Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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第7章 わが子に「ありがとう!」
「21世紀への母と子を語る」(池田大作全集第62巻)
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世界の友を思いやる気持ちが平和の基盤
渡辺
ロシアといえば、七年前(一九九一年)の春、東京創価小学校に「モスクワ市第一二三四小中学校」の子どもたちが交流に来たことがありました。
その前年、池田先生が、ソ連国民教育委員会のヤゴジン議長との会談で提案してくださり、実現したのです。
言葉が通じなくても、子どもは、すぐ友だちになれるんですね。いっしょにけん玉をしたり、縄跳びをしたり、餅つきに挑戦したりと、本当に楽しそうでした。
ところが、モスクワの子どもたちが帰国してから、その年の夏、ソ連でゴルバチョフ大統領に対するクーデターが起きたのです。
子どもたちも、びっくりです。「ソ連が大変!」「モスクワのあの子たちは大丈夫かな」と電話で連絡を取り合ったそうです。
幸い、クーデターは失敗に終わりましたが、あの年頃の子どもたちが、世界の動きにこれほど敏感に反応するなんて、驚きました。
先生がつくってくださる、さまざまな機会をとおして、子どもたちは国際感覚を養い、世界の人々と友情を結んでいることにあらためて感動しました。
池田
遠い国の出来事でも、他人事とは思わない。それが「友情」の第一歩です。交流した友だちを思いやる気持ち――単純なようだが、そこから平和の基盤ができてくるのです。
私が世界の教育機関を訪れ、創価学園との交流を推進したり、海外からのお客様を学園にお招きするのも、そうした思いからなのです。
だからこそ、はるばるやってきた大切な子どもたちとも、できるだけ、直接、会うようにしてきました。「未来からの使者」「二十一世紀の指導者」に会うつもりで。
モスクワの小中学生は、私も聖教新聞社で歓迎しました。本当にかわいらしい、きれいな眼をした子どもたちでした。
舘
今回のロシア訪問で印象深かったのは、モスクワ近郊にある、子どもたちの「SOS村」を訪問した時のことです。私たちは、初めて来た日本人だったようです。
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子どもを幸せにすることで大人も幸せになる
渡辺
「SOS村」とは、何ですか。
舘
SOS村は、孤児やストリート・チルドレンと言われる子どもたちを、家庭的な温もりのなかで育てようと、オーストリアの慈善家が始めた運動です。
ロシアには今、約四〇〇万人のストリート・チルドレンがいると言われています。今回、訪問したのは、三年前(一九九五年)にロシアで初めて開設された「SOS村」です。
さまざまな理由で親と離ればなれになったり、帰る家もない子どもたちが、養母といっしょに“家族”をつくって生活しています。
私たちが行った時は、一〇家族六二人の子どもが暮らしていました。
“お母さん”は公募で選ばれます。面接試験や、心理テストもあり、本当に子どもたちを任せて大丈夫か、“お母さん”として十分やっていけるか、厳しく審査されるようです。
私がお会いした“お母さん”は、四十歳の方でした。結婚はしておらず、「残りの生涯を子どもたちのために捧げたい」と言っていました。
池田
尊い心です。本来、子どもの教育というのは、それくらい責任のあることなのです。普通の仕事のように思ったり、軽い気持ちでできるものではない。
渡辺
それにしても、さまざまな境遇の子どもたちが七人も八人もいて、“家族”として暮らしていくのは大変でしょうね。
舘
そう思います。まだ始まって三年ですから、これから多くの困難もあることでしょう。
でも、子どもたちも、養母の方々も、皆さん、大変に明るい表情をしていたのが印象的でした。
私たちが行った時には、子どもたちが合唱で迎えてくれたんです。男の子は蝶ネクタイをして、女の子はきれいに着飾って。そのかわいいこと!
養母となる方々の多くは、人生の辛酸をなめてこられた方が多いようです。
「ブラゴベスト」の方が言ってました。
「幸せになるのは、子どもたちだけじゃないんです。お母さんたちも、子どものおかげで幸せになれるのです。そして、その心を、また子どもたちに返していくのです」と。
池田
いい話だね。「教育」は、「共育(共に育つ)」です。
子どもは不思議です。子どもには、まぶしい生命の輝きがある。子どもの元気な姿を見れば、大人も元気になる。
にぎやかな子どもの声があるところ、そこには「希望」がある。「平和」がある。「生きる喜び」がわいてくる。
舘
モスクワでは一軒家が少なく、アパート暮らしが多いのですが、「SOS村」の家は、どれも一軒家です。
「さぞかし、お金がかかるでしょうね」と聞いたところ、「子どもたちが家族の愛情を知らないで育ち、社会で犯罪を犯したら、その人を更生させるほうが、ずっとお金がかかりますよ」と言っていました。
池田
なるほど、はっとさせられる一言だね。「学校を開く者は刑務所の門を閉じる」とのユゴーの言葉を思い出します。
家庭が一切の基盤であり、教育こそが根幹です。
どうしたら、人々が幸福な家庭を築けるか。そのために、何ができるか。指導者は、この一点を考え抜くべきです。
二十一世紀は、母子が幸福に生き、ほほえみに満ちた時代にしていかなくてはならない――私は、この思いで行動しています。
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「子どもの病気」に負けず勇気をもって前進を
渡辺
本当にそう思います。たしか舘さんは、“チェルノブイリの子どもたち”にも会われたとうかがいましたが。
舘
はい。「ブラゴベスト」の支援で、子どもたちがスウェーデンに療養に向かうところを空港で会いました。
生まれて初めて、バスや飛行機に乗る子どもたちばかりです。皆、明るかったのですが、皮膚の疾患や病気がちに見える子どももいました。「どうか、この子たちが元気に二十一世紀を迎えられるように」と、祈らずにおれませんでした。
渡辺
「子どもの病気」というのは、親にとって最もつらいものですね。しかも、それが命にかかわるような病気だった場合の苦しみは、はかりしれません。
池田
子どもの苦しみは、そのまま親の苦しみです。親にとっては、自分が病気になる以上に、つらいことかもしれない。
限りない未来をもった子どもが、病気になる――これほどの悲しみはないでしょう。「どうして、この子が!?」と、信じられない。信じたくない。そんな葛藤も起こってくる。
私のもとには、毎日、全国、全世界から、多くの便りが寄せられてきます。
なかには、お子さんの病気と必死に闘っておられる親御さんからのお手紙もある。
そうした便りに触れるたびに、私は、全快を祈り、ご家族が苦難に負けずに進んでいかれるよう、できる限りの励ましを送っています。
何といっても、一番、苦しんでいるのは、病気を患った本人です。どんなに幼い命でも、「生きよう。生きよう」と瞬時も休まず闘っている。それが生命の本然の力なのです。
ならば、周りの家族が、苦悩に押しつぶされてはいけない。「希望を捨てない」こと、「家族が力強く生きる」ことです。
絶望に沈むこともあるでしょう。無理もないことです。しかし、負けてはいけない。頭を上げ、「勇気」を奮い起こして、前へ前へ進んでほしい。その思いを込めて、私は、皆さまに届けと、毎日毎日、真剣に祈っています。
舘
「池田先生の励ましで、力強く立ち上がった」という人が、私の周りにも多くいます。
渡辺
以前、創価小学校に、腎臓病と闘っている子がいました。そのことを聞かれた池田先生は、「病気は必ず治るよ」と、背中をさすりながら励ましてくださいました。
この子は先生の言葉を支えに児童会の議長に立候補し、見事に当選、大任を果たしました。
先生の励ましを受けて、病気に打ち勝った学園生を、数多く見てきました。
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「使命」に生き抜いてこそ悲しみを乗り越えられる
舘
何人ものお子さんを抱えているお母さんの場合、家族が重い病気を患ったがために、どうしても、ほかの子どもに手をかけられずに悩んでいる方もいますが……。
池田
大丈夫です。もちろん、一時的に影響が出ることもあるでしょう。しかし、長い目で見れば、そのおかげで、より強い子に育つこともある。
「私はこの子を愛している!」と、心底から言えるのが、お母さんです。母の愛は、それほど大きいのです。自信をもってください。
祈ることです。愛情を注げる時に、精いっぱい抱きしめ、かかわってあげるのです。精神的にも、肉体的にもつらいことがあるでしょうが、そうして築かれた親子の絆は、より強く、より深くなっていくと私は思う。
逆に、何の困難も、苦労もない家庭より、家族が団結し、心が一つになる場合のほうが多いのではないだろうか。
舘
今のお話で、安心するお母さんも多いと思います。
池田
私自身、次男を亡くしています。病気の子をもつ親、お子さんを亡くした親の苦しみ、悲しみは、よく分かります。だからこそ、強く生き抜いていってほしいのです。
渡辺
関西の方から、当時の話をうかがったことがあります。
次男の城久さんが亡くなられた時、和歌山におられた先生は、急遽、東京に帰ることになり、関西の代表が大阪空港に先生をお見送りに行きました。
先生は、そこに居合わせた青年部のリーダーに、「これからは青年の時代だ! 青年を育てよう!」と力強く語りかけられたそうです。実は、この時、先生が急に帰ることになった理由を、青年たちは知らなかったのです。
後から、そのことを聞いたメンバーは愕然としました。そして、わが子を亡くされてなお、学会と広布のために戦い続ける先生に応えようと、涙ながらに深く誓い合ったそうです。
舘
ロシアで、子どもたちのための慈善団体「ドミトリー基金」の代表を務める、ノラ・クリコーワさんという老婦人に会いました。みんなから“ノラお母さん”と慕われていました。
代表といっても、この方は、自分が基金の創立者です。どこから見ても、普通の老婦人です。
実は、「ドミトリー」というのは、亡くなった息子さんの名前だそうです。
ドミトリーさんは、チェルノブイリ原発の事故直後、まっさきに処理のために現場に飛び込み、その時の被ばくが原因で、まもなく亡くなってしまったのです。
二十五歳でした。親思いの息子さんでした。あまりにも若い死でした。
渡辺
なんと痛ましい……。
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使命を生き抜いてこそ悲しみを克服
舘
ノラお母さんは、当時の心境を語ってくださいました。
「息子が亡くなった時、“もう、私は、この世で生きていけない。自分が生きている意味などない”と思いました」
絶望のどん底に沈んだのです。
しかし、彼女は、絶望の淵から、ついに立ち上がります。
“そうだ。息子は、人々を救うために生命を捧げた。そして、ロシアには、今も苦しんでいる子どもたちがたくさんいる。この子らのために、残された自分の人生を捧げよう”――ノラお母さんは、国から支給された弔慰金をもとに、子どもたちのための基金を設立します。息子の名前「ドミトリー」を冠した基金です。
ノラお母さんは述懐しています。
「この基金を作って、私は『これから自分にも生きていく意味がある』――そう感じました」と。
池田
立派だ。偉大なお母さんです。
ドミトリーさんの命は、ノラお母さんと一体です。息子さんは、お母さんの胸に間違いなく生きている。
創価学会の婦人部のお母さん方が、立ち上がられたのも、「困っている人のため、苦しんでいる子どもたちのために生きよう」と決意したからです。崇高な菩薩の生き方です。
大いなる「使命」に生き抜いてこそ、人間は悲しみを乗り越えることができる。より広く、深い境涯を開いていけるのです。
牧口先生も、戸田先生も、お子さんを亡くされている。
戸田先生は、言われていた。
「私は妻も亡くした。娘も亡くした。そして人生の苦労を、とことんなめつくした。だから会長になったのだ」
含蓄深い言葉です。
舘さんも、ご主人を亡くされているね。お子さんは三人おられたと思うが、いろんな苦労があったと思います。
舘
今では長男が二十六歳。次男が二十三歳。長女は二十歳になりました。
主人が亡くなったのは、一五年前です。今日まで、とにかく「無我夢中」でした。
ただ、私の場合は、主人の両親や妹、それから私の両親や姉たちに、本当に助けられ、守られました。自分一人では、決してここまでやってこれなかったと思います。
正直に言いますと、私は主人を亡くして一年間は、ショックから立ち直れませんでした。
それまで住んでいた神奈川から、父母のいる北海道に帰ったのですが、ご飯を作っていても、車を運転していても、何をしていても、いつの間にか「どうして、こんなことになったんだろう」と考えている自分に気づく――そんな毎日が続きました。
一年経って、東京で行なわれた追善勤行会に参加する機会がありました。池田先生といっしょに勤行し、心ゆくまで題目をあげさせていただきました。
本当に不思議なことなんですが、北海道の家に帰ってみると、以前のように堂々めぐりに陥らなくなっている自分を発見したんです。
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人々のために役立つ生き方を
池田
ご主人が亡くなられて間もなくの頃です。
私は、札幌で行なわれた第三回「世界平和文化祭」に出席するため、北海道に行っていました。
舘さんのお父さんの岩崎武雄さんが、私のもとに来られた。
わが娘を託した婿を亡くしたあとで、本当に悲しそうな顔をされていたのが忘れられない。
舘
父は、その時の池田先生の励ましで救われました。のちに、「先生のおかげで、自分は立ち上がれた」と、よく言っていました。
先生が父にくださった和歌は、今も、わが家に大切に掲げてあります。
渡辺
よろしかったら、どんなお歌だったのか、教えていただけますか。
舘
はい。
「幾山を
乗り越し
凱歌の
君なれば
さらに長寿を
さらに広布を」
先生は、悲しみのどん底にある父の心を奥底までくみとり、温かく激励してくださいました。子どもが大きくなった今、自分も親として、その時の父の気持ちが、よく分かるような気がします。
池田
岩崎さんは、北海道創価学会の大功労者です。草創の頃、お宅にも、よくお邪魔したね。
舘
はい。当時、わが家は札幌支部の事務所を兼ねていました。先生が初めてわが家にいらしたのは、私が高校二年生の時です。私の人生の原点になっていますが、少し恥ずかしい思い出でもあります。
渡辺
どうしてですか?
舘
先生が来られるまで、私は一人で留守番をしていたんです。部屋の中を片づけたりしているうちに、緊張が続いたせいか、いつのまにか眠ってしまって。
何と、私を起こしてくださったのが、池田先生だったんです!(笑い)
渡辺
それは、大変(笑い)。びっくりなさったでしょう。
舘
でも、その折に、先生が教えてくださったことは、鮮烈に覚えています。
「お金とか、権力とかでつながった人間関係というのは、それがなくなれば消えてしまう。
しかし、信心でつながった人間の絆は、絶対に切れることがないんだよ」と。
それまで、「信心」と言われても、なかなか、ぴんとこなかったのですが、先生の言葉は、すっと胸に入ってきました。
「広布のため、人々のために役立つ生き方をしたい!」と、子ども心に決意することができました。
また、思い出に残っているのは、私たちが用意しておいたバナナのことです。
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”出会った人を皆、幸福に!との思いで
渡辺
当時、バナナといえば高級品でしたね。
舘
はい。北海道の同志のために激務を続けられる先生を、少しでもおもてなししたい、という気持ちで用意しました。
先生は、いったん「ありがとう」と受け取られてから、「これは、ほかの人に差し上げていいですか。だれにあげると思う?」と。
いぶかる私たちに、「ここまで車を運転してきて、今、外で待っていてくれる人に差し上げたいのです」と。
今、思えば、それほどまでにこまやかな配慮をされる先生は、まだ三十歳になられたばかり。思い出すたびに、陰の人を大切にする指導者の姿勢を学ばせていただく思いがします。
池田
北海道は、牧口先生、戸田先生が、青春時代を過ごされた天地です。恩師の故郷は、弟子である私の故郷でもある。
札幌は、本当に思い出深い地です。
地元の同志が運転するスクーターの後ろに乗って、市内中を駆け回ったこともあった。
舘
昭和三十年(一九五五年)の“札幌・夏の陣”ですね。私の両親も、本当に生き生きと活動していたのを覚えています。
先生は、スクーターの後ろでも、ずっと題目をあげておられたと聞きました。
運転している人が、「私の運転は大丈夫ですから、安心してください」(笑い)と言うと、「ちがうんだ。今、この札幌で悩んでいる人、苦しんでいる人を一人でも多く救いたい。その思いで、私は、題目を大地にしみこませるように祈っているのです」と。
池田
そんなこともあったね。
出会った人には、一人残らず「幸福の大道」を歩んでいただきたい。この思いで五〇年間、走ってきました。
渡辺
本当に悩み、苦しんでいる人を、大きく抱きかかえるように励まされる先生の姿を目の当たりにするたびに、先生の慈愛の深さに打たれます。
創価小学校でも、母親を亡くした児童に、先生は心からの励ましをしてくださったことがありました。
学会の看護婦さんの集いである「白樺グループ」の先駆者・林栄子さんが亡くなられたのは、昭和六十年(一九八五年)七月十六日のことでした。
小学校三年生の新子さんと、一年生の尊弘くんの、二人のお子さんが創価小学校に学んでいました。
栄子さんが亡くなった翌日、学園に来られていた池田先生は、二人を呼ばれ、抱き寄せられて激励してくださいました。
「お母さんは、ずーっと生きているよ。先生がいるから、ずーっと見ててあげるよ。
泣いちゃいけない。獅子の子だから。負けちゃいけない。勇気が大事なんだよ」と。
先生の奥様も、通夜にお越しになり、「お母さんのように立派になってくださいね」と、激励されました。
そのあとの七月二十一日、新子さんは「お母さんの思い出と私の決意」という作文に、こうしたためています。
「一、お母さんみたいな人になる。
(この言葉は奥様が言ってくださった言葉です)
一、泣かないで獅子の子になる。
(この言葉は池田先生がこの前あった時に言ってくだ さった言葉です)
私は、お母さんとこのことを約束します」
新子さんは今、お母さんのあとを継いで、東京の、ある大学病院の看護婦として働いています。弟の尊弘くんは、創価大学経営学部で、環境管理に関する勉強に励むとともに、元気にサッカーに打ち込んでいます。
池田
本当にうれしい。私は、今も、二人の成長をじっと見守っています。
舘
私たち親子も、先生からの励ましを支えに、力を合わせて頑張ってきました。
何らかの事情で、父親だけ、母親だけで子育てをしていかねばならない場合、心がけるべきポイントは、何でしょうか。
池田
その家族の置かれている状況によって、一概には言えないでしょう。
ただ、子どもが劣等感をもたないようにすることが重要ではないだろうか。
すべて、両親がそろっているのと同じにする必要はありません。
「こんな時に父親がいてくれれば」「母親がいたら」と思うこともあるかもしれない。しかし、両親がそろっていても、自立できない甘えん坊が育ってしまうことがある。逆に、若くして親を亡くしても、立派に成長している人はたくさんいる。
子どもを育てる人が真剣に祈り、真剣に子どもを愛し、必死に生き抜けば、愛情は必ず子どもに伝わります。恵まれた環境の子よりも、たくましく強い子どもに育つこともある。
牧口先生は、幼いうちに両親と離別しています。しかし、苦労に苦労を重ねて、あれほどの偉大な人生を築かれた。
釈尊もまた、生まれてすぐに、母親を亡くしている。“親がいなくても、人間は偉大になれる”と身をもって示したのです。
ふつうは“マイナス”になると思われていることも、「強い心」があるなら――私どもで言えば「信心」があるなら、“プラス”に変えていけるのです。
要は、何ものにも負けない「強い心」を育むことが根本です。
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子どもが親を最高の生き方へと進ませる
渡辺
子どもの病気は本当につらいことですが、突然、非行に走るのも、親にとっては天地がひっくり返るようなショックを受けるようです。
よく「問題児」などと言いますが、実はその子自身が「今、何が問題か」「何を変えなければいけないのか」を、周りに教えてくれていることが多いですね。
親も、教師も、ともすれば「解決」ばかりを焦ってしまいがちです。騒ぎにならないように、問題が静まるように、と。でも、表面的な解決は、本質的な問題を先送りするだけです。かえって、問題をややこしくしてしまうこともあります。
その時、「自分は、本当に『子どもの幸福』を考えているのか?」――そう、自問することが必要だと思います。
「子どもの幸福」を第一に考え、教師自身が、そして親自身が成長する。それが、真の解決への近道だと思います。大切なのは「子どもを信じぬく力」です。
池田
「信ずる力」――仏法でも、「信力」「行力」と言うね。
戸田先生は、ある時、「長男が不良で、家に帰ってこない」という悩みに答えて、こう語ったことがある。
「仏法上の根本問題は、そういう子どもを産んだ両親の宿命です。その子をじっと見た時、『この子を立派にしなければいけない。この子こそ私を仏にするのか』と拝むようになる心境こそ大切です」
舘
よくよく、かみしめるべき言葉だと思います。
池田
親子の縁は不思議です。三世の生命観から見れば、どれほどの深い絆で結ばれていることか。その子どもが、自分に、そしてまた家族に、最高の生き方へと進むきっかけを与えてくれるのです。
それを親が、どう受け止めるかで、親も子どもも、大きく人生が変わってくる。
どんな苦しみがあっても、どんな試練があっても、「わが子よ、生まれてきてくれて、ありがとう」――こう、心から言えるようになった時、親子は共に、幸福の方向へ進んでいけるのではないでしょうか。
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