Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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(三)  

小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)

前後
5  少年達は朝を待った。「ミダス王の園」の清麗な朝、逍遙がてらの聴講に時を移すことを、何よりの楽しみとしていたからである。アリストテレスは、主に倫理学の骨格を、やさしくかみくだいて彼らに語った。
 「幸福を求めない者は、ありえない。それは人間が求める究極のものといえるだろう。でも、幸福は望んでも、幸福を見定めることはむずかしい」
 右手に葡萄畑が一面に開けて、輝かしい朝の日を浴びている。
 「幸福は、見せかけの現象のみをもって測ることはできないものなのだ。人はある時は幸福そうに見え、ある時は不幸そうに見えることがある。人を取り巻く環境はさまざまであり、長い生涯のうちには、そういう浮き沈みはあるものだ。その浮き沈みは、幸運とか不運とかともいえる。その折々の運・不運のみに目を奪われて人を見てしまうと、その人はある時は幸福であり、ある時は不幸であるということになる。だが、それでは一人の人間の幸・不幸は、まるでカメレオンのように変幻してしまうことになるだろう。そうではなくて、幸福とは、そういう運・不運に煩わされない、もっと深いところにあるものなのだ。運・不運は、相対的なものだ。本当の幸福とは、絶対的なものでなくてはならない」
 平易さを心がけた語り口が、明らかに少年達を惹き付けていた。
 アリストテレスの講義は続いた。
 「ところで人間本来の在り方を究極的に実現しているものを徳と呼ぶ。それは、人間が最もよく人間らしくある特質や状態であるといってよい。この徳に則って心を働かせ、徳を目指して活動すること、徳に反しない在り方であること。そういう生き方なり努力を行うところに、幸福はあると考えられる」
 彼は草原の彼方をじっと見つめながら言葉を切った。そして生徒達の顔に目を移し言葉を続けた。
 「そのような努力が、ある一時だけ行われるようなものであっては、当然、その人は幸福であるとは言えない。短い日々だけの努力ではなくて、持続が大切なのだ。すなわち、徳に則った生活を、生涯にわたって続ける人、そこに自分の生を投ずることのできる人――そのような人を、幸福な人ということができるだろう」
 彼は静かに立ち上がると、再び透き通った声で生徒に語りかけた。
 「この持続性を実現するためには、人生に生起する運・不運に左右されることなく、歩むべき道をどこまでも歩み貫くことが必要になる。たとえ大きな不運があっても、大義や信念のために耐えしのび、生涯にわたって徳を追求しゆくところにこそ幸福はあるのだ」
 小川の草土手の方へと歩みを移しながら、彼は語をついだ。聴き耳をたてて行くと、自然に皆の歩調もそろっていた。
 「さて、『徳』というものはけっして生半可な努力や意志では達し得ないものである。自身との戦いなしには、徳もあり得ない。時には、苦痛さえ伴うだろう。それは、我々の精神がほしいままにあらしめておくことはもっともやさしく、これを抑制して理想的な状態にあらしめることの困難さがあるからだ」
 彼の言葉は静かな口調の中にも力強い響きがあった。生徒達の目は輝き、一語も聞きのがすまいとしている。
 「例えば『勇敢』という徳――。『勇敢』の両極には『臆病』と『無謀』がある。勇敢が不足しているのが臆病であり、勇敢の度が過ぎているのが無謀ということになる。人間の精神は、臆病や無謀にとかくとらわれ、陥りやすいものなのだ。弱い心の持ち主は、こうした傾向に容易に赴くだろう。この臆病と無謀の中間にあるのが、勇敢という徳なのだ。かくして、徳というのは多すぎも少なすぎもしない『中庸』に存している」
 かすかな水の音がする。近づくと、昨夜の雨で水はみなぎり、土手の草を噛んで流れていた。アリストテレスは川筋に目をやりながら、なお淡々と語った。
 「中庸すなわち『徳』を目指すことは容易ではない。良きことを成すには苦しみが伴う。悪しきことには快楽が伴うものだ。しかし、苦しみと楽しみとの本当の意味を取り違えてはならない。苦しみの中にこそ本当の楽しみがあることは多いのだ」
 時には、生徒が問いかけた。
 「先生、『徳』のうちでも最高最善のものは何でしょうか?」
 アリストテレスは、徳目のいくつかを挙げていった。『勇敢』、『節制』、『真実』、『親愛』、『寛容』、『正直』……。
 「しかし『正義』こそはあらゆる徳目のうちでも最も重要であろう。いわば『完全な徳』と言える。とりわけ『正義』とは、自分の行いにとどまるだけでなく、他人にこれを及ぼすことができるから、優れた徳なのだ。すなわち、共同体や同胞のために発揮すべきが正義である。だから、やがて指導者に育ちゆく君らにこそ大切な徳と言えるだろう」
 広い草原に道が開けて、彼方に学問所が見えるところで、彼らの聴講は終わるのであった。

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