Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第5章 勇気と友情を育む  

「21世紀への母と子を語る」(池田大作全集第62巻)

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7  一人の人間に光をあて、一人を大切に
 池田 よく、頑張ったね。
 介護は、介護したほうが境涯を高め、広げることができるのです。一方で、個人や家庭で手に余る介護は、社会全体で支えていくという方向も必要でしょう。
 ともあれ、いっしょになって、悩みをかかえる。いっしょになって、喜びを分かち合う――学会の温かな同志の世界では、悲しみは軽くなり、喜びは何倍にも大きくふくらんでいくのです。
 かつて、対談したキルギスの文豪アイトマートフ氏は、創価学会のことを「現代のユートピア(理想郷)」と評してくれました。
 また、「苦悩の充満した現実を背景として、学会のような理想的な団体が出現したのは、にわかに信じがたいことです」「創価学会は人類の希望です」とまで言っておられた。
 学会を離れたら、どれほどむなしく、淋しいことか。“孤独地獄”のような、喜びのない、わびしい人生となってしまう。
 どうして、学会は発展したのか。
 それは、どこまでも民衆に尽くしてきたからです。徹底して、一人の人間に光をあて、一人を大切にしてきたからです。
 橋口 私は、池田先生が、隅々にまで、「一人を大切にする心」を通わせてくださっているから、これほど学会は温かいのだと思います。
 同じように、先生の創作童話や物語が、人々を感動させるのも、先生の真心が込められているからですね。
 先日、こんな話をうかがいました。
 学会員の方ではないのですが、ある家庭で、三歳になる女の子が幼稚園に行けなくなってしまったのです。“不登園”とでも言うのでしょうか、それまでは明るい子だったのに、表情も暗くなり、人をおどおどと見るようになってしまいました。
 そんな時、学会婦人部の友人が、その方に二巻のビデオを渡したそうです。先生の創作物語をもとにつくられた『青い海と少年』と『太平洋にかける虹』です。
 女の子は特に、『太平洋にかける虹』が気に入り、何度も見ていたそうです。この物語は、人間には「勇気の道」と「おく病の道」があり、「勇気の道」を歩むことの大切さを教えてくださっています。
 吹浦 私は、本で読ませていただきました。
 朝、起きること、学校に行くこと、勉強することなど、身近な一日の生活の中にも、「おく病の道」と「勇気の道」の分かれ道があると描かれていたことが印象に残っています。
 橋口 そのお母さんは、ある日、ビデオを見ていた女の子に、こんな小さな子に内容が分かるのかな、と思いながらも語りかけました。
 「けん太君(登場人物の名)は『勇気の道』を選んだんだね。みんな、いろいろなところで『勇気の道』を選ぶんだよ」と。
 「わたしも?」と聞く娘さんに、「そうだよ」と応えると、小さな小さな声で「幼稚園……」とつぶやくように言ったのです。
 そして数日後、自分から「幼稚園に行く」と言い出したのです。
 お母さんは、「こんなに小さいのに、ビデオの内容が分かるんだなあ」と、驚きもし、うれしくも思ったそうです。
 子どもながらに、自分の気持ちと戦ったのでしょう。朝、バスに乗る時は、泣きながら、「ビデオと同じだから」と女の子は繰り返します。“この子は「勇気の道」と言いたいんだな”と、お母さんも涙をこらえながら、「そうだね。そうだね」と送り出したそうです。その後も、元気に幼稚園に通われたようです。
 お母さんは、「幼稚園にもこのビデオを寄付したい。ほかのお子さんにも、娘のように何かにつまずいた時に、ぜひ見てもらいたい」とおっしゃっていました。
 池田 子ども向けの作品を書くというのは、大人に対する以上に心を引き締めていかねば書けません。「子どもだから」などと、甘く見ることは少しもできません。
 子どもは、驚くほど、豊かな感受性を持っている。大人が思っている以上に、子どもは多くのことを理解しているのです。
 だから私は、その子どもの心に、「勇気」と「正義」を育むために、直接、語りかける思いで、童話や物語を書いてきました。
8  名優チャップリンを支えた「母の愛」
 吹浦 わが家では、子どもが小さい時に、先生の書かれた童話『少年とさくら』を何度も何度も、読んで聞かせました。そして、戦争の愚かさを語り、平和の尊さを教えたものです。
 「戦争はいけないことだね。池田先生は、戦争をこの世からなくすために、毎日、戦っているんだよ。お母さんは、そのお手伝いをしてるのよ」と話すと、子どもながらに、深く心に刻んだようでした。
 また戦後の焼け野原に、たった一本残った桜が、春に満開の花を咲かせる様子をとおして、「人々に希望と勇気、安らぎを与えることの大切さを教えてくれているのよ」と、語りかけたものです。
 池田 戦争の悪と戦い、平和を訴えた作品といえば、喜劇王・チャップリンの『独裁者』があります。これは、第二次世界大戦が始まった一九三九年に制作された映画です。
