Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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第7章 苦労は必ず喜びに
「21世紀への母と子を語る」(池田大作全集第62巻)
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お母さんの知恵には大学者もおよばない
大塚
今、こうして語ると、とても悲惨に聞こえるかもしれませんが、家はいつも明るかったですね。母のおかげだと思います。
母の口から「つらい」とか「苦しい」とか、愚痴めいた言葉を聞いたことは一度もありませんでした。苦しい生活の中でも、収入があると必ず、その時だけ寿司を一折ずつ食べさせてくれました。あとは、爪に火を灯すような生活でしたが。
高校の同級生や先輩などが遊びに来ることもあり、私たち家族が明るく生き抜く姿に触れて、三人が入会しました。
その一人が、今の私の夫です。(笑い)
池田
お母さんには感謝しなければいけないね。(笑い)
厳しい家計をやりくりして、子どもたちのために、たまにであっても、お寿司を買ってこられたことなど、お母さんの慈愛に満ちた「知恵」が光っている。
ちょっとしたことだけれども、そうした気遣いが、いつまでも子どもの心に、ぬくもりのある思い出として残っていくものです。
お母さんというのは、時に、大学者も及ばないほどの知恵と賢さを発揮する。それは、すべて家族への愛情から生まれるのです。
どうか皆さんも、「幸福の博士」「生活の賢者」として、価値的に、心に余裕をもって、日々の生活を勝ちとっていってほしい。
7
未来に羽ばたく使命の自覚を
池田
大塚さんのお母さんは、今もお元気ですか。
大塚
はい。元気です。弟の家族といっしょに暮らしており、今年の二月十一日、七十歳になりました。戸田先生と同じ誕生日です。
私たちが、「朗らかさ」を失わないでこられたのは、池田先生が「勇気」と「希望」を送ってくださったからです。
高校時代、私にとっての「希望の光」は、池田先生が高等部員に与えられた「鳳雛よ未来に羽ばたけ」との一文でした。
それは、こう始まっていました。
「未来を目指し、未来に生きる、若き高等部諸君よ。
諸君こそ、広布達成の鳳雛である。すなわち、諸君の成長こそ、学会の希望であり、日本の、そして世界の黎明を告げる暁鐘である」
――冒頭から、先生の呼びかけが、ストレートに響いてきました。
「私でも、『学会の希望』『世界の黎明を告げる暁鐘』になれるんだ!」
私の“勉強部屋”である狭い押し入れの中でしたが、目の前に、大きな大きな未来が広がっていくような気がしました。
それを励みに、勉強に取り組み、クラスでトップの成績をとることができました。
ただ、もう一人、高等部員がいたので、二番になったこともあります。(笑い)
池田
青春の日の努力ほど、尊いものはありません。
私はかつて、高等部の友に「未来に羽ばたく使命を自覚するとき、才能の芽は、急速に伸びることができる」との言葉を贈ったことがあります。
どんな子であれ、その人にしか果たせない「使命」がある。だれしも、何かの「才能の芽」を持っている。
その「芽」を伸ばすための最高の養分は、「信じてあげること」ではないでしょうか。
人によって、早く芽吹く人もいれば、時間がたってから、急に伸び出す人もいる。
しかし、いつかは必ず「才能の芽」が伸びることを信じて、温かく見守り、根気強く励ましを重ねていくことです。
どこまで子どもを信じてあげられるか――周りの「信じる力」が問われるともいえます。
小野
池田先生の励ましを受けた未来っ子たちが、ぐんぐん成長するのは、先生がお寄せくださる「信頼」が、とても深いからだと思います。
昭和四十四年(一九六九年)十月、先生をお迎えして、高松市で四国幹部会を開催した時、私は四国少女部長でした。
その会合で、三一人の少年少女合唱団が「チキチキバンバン」を歌ったのですが、その後で先生は、合唱団メンバーと記念撮影してくださったのです。
撮影の場所は、新装まもない四国文化会館でした。記念撮影の際、先生は一人ひとりを慈愛の眼差しで見つめられ、語りかけられました。
「牧口先生と戸田先生は、二十八歳の開きがあった。戸田先生と私も、二十八歳の開きです。私と諸君たちとは、ちょうどそれくらいの違いにあたります。みんなのなかから、次の学会のリーダーが出るんだよ」
「まっすぐ、大樹に育ちなさい」と。
