわば、貴族趣味的な無常思想です。
根本 当時は、仏教そのものも、貴族仏教、山岳仏教で、生活の煩雑さや辛労から逃避していく傾向をもっていた。
池田 そうですね。そこにも無常観が一方的に、はかなさ、諦めの意識につながっていく、一つの契機があったと言っていいでしょう。
仏教で説く諦念というのは、本当は、たんなる逃避や遁世ではない。現象を無常と観ずるところから生まれる、強い、たくましい生き方をも意味しているのですが、ややもすると静的、観照的にのみ理解されがちなようです。