 実は、今年(一九九九年)は、チャップリンの生誕百十周年に当たる。
 この映画の中で、チャップリンはヒトラーを風刺した、ヒンケルという独裁者と、ヒンケルと瓜二つのユダヤ人の二役を演じている。
 橋口 チャップリン扮する、ヒンケルと取りちがえられたユダヤ人が、独裁者を否定し、戦争反対の演説をするラスト・シーンは、大変、心に残っています。
 池田 当時、ヒトラーはまだ生きていた。この映画は、チャップリンにとって命懸けだったのです。
 その演説の最後にチャップリンは、「ハンナ、ぼくの声が聞こえるかい?」と呼びかけている。
 ハンナとは、映画に出てくる恋人の名だが、実は、チャップリンのお母さんの名前だったのです。
 「ハナ(ハンナ)、ぼくの声が聞こえるかい? いまどこにいようと、さあ、顔を上げて! 見上げてごらんよ、ハナ! 雲が切れるよ! 光が射してきたよ! やみが去って、僕たちの上にも光が輝くんだ! 欲望と憎しみと残忍さをなくした、よりよい世界がやってくるよ。見上げてごらん、ハナ!」(ラジ・サクラニー『チャップリン――ほほえみとひとつぶの涙を』上田まさ子訳、佑学社)
 画面は、雲の流れる空。チャップリンはきっと、天にいるお母さんに向かって呼びかけたのでしょう。
 波瀾万丈の人生を歩んだ、チャップリンを支えたのは「母の愛」でした。その「母の愛」が、人間性を踏みにじる「独裁者」との戦いへとチャップリンを駆り立てたのです。
 また、チャップリンは演説のなかで、こう言っている。
 「知識はわたしたちに冷ややかな目を与え、知恵はわたしたちを非情で冷酷にしました。考えるばかりで、思いやりがなくなってしまいました。わたしたちに必要なのは、機械ではなく、人間性です。頭のよさよりも、親切と思いやりが必要なのです」(同)
 「必要なのは人間性」「頭のよさよりも、親切と思いやり」――この心を育てることこそ、お母さんの役目であると私は言いたい。
9  子どもは変わる、長い目で見守る
 吹浦 特に今は、その重要性が大きくなっていますね。「心の豊かさ」を育む家庭教育の大切さを感じます。
 「心の豊かさ」という問題に関連するかもしれませんが、最近、「子どもになかなか友だちができない」と相談を受けることもあるのですが……。
 池田 子どもは一人ひとり、みんな性格が違う。おとなしい子もいれば、きかん坊もいる。一人遊びが好きな子がいれば、いつもおどけて周囲を笑わせるのが好きな子もいる。
 しかし、子どもは変わるものです。小さいうちは、人前でしゃべれないくらい照れ屋だったのに、大きくなると、みんなをまとめていく存在になるような子も少なくない。
 あまり神経質にならず、長い目で見守ってあげるのがよいと思うが、どうだろうか。
 その上で大切なのは、子どもに「相手の立場に立って考える習慣」を身につけさせることだと思う。
 「やさしい心」があれば、必ずよい友人に恵まれていく。
 吹浦 わが家でも、子どもたちに、「『自分がそうされたら、どう思うか』『何をしてあげたら、友だちはうれしいか』を、いつも考えなさい」と言ってきました。
 たとえば以前、クラスにカゼで休んだ友だちがいた時に、娘が心配して「電話してあげたほうがいいかな?」と聞いてきました。
 私は聞きました。「あなたがカゼで休んだとしたら、どう?」。
 娘は考えて、「うーん、電話に出るのは大変だと思うから、じゃあ、ファックスにしようかな」。
 橋口 一つひとつ、自分で考えさせるようにしたんですね。
 吹浦 そうなのです。
 また、友だちだけではなく、家にかかってきた電話にも、家族として、一生懸命に対応してもらいました。
 家には、学会の同志からかかってくることがとても多かったので、「なかには、悩み事があったり、相談事があって、かけてくる人もいるのよ。自分が困っていて助けてほしい時に、電話に出た人がぶっきらぼうだったら、いやな思いをするかもしれないでしょう?」と。
10  よき友人は人生のこのうえない宝
 橋口 とても大切なことですね。
 私は、関西創価高校で、たくさんの友情の絆をつくることができました。私の学園生活は、入学式に池田先生が贈ってくださったメッセージから始まりました。
 先生は中国の名言を引いて、教えてくださいました。
 「桃李言ず、下自ら蹊を成す」
 ――桃やスモモは、自分からものを言うわけではないが、美しい花や実があるから、自然と人が集まり、その下に小道ができる。同じように、福徳ある人には、自然に人が慕ってくる――
 「私は、皆さん方がふくよかな、だれからも慕われる心温かい人に育ってほしいと思います。よき先生、よき友人をもつことは、人生にこの上ない宝です」と。
 岡山から大阪へ、家族のもとを離れ、寮生活を始めるのは、心細さがありました。でも、この先生の言葉に励まされました。
 「自分を磨いていけば、友だちは、いくらでもできる。決して淋しいことはないんだ。これから、どんな出会いが待っているだろう」と、気持ちがふっと軽くなりました。
 寮では、ホームシックにかかる子もいましたが、みんなで励まし合って生活しました。次第に、本当の家族、姉妹のようになっていきました。今も皆、かけがえのない友人です。