まだまだ幼い子どもたちに、先生は真剣に語りかけてくださいました。子どもたちも一生懸命、「ハイ!」と返事します。
そばで見ていた私は、感動で涙があふれて仕方ありませんでした。お会いする前に、子どもたちに「泣かないで、笑顔でね」と、あれだけ言い聞かせていたのに、真っ先に私が泣いてしまって。(笑い)
先生はその場で「一〇年後に、また会おう」と言われました。それから一〇年目、香川に来られた先生のもとに、全国に散らばっていたメンバーが集い、再び記念撮影していただきました。
昨年(一九九九年)は、最初の記念撮影から、ちょうど三〇周年。みんな、それぞれの分野で活躍しています。
四国男子部の書記長や、医師になって県のドクター部長をしている人もいます。四国婦人部のリーダーもたくさんいます。
この間、メンバーの一人に電話した時も、「あの日の先生の言葉を励みにしながら頑張ってきました」と語っていました。
池田
うれしいことです。
私は今も、皆の成長を見守っています。人を育てるのは、長い目で見ていくことが大事です。
皆さんが一人残らず、ますます力を発揮して、見事な勝利の人生を飾りゆくことを信じ、祈っています。
8
“100円のブラウス”は今も母の“宝”
大塚
私も、高等部の時、池田先生と記念撮影していただきました。
昭和四十二年(一九六七年)八月十四日、富山県高岡市の市民体育館でした。
とても暑い日でしたが、流れる汗をぬぐおうともせず、集った人びとを励ましておられた先生の姿が忘れられません。
この日を目指して、学校での勉強にも一生懸命、取り組んできました。先生に成績を報告すると、「よく頑張ったね」と握手してくださいました。
あの頃は、自分の人生の中でも一番、厳しい時だっただけに、心に鮮やかに残っています。
池田
高岡での記念撮影は、私もよく覚えています。本当に暑い日だったね。(笑い)
大塚
申し訳ありませんでした。(笑い)
記念撮影会には母も参加できることになっていたのですが、着ていく服がないので困ってしまいました。かといって、新しく服を買うようなお金の余裕もなかったのです。でも、弟が小遣いを貯めたお金で、特売で見つけた100円のブラウスを母にプレゼントしたのです。
母は喜んで、そのブラウスを着て、晴れ晴れと記念撮影に臨みました。
“100円のブラウス”は、今も「家宝」として、大切にとってあるようです。
母は、何かあるたびに、そのブラウスを取り出しては、当時を思い起こし頑張ってきたと言っています。
池田
100円のブラウスは、お母さんにとって、どんなに高価な着物や宝石よりも貴重な宝物になったのだろうね。
「苦労も悩みもない」ことが「幸福」であると考えている人が多いが、それは間違いです。人生を長い目で見れば、本当は「苦労」こそ「宝」なのです。
苦労や悩みがあることは「マイナス」ではない。恥でもない、苦労があるからこそ、自分が磨かれ、鍛えられ、人間として成長できる。
子育てにも、苦労は多いことでしょう。
今、子育てで悩んでいる人は、実は、すばらしい「黄金の時」を生きていることを知ってほしい。
たとえ今が「真っ暗の時」にしか思えないとしても、いつまでも続くわけではない。負けずに「前へ」「前へ」と進んでいけば、必ず夜明けはやってくる。「あの苦闘があったからこそ、今の幸福がある」と、懐かしく振り返る日が、必ず来ます。
「喜びとはなんであるかを知る者は、元来、多くの苦しみを耐え忍んできた人々のみにかぎられます」――これは、スイスの哲学者ヒルティの言葉です(『ヒルティ著作集』第七巻、岸田晩節訳、白水社)。
春の喜びを本当に味わうことができるのは、冬のつらさを知った人なのです。
大塚
私は、そのことを母から学びました。
学会の同志を家族以上に大事にする母でした。当時は、わが家だけでなく、貧しい家庭が多い時代でしたから、たまに家に何か珍しいものがあれば、家族より先に同志の皆さんに分けていました。
母の振る舞いを見て、“創価学会は、こういうふうに「一人の人」を大切にする世界なんだな”と学びました。
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親や教師の人格が伝わる
小野
私も、両親が喜々として人々のために活動する姿を見るのが、子ども心にうれしく、誇りでもありました。
先日、小学二年生の娘さんがいる婦人部の方から、こういう話を聞きました。
ある時、不登校だったクラスの友だちが久しぶりに登校してきて、階段を上がっていく姿を、その方の娘さんが見つけました。
娘さんは、その子のそばに駆け寄り、「よう来たね。はよう上がんさい。元気だった?」と声をかけ、手をつないで教室に入っていったそうです。
