Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第6章 子どもを信じぬく心  

「21世紀への母と子を語る」(池田大作全集第62巻)

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6  愛情を何倍にもして一人一人にそそぐ
 森本 子どもがまだ小さいころ、主人とよく名古屋から東京まで、学会活動で出かけたことがありました。
 主人が「いい経験だから、子どもたちを一緒に連れていこう」と言うので、荷造りなど準備からすべて、子どもたちの手でさせるようにしたのです。
 何しろ、子ども四人を連れていくのですから、前日には家で予行演習もしました。(笑い)
 ”この駅で乗り換えるから””そこでは何分しかないからね”と、一つ一つ教え込んだうえで、私が子どもたちに号令をかけます。
 「じゃ、荷物持って」と言うと、子どもがサッとリュックを背負い(笑い)、「何番線から何番線だから、分かったね」「ここで走っていくんだよ」と、何度も練習したものです。(笑い)
 谷川 なんだか、練習だけでも、楽しそうですね。
 森本 ええ。それで当日が、またたいへんです。
 まだ子どもですから、電車に乗ると途中で寝てしまうんですね。
 それでも、「さあ、乗り換えだよ」と声をかけると、パッと目をさまし、サッとリュックを背負って立ち上がって……。(笑い)
 練習した効果があったようです。
 何回か、一緒に出かけているうちに、まだ赤ちゃんだったいちばん下の娘のおむつまで、娘たちは自分たちのリュックに分けて詰めるまでになりました。
 子どもが大きくなると、主人は、一人一人を自立させるために、旅行にしても、上の子なら上の子だけを連れて出かけるようにしていました。
 双子の娘や、末っ子にも同じように、父娘二人だけで旅行に出かけたのです。
 池田 父子二人の思い出というのは、子どもにとって格別のものがあるといいます。
 私も昔、山口の萩で、長男の博正と二人で過ごしたことがあった。
 長男が高校生だったころのことです。ふだん、時間がなかなかとれなかっただけに、その時、私はじっくりと語りあいました。そんな一対一で向きあって過ごした時のことを、長男は今でも忘れられないと言っています。
 兄弟が多ければ多いほど、親の接し方はむずかしくなるものですが、たとえば子どもが四人なら、愛情を四等分にするのではなく、四倍にして一人一人にそそいでいく──こう発想を変えていくことが大切です。
 私の母も、大勢の子どもをかかえながら、家事を切り盛りしていましたが、一人一人のことを本当に気づかつてくれていました。
 母を囲み、みんなでスイカを食べていた時のことです。
 自分の分を食べた一人が、「お母さんはスイカが嫌いでしょう。僕におくれよ」と、残ったスイカを食べようとしたことがあった。
 母はすかさず、「お母さん、スイカが好きになったんだよ」と言って、その場に居合わせなかった子どもの分を確保した……。
 今もって、その時の表情と声を覚えているのは、母の愛情の深さに幼いながらも感動したからだと思います。
 平凡でしたが、子どもの心をじつによく理解して、心を配ってくれる母でした。
7  テレビやゲームは年齢に応じて対応
 谷川 私も、こまやかな心づかいのできる母親になれるよう心がけていきたいと思います。
 前章の、「子どもに何を与えるか」というテーマのなかで、読書やしつけなどについて具体的なアドパイスをいただきましたが、これと並んで、多くのお母さん方を悩ませているものに、テレビやゲームの問題があります。
 森本 私も相談を受けることがあります。
 幼い子どもにとって、”テレビ漬け”の影響は深刻なようですね。
 先日、こんな話を聞きました。
 そのお母さんは、家で仕事をしているため、二歳のお子さんに、一日じゅう、ビデオをまるで母親代わりのように見せていたそうです。
 お子さんが静かに見ているので、安心してしまい、仕事に熱中するうち、いつしか子どもに声をかける回数が減っていった。
 お子さんが昼寝をしている時も、買い物など用事で出かける時も、つけたままにしていたので、目を覚ましたお子さんがまず顔を向けるのは、母親ではなく、ビデオの画面になってしまった、と。
 そんな日が続くなかで、お子さんが言葉を話さなくなってしまい、あわてたお母さんが思いあたり、反省して改めたところ、ようやく保育園に通うころに治ったというのです。
 池田 テレビの問題は、まず、子どもの年齢に応じて考えていく必要があるでしょう。
 今の話のように、自分の意志でテレビを見るまでにいたっていない幼い子どもには、親が細心の注意をはらってあげるべきです。
 静かにしていておとなしいからといって、それで、親子のかかわりあいをおろそかにしては何もなりません。
 幼い子にとって、もっとも心から安心できる音というのは、母親の声ではないだろうか。テレビやビデオを見せるにしても、そばにいてあげたり、こまめに話しかけてあげることが大切です。
 一方で、ある程度、子どもが大きい場合、親が無理やり抑えると逆効果になってしまうこともあります。
 もちろん、放任はいけませんが、頭ごなしに叱るだけでは、子どもの心に感情的なしこりが残ってしまうことがある。
 子どもというのは、だめだと言ったら、とことんやりたくなる場合だってある。
 逆に、好きなだけやったら、やがて満足して、次々と新しいものへ興味を移していくものなのです。
 ですから親は、子どもが大きく道をそれないように、時折、軌道修正してあげるぐらいの気持ちでいてあげればよいのです。
 谷川 テレビもそうですが、とくに男の子にとっては、テレビゲームなども同じような存在のようですね。
 小学生くらいだと、そうしたゲームで遊んだことがないと友だちと話題が合わなくなり、”仲間はずれ”にされてしまうことさえあるようです。
 「家に帰ると、ゲームをしてばかりいます。きりがないので注意するのですが、なかなか言うことを聞きません」という悩みも聞きます。
8  留守番の子の気持ちをくみとる
 池田 親御さんの気持ちも分かるが、あまり深刻に考える必要はないと思います。
 一生懸命、学会活動してきて、いざ家に帰ると、子どもはゲームに熱中している……。
 ついつい、声を荒げたくなる時もあるかもしれませんが(笑い)、怒ることよりも、まず「お留守番、ありがとう」「ご苦労さんだったね」と、お子さんに心をこめて声をかける。
 そして、「何か、変わったことはなかった」「さみしくなかった」と、留守番していたお子さんの気持ちをくみとってあげることが大切です。
 子どもだって、くたくたになって学校から帰ってきて、少しは自分の好きなことをしたいと思うのがふつうです。
 親がまったく注意しないというのもいけませんが、注意は一回でいい。
 いつもガミガミ言っていると、子どもは気が休まらなくなってしまう。
 子どものほうも時がくれば、「いつまでもゲームばかりやってられないな。ほかにやることは、たくさんある」と、ちゃんと気づく。ゲームに熱中しても、それはあくまで一過性のものでしょう。
 親のしっかりとした祈りと行動があれば、子どもはちゃんと育っていくものです。
 森本 ところで、テレビやゲームの内容が、子どもの精神面に与える影響や、長時間におよぶことでの健康面の影響を心配するお母さん方も多いようです。
 池田 内容もそうですが、テレビにしろ、ゲームにしろ、あまり長時間におよびそうな時は、あらかじめお子さんと終わる時間を決めておくか、「お茶でも入れるから、少し休憩したら」とか、工夫して声をかけてあげることは、大切なことだと思います。
 テレビも、いい面と悪い面がそれぞれある。テレピをきっかけに、親と子の対話を深めるというぐらいの余裕があっていい。
 小学生の時、難民の悲惨な状況を伝える番組を見て、「この人たちを救うには、医者になるしかない」と決意し、それから一生懸命に勉強して、現在は医学の道を歩み、活躍している人もいます。
 何も、テレビそのものが悪いわけではない。
 それをつくりあげる大人の側に、確かな倫理観、価値観が失われつつあります。
 子どもの未来を顧みず、犠牲にしてまでもうけようとする、社会の風潮が強まっていることこそが、問題なのです。
 今、日本はふたたび、”下り坂”を転げ落ちようとしています。
 日蓮大聖人も、こうした社会の乱れが、まちがいなく子どもたちの心を荒廃させてしまうことを、厳粛に教えられています。(御書1564㌻)
 私たち大人は、こうした風潮を許さず、徹し正していかねばなりません。
 池田 牧口先生は、こう叫ばれました。
 「善悪の識別の出来ないものに教育者の資格はない。その識別が出来て居ながら、其の実現力のないものは教育者の価値はない。教育者は飽まで善悪の判断者であり其の実行勇者でなければならぬ」(「教育改造論」、『創価教育学体系』第三巻所収)と。
 これは、教育者のあり方を示された指針ですが、子育てに、おいては親も、同じ覚倍と責任感で臨んでいくべきでしょう。
 何が善で、何が悪なのか──信念をもって教えていく使命と責任が、親にはあるのです。
 そして、牧口先生が強調されているように、みずからが「実行の勇者」となり、生き方そのものを教え導く必要があるのです。
 谷川 その意味では、どれだけ世間が悪くなっても、どんな環境が子どもを取り巻いたとしても、そうしたことに紛動されない「強さ」を、親自身が身をもって示していくことが大切なのですね。
9  子どもを信じぬけば最後には勝てる
 池田 そのとおりです。
 このことで思い出すのは、恩師戸田先生のご指導です。
 忘れもしない、昭和二十六年(一九五一年)五月三日──。苦闘の日々を突きぬけて、戸田先生が待望の第二代会長に就任された時のことです。
 最後に先生は学会歌の指揮に立たれたのですが、その時の勢いで、卓上の水差しとコップがふれて、どちらも壊れてしまった。
 先生はその時、当意即妙にこうおっしゃったのです。
 「水差しは”コップがふれたから割れた”と言い、コップは”水差しがぶつかったのだから割れたのだ”と言うかもしれない。
 しかし、両方に壊れる素質があったから、壊れたのです。
 これが、綿とガラスだったらどうだ? 決して壊れはしまい。信心も同じです。
 他人が悪いから不幸になったと思っているが、そうではない自分が綿になれば、決してだれからも壊されはしないだろう。
 他人ではない。自分の宿命を変えていく以外に道はないのだ」──と。
 目の前に起こった一つの出来事を生かして、仏法の深さ、人生の哲理を、分かりやすく自在に教えてくださったのです。
 子育ても同じです。環境ではない。
 同じ縁にふれでも、惑わされず、振りまわされない「強さ」を、まず親がもっていくことが根本です。”綿”になって、ふんわりと子どもをつつみこんであげるのです。それが、本当の「強さ」でしょう。
 一時期、子どもが揺れ動いたとしても心配ない。親が子をどこまでも信じぬき、その「強さ」を忍耐強く養ってあげれば、何があろうと最後には、勝てる。一緒に大きく人生を開いていけるのです。

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