 池田 青春時代に寮でともに寝起きし、いっしょに生活するというのは、不思議な縁です。寮で育んだ友情は、社会に出ても、どこに行っても決して忘れられないものだね。
 親に甘えることもできないし、多くの苦労がある。しかし、そこにこそ人間の鍛えはあるし、深い友情も結ばれていくものです。
 吹浦 私は、学会に「高等部」が結成された時に高校二年生で、「高等部一期生」でした。
 小説『新・人間革命』の「鳳雛」の章で、先生が当時の模様を綴ってくださったのを読み、こんなにも深いご慈愛で祈られ、見守っていただいていたんだと、改めて感謝の思いでいっぱいになりました。
 何といっても忘れられないのは、「高等部の年」と銘打たれた一九六六年(昭和四十一年)の一月三日、全国の代表が集まって、池田先生といっしょに記念撮影をしていただいた時のことです。
 晴れ渡った真っ青な空に、富士山が堂々とそびえ立っていました。王者のような、本当に美しい姿でした。
 先生は、その富士山を指さしながら言われました。
 「富士山は、こうして下から見ると、静かにそびえているようでも、その頂上は、いつも激しい風雪にさらされているのです。
 指導者も同じです。いろんな嵐にあいながら、みんなを守っているんだよ」と。
 そして「五年後の今日、ここに集った皆と再び、会おう!」との先生の言葉に、「よし、絶対に成長した姿で先生にお会いしよう」と誓いました。
 後に先生は、約束どおり再会してくださり、私たちに「五年会」という名を贈ってくださいました。
 「五年会」の皆とは、それからも常に励まし合ってきました。先生のおかげで、固い「友情」を結ぶことができました。
11  「人間を育てる」ことこそ最高に尊い
 池田 うれしいことです。
 高校生の年代というのは、人生のなかでも大事な時期です。
 私は、一人残らず、幸福な人生の軌道を歩んでほしかった。そのためにも、崩れない金の思い出をつくってあげたかったのです。
 以来、今まで皆の成長を、じっと見守ってきました。
 それと子どもたちには、常に身近な、達成可能な目標を示してあげることが大事です。家庭においても、そうです。
 橋口 私は二十代の時に、女子高等部長を務めさせていただきました。就任まもない頃、高等部員が、突然、私を訪ねてきて、「今度、地域で高等部の総会を開きます。この招待状を、ぜひ池田先生にお届けください」と、手作りの招待状を持ってきたのです。
 たまたまその時、先生が学会本部の食堂におられると聞いたので、どうしようかな、と少し迷ったのですが、勇気を出して、職員と食事をしながら懇談・指導をされる先生に直接お渡ししました。
 先生は、「ありがたいね。真心がうれしいね」と言われ、手作りの、ささやかな招待状を、いとおしむように手でさすられました。そして、「スケジュールがいっぱいで、あいにく出席はできませんが」と、ただちにその高校生への励ましの伝言と激励を託してくださったのです。
 世界各国の指導者と対話を展開される、激務の先生が、一人の高校生にも誠心誠意、応えられる姿に、胸が熱くなりました。
 池田 人を育てるのは、楽なことではありません。ともすれば、大変な疲労をともなうこともある。
 しかし、命を削るような労苦なくして、本当に人を育てることなど、できません。日蓮大聖人は「命限り有り惜む可からず」と仰せです。
 命には限りがある。惜しんではならない。だからこそ、何に命を使うかが重要なのです。
 「人間を育てる」ことこそ、最高に尊いことではないだろうか。
 吹浦 私は大学を卒業してから、長年の夢であった、小学校の教師になりましたが、本当にやりがいのある、すばらしい仕事でした。
 四年間、同じクラスを担当したのですが、その時の経験は、自分の人生にとって、とても大きい財産になっています。
 教え子たちとは、二〇〇一年五月五日に、再会することを約束しているのです。
 池田 すばらしいことだね。
 橋口さんのご主人も、創価小学校の先生でしたね。
 橋口 はい。そうです。使命に燃えて働かせていただいています。
 池田 私は今、「命を惜しまず」教育に情熱を注いでいこうと思っています。人生最終の事業を「教育」と決めているからです。
 私は、晩年の戸田先生の命をかけた闘争を思い出します。
 あれは逝去の前年、先生はすでに、立ち上がれないほど衰弱しておられた。
 それでも先生は、同志の待つ広島へ何としても行こうとされていた。先生の命を危ぶみ、必死にお止めする私を、先生は叱咤された。
 「行く、行かなければならんのだ!」
 「同志が待っている。……死んでも俺を行かせてくれ。死んだら、あとはみんなで仲よくやってゆけ。死なずに帰ったなら、新たな決意で新たな組織を創ろう……」
 最後の最後まで、命をふりしぼって同志に尽くそうとした恩師の姿を、私は忘れることはできません。
 人生は、限りある時間との戦いです。今の私は、時間と戦いながら、人材育成に命を注いでいるのです。

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