Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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(一)
小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)
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だが、なぜ、この関門を、敵は当地の将軍に放棄させたのか。なぜ、こんなにも無傷で――。
それは、単に幸運とするには余りに幸運すぎる。むしろ、アジアの深部へアレクサンドロスを誘い込み、前後の平野を焼いて四万の大軍の飢えと疲れを増進させ、そのうえで一気に叩こうという策略ではあるまいか。現に、ここでも敵には焦土作戦の動きがたしかにあった――。
きっと何者かが、ペルシャと内通しているにちがいない。このことは、パルメニオンが繰り返し耳打ちしにきている。彼は、父と共に精鋭なマケドニア国民軍を仕立て上げた側近中の側近であり、大功労者である。この密書も、その彼が先着地から何事かをつかんでもたらした情報なのである。
しかし――フィリッポスは、自分の無二の友なのだ。幼い日の想い出も、将来の誓いも、分かちがたく一つであった互いに親しい友である。
我が友の言葉と、側近の功臣の諌言と、いずれを選ぶべきなのか。
信ずるべきか、否か――。
アレクサンドロスの心の中は、迷いと熱病の二つの突風が重なりあって激しく渦巻いていた。疑おうと思えば、あれもこれも疑わしい材料として彷彿としてくる。
その決定的なものが、今、フィリッポスが手にしている密書という一見動かしがたい証拠でもあった。
そして、フィリッポスを信じるためには――。
そのためには、文書という具象物を捨てて、もっとあいまいな、目に見えぬ抽象物――人間の心を信ずるしかなかった。フィリッポスの心、を。否、それ以上に、彼の心を信じようとする自分自身の心を。
(毒性の強い薬だと?……待て待て、彼が裏切るものかどうか、心を試すには、彼に薬の毒味をさせたらどうなのだ……いや、彼に毒味をさせるなど、そんなことをするくらいなら、いっそ口実を設けて服まなければいい……だが、どっちにしても、それで“友”というものは死ぬのだ。たとえ彼の身は生きていても――)
アレクサンドロスの心は濁流となってとめどもなく回転した。
(いやいや、結局、私は自分の命が惜しいのか。我が身の可愛さに、命欲しさに、自分の欲に浮かされて、真実を見分ける心が曇らされてはいまいか。どの道、死ぬかもしれないこの身なのに……。万が一、こっちが友を裏切ることになるのなら、それこそ死んでも償いきれない恥辱になるのだ)
自分が彼を裏切るか、彼が自分を裏切るか――。
そして、生か、死か――。
(私は、王なのだ。全ギリシャの覇者なのだ。かりに、杯を服まずして、事実は全くフィリッポスの誠心誠意から出た薬であることが分かったなら、自分の卑劣と臆病は、それこそ後世までの笑い草だ……だが、王なればこそ、どうあっても生きねばならぬ)
彼は濁流のような心の中に一筋の太陽の光を見いだそうと必死であった。
(いま目の前に置いてある薬が毒杯と知りながら服んで一命を落とすとは、間抜けな王と指弾されよう。それは犬死にと言われても致し方ない……だが、もし一つ誤れば、私は、友よりも、王の面子を愛することになるのだ。友の命を見限って。……否、断じてそんなことがあってはならぬ)
アレクサンドロスには、とどまることを知らぬ無限の苦悶と思えた。しかし、実際にはほんの数秒間の逡巡でしかなかったにちがいない。目くるめくさまざまな想念がこの一瞬間に凝縮されて、複雑な心の回路を、彼は刹那のうちに駆け巡ったのである。
部屋の片隅の壁が、明かり皿の炎を薄あかく映している。一瞬、館の四壁を叩くように一陣の強風が吹き荒ぶと、その火影は大きく揺らめいてフィリッポスの横顔を明るませた。
書面に見入る彼の目がきらりと光を帯びた。そして、今まさに、その目をアレクサンドロスの方へあげようとした。
その刹那――。
ふと彼は、一つの遠い声を聴いた。いや、聴いたように思った。
(友愛とは……)
それは、少年の頃、フィリッポスと共に聴いた恩師の声である。アレクサンドロスの胸の奥底にこびりついている師の声の記憶が、機に触れて呼び声となって耳に蘇ろうとしていたのである。
(友愛とは……)
彼は、その後に続く師の言葉を記憶からたぐりよせようと懸命に心を凝らした。
師の声の中にすべての回答があることを、彼は直覚していた。その言葉こそ自分の行く手を示す標であり、迷いの闇を払う灯にちがいないと、瞬時に悟っていた。
遠い微かな呼び声の断片は、二度、三度こだまのように繰り返されるごとに次第に大きく、力強くなっていくのである。
遂に、明瞭な師の言句が記憶に蘇って耳朶に響くと、彼は、はっと胸を突かれた。そして、目をあげて、もう一度フィリッポスの顔を凝視した――。
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