そのことを、担任の先生から聞かされ、「どうして、お宅のお子さんは、あんなに優しく声かけができるのですか」と尋ねられたというのです。
お母さんは言いました。
「わが家は学会の拠点で、お年寄りの方や、会員の方が来るたびに、『寒かったでしょう。早く上がってください』『よく来られましたね。お元気でしたか』と声をかけています。その姿を、いつも見ていたから、自然にそうしたのだと思います」と。
池田
日頃の親の振る舞いこそ、何よりの教育だね。口先や理屈では、いろいろ言えるけれど、子どもに一番、伝わるのは、親の生き方であり、人格です。
学校教育にあっても、教師の「人格」こそが、子どもに最も影響を与える教育環境と言えます。
先日(一九九九年十一月)お会いした、モスクワ大学のサドーヴニチィ総長が「本当によい人材は、大教室からは育ちません。一対一で、教授のそばに置いて育成しなければなりません」と語っておられた。
本当の学校というのは「建物」にあるのではなく、「教える人の人格の周り」にできるものだと。
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「恩返し」の心で人材育成を
大塚
私自身、忘れられない学校の先生がいます。高校時代の担任の先生です。
生活が苦しくなって、もうこれ以上、母に負担をかけることはできないと思い、その先生に「学校をやめて働きに出たい」と相談したことがありました。
職員室で、じっと私の話に耳を傾けてくださった先生は、こう言われました。
「俺の小遣いは、月に三〇〇〇円だ。それをみんな、お前にやるから、なんとか高校を続けられないか」――。
その先生は美術を教えていて、ふだんは物静かな方でしたが、この時は、熱心に、力を込めて語ってくださったのです。本気になって心配してくださる心が、ひしひしと伝わってきて、胸が熱くなりました。
家に帰って、なんとか学校を卒業したいと、あらためて強く祈りました。母も、できるだけの応援をするから、頑張りなさいと言ってくれました。
その後も先生が奔走してくださり、二つの奨学金をもらえるようになって、無事に卒業することができたのです。
小野
すばらしい先生ですね。
今は、そういう先生が少なくなったような気がします。
大塚
先生の真心に応えたいと、それからはいっそう勉強にも頑張りました。
その後、先生は若くして亡くなりました。葬儀には、大勢の教え子が集まり、男性も、女性も、みんな泣いていました。どれほど生徒たちから慕われていたかが一目で分かる光景でした。
その先生のことを思うと、今も感謝の心でいっぱいになり、涙があふれてきます。
池田
そういう、教育者に出会えたこと自体、最高の幸福だね。
今、大塚さんが、学会の婦人部の中で、人びとのために尽くし、未来の人材を育成している姿を、きっと喜んで見守っておられると思います。
自分を育ててくれた人への恩を忘れず、こんどは自分が、わが子や後の世代のために行動していく。それが何よりの「恩返し」なのです。
恩を忘れない人は、美しい。恩を知り、恩に報いていくことこそ、「人間の道」であり、その人は豊かな人生を歩んでいける。反対に、恩を忘れるような人は、傲慢であり、最後はわびしい人生を送っていくことになる。
戸田先生の生誕一〇〇周年を迎えて、私の心は、いよいよ先生に対する感謝に満ちています。生涯をかけて、いな、永遠に戸田先生に、ご恩返ししていく決意です。
戸田先生は晩年、よく牧口先生をしのばれて、「先生がいないと寂しい。牧口先生のもとに帰りたい」と言われていた。
それを聞くたびに私は、師弟の姿の崇高さに、強く心を打たれました。
私は、戸田先生によって育てられました。今の私があるのは、すべて戸田先生のおかげです。いくら感謝してもしきれないほどの、ありがたい師匠でした。ですから私は、毎日、「戸田先生、きょうも私は戦います」と心で語りながら、走り続けています。
皆さまも「恩返し」の心で、子育てに、教育に、人材育成にと取り組んでいってほしい。今の自分に育つまでに、親をはじめ、たくさんの人から、どれほどの苦労、どれほどの励まし、どれほどの愛情が注がれたことか――その感謝を忘れてはいけません。こんどは自分が、その恩を、子どもたちや後の世代に返していく番です。
親から子へ、先輩から後輩へ、師から弟子へ――そうした、世代から世代への大きな流れの先に、二十一世紀の輝かしい未来が開けていくのです。
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