Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

(二)  

小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)

前後
4  「ところで、君は今の革命のことを気にかけていたね」
 シェニエが、語りかけた。
 「芸術を捨てようかどうか、迷っていたようだったね」
 「…………」
 「芸術は、一見、こういう時代の激動の前には無力に見えるかもしれない。しかし、それは大きな間違いだ。芸術そのものが、時には大いなる抵抗運動となりうるものなのだ。なぜなら、芸術は、人間そのものの力の表明なのだから、時代を導く原動力ともなりうるのだよ」
 ルネは、シェニエの言葉が、自分の日頃の懸念を晴らしてくれるかもしれないと、じっと耳を傾けた。
 「芸術というのはね、一つの予感なのさ。偉大な芸術家は、必ず、やってくる時代の予告者なのだ。その鋭敏な心には、やがて起ころうとする時代の潮流が、他の人々よりも先に動き始めているのだね。直観。魂の、内なる無意識の叫び。それが、芸術という形をとって表れる。だから、不幸にして早すぎて生まれてくる者もあるが……」
 シェニエの言葉は、いつしか熱を帯びていった。
 「もし、この革命の精神が、少なくともその最初の出発にうたいあげた新しい人間精神の解放が、正しいものとすれば、それが芸術にも新しい命を吹き込まないはずがない。必ず、新しい芸術が生まれることは間違いあるまい。だから、君は政治的な運動それ自体に身を投じなくとも、この革命の新しい息吹に触れた傑作を遺せるならば、それが君らしい革命への参加であり宣揚となるのではないだろうか。だから、君は君らしく、自分の道を行けばいいのだよ」
 ルネは、深くうなずいた。
 「それに、僕はこの頃、この革命が高く掲げた『自由』や『平等』や『友愛』の崇高な理念のためには、その根本となる、もっと深い精神の泉が必要だろうと思われてならないのだ。そう、それだけでなく、詩も、絵画も、愛も、人間の命も、きっと、たった一つの同じ泉から湧き出ているのに違いない、そんな思いがしてきている。その泉は、あの青い大空のずっと奥にあるのかもしれない。あるいは、君の魂のずっと深くに潜んでいるのかもしれない。若い君は、これから、その泉を見つける旅にのぼるのだよ。人生という旅にね。……僕には、もうその時間の余裕がないのだもの」
 呟くような最後の言葉が、急にルネの胸を重苦しくした。
 「いや、すまない。君の熱心な写生をすっかり邪魔してしまった」
5  シェニエは、池のほとりを離れようとした。そのとき、ルネが急に伸びあがるようにして、大きな声をあげた。
 「あ、お父さんだ。ちょうどいい、父に会ってください、シェニエさん」
 ルネが指さす方を見ると、池の向こうの茂みのあいだに、男が現れた。シェニエは、ふと顔を翳らせた。万が一を恐れて、誰にも顔を会わせたくなかったし、ましてや言葉を交わすことは避けたかった。男はやがて池を半周して近づいてき、帽子をとると、片手を差し出した。
 「こんにちは、ムシュー。初めまして。どちらからか、お散歩ですか?」
 こんな片田舎に、一人で珍しい、と言いたげな面持ちで、シェニエに会釈した。
 やむなく、シェニエは答えを返した。
 「ええ、この谷の中を歩いていると、本当に気分がよい。こんな静かな自然の真ん中で生活できるなんて、うらやましいことですよ。ルネ君のお父さん、息子さんは、きっといい画家になるでしょう」
 年のころ五十ぐらいと見える父親は、農夫らしい健康な笑顔を見せた。息子のルネと同じ屈託ない話しぶりで、純朴そのものの感じがする。息子と青年とが親しげに語らうようすを遠くから垣間見たことも、父親を一層気楽にさせていたようであった。
 「こんな地味の痩せたところで畑仕事をやる者は、ほとんどいません。だから、息子には後を継いでもらいたかったが、どうしても絵かきになりたい、と言うものでして」
 「ほかに子どもさんは?」
 「いえ、これっきり。私の手一つで育てましてね。つれあいは、流行病で、これが小さいときに喪いました」
 父親は、それから作物の出来などをこもごも語った。
 「作物がよくとれるときも、とれない年もありますがね。まあ、悪いことの方が多いですが」
 シェニエは、ここでの険しい農民生活を思った。おそらくは、朝は明けの星とともに起き、夕べは宵の星を背にして帰るような、働きづめの野良仕事であろう。父子二人の収穫も大したものではあるまい。
 「男手一つで、よくやってこられましたね」
 思わずシェニエが言うと、父親はうれしそうに笑った。
 「多少つらいことがあっても、楽しみはあるものです。仕事に疲れたら、森の精や花の精に抱かれてひと眠り、というわけで。来る日も来る日も、同じような畑仕事。それでも一日じゅうの野働きのあとの、気持ちのいい疲れと食欲は、なんとも言えない愉快なものです」
 シェニエは、まるで大地の色が染み込んだように黒褐色に日焼けした、朴訥な、農夫の風貌をじっと見つめた。四角ばった厚い頬に、ごま塩髯をたくわえ、いかにも労働のエネルギーを感じさせる体躯をしている。
6  父親は、自分に向けられている青年の目に、しばらく黙ったまま視線を合わせていたが、急に話題を変えた。
 「革命なぞと、世の中がばかに騒がしいじゃありませんか。農民の生活を楽にしてくれるそうだから、ありがたいことだが……」
 シェニエは、無言でうなずいた。
 村の仲間から革命のなりゆきについて聞くことがある、と父親は言った。ルネと一緒にヴェルサイユへ行って目撃した騒動のことも語った。
 「そうそう、きのうのことですがね」
 ふと想い出したように、父親は、シェニエの目を見つめながら言った。
 「なんでも、ヴェルサイユの近辺に逃げている反革命家が幾人かいるそうで、もし心あたりがあれば届け出るようにという通達が触れまわられましたが……」
 シェニエは、内心ひやりとした。
 ルネは、シェニエの身柄にまで話が発展するのを、直観的に恐れた。父親に詳しく知られない方がいいという衝動が働いた。
 「お父さん、このかたは詩人なのだよ。この間も、素晴らしい詩を聴かせてくれたのだよ。革命には関係ないんだ」
 すると、父親は驚いたように、大きな目をなお丸くして、シェニエの顔をのぞき込んだ。
 「詩人……、詩人ですと?」
 なにか記憶をたぐり寄せようとでもするような顔つきで、呟いている。その一瞬の表情の変化に、シェニエは身の危険を読み取った。父親は、じっとシェニエの目をのぞき込み、それから身なりにもあらためて注視しているようだった。が、すぐに実直そうな笑顔に変わった。
 「それは、良かった。ルネも芸術家になろうというわけだから、どうか力づけてやってください」
 農夫らしい率直な、粗っぽい声でそう言った。
 「ただ、これは、村の仲間と、今の革命のことであれやこれや話しながら考えたのですがね……」
 シェニエは、内心の警戒をとかぬまま、次の言葉を待った。
 「革命というのは、人間を生かすためのもので、人間を殺すためのものじゃなかろう、ってね」
 父親は、無表情にそう言った。
 シェニエは、自分の張り詰めていた気持ちがみるみるほぐれて、父親の言葉が、胸の奥まで染み透っていくのを感じた。
 「殺し合いや、まして、その手助けなどはご免です。……それに、何事も、私ども農民がねちねちへっこまずに畑を耕すようにやることです。そうすれば、いつかは芽も出て、収穫もある。急に思いどおりに変えちまおうとやりすぎるから、こんなに世の中が大騒動になって、芽のつみあいになるのではないですかね」
 シェニエは、蘇ったように心がなごんでいくのを覚えた。そして、節太い手を広げて話しかけてくる農夫の、彫塑的とも思えるたくましい風貌をもう一度見つめ直すと、その全身からある一つの感慨が浮かんでくるのだった。それは、硬い岩石の質というような、なにか堅牢で風化せず、不動なものの強い印象であった。
 それと同時に、シェニエの脳裡を、ギリシャ古典のある一節がかすめた。
 ――『何かをやりすぎるということは、逆に大きな反動をもたらしがちなものであって……とりわけ国制においてそうなのだ』
 学校時代から丹念に読んでいたプラトンの言葉であった。
 民主制が、なぜ専主制の暴虐を生み出すか。それは、“何か”をやりすぎるから。その“何か”とは、プラトンは、民主制の生命である「自由」そのものを指していたではないか――。「自由」がはらむ背理。この革命が直面しているのも、まさにその問題ではないか――。
 シェニエは、そんな短い記憶や想念の閃きとともに農夫の言葉をかみしめたのであった。
7  父親が話題を、ここでの生活に戻すと、シェニエはもう危険を感じなくなった。やがて、父子に別れを告げようというときに、彼はルネに明るい顔を向けて言った。
 「ああ、ルネ君、一つだけ言い添えておくけれど、詩も、絵も、『友愛』への、またとない作業でもあるのだよ。なぜなら、それは、何の注釈もなしで、あらゆる人々が分かりあえるものだからね。芸術は、人の心と心とをつなぐ『友愛』の懸け橋となる。これこそ、フランス革命の一つの柱じゃないか。がんばりたまえ、ルネ君。それから、これを君にあげよう。いや、もらってくれたまえ。何もあげるものがないものだから」
 そう言って、シェニエは、自分の襟もとから絹地の白いスカーフを取り、ルネに差し出した。汗やほこりに汚れて皺んではいたが、ルネの手に詩人のぬくもりが触れた。
 立ち去っていくシェニエの背に向かって、父親が怒鳴るような大声で言った。
 「ご心配はいりませんよ、ムシュー。気をつけていきなさいよ」
 振り向くと、農夫は親しみの込もった目付きを一層やわらげて、軽く手を挙げた。
 やがて、シェニエの姿が、彼方の林の陰に消えた。父親も、家の方へ帰っていった。
 ルネは、再びとりかかった写生の手をとめて、空を仰いだ。谷間の上空は、青く深く凪いだ海のように、どこまでも晴れわたっている。その青さが、全身に染み込んでくるようであった。空を見上げながら、詩人との会話を、心に反芻してみた。そして、自分が決めた通り、わき目もふらずに画家への道を進もうと思った。
 家に帰ると、ルネは、父親から意外な話を聴かされた。前日、当局から通知された潜伏中の反革命運動家の中に、詩人の肩書をもつ人物もいた、というのである。名前は忘れたが、年齢はあの青年と同じぐらいだろうと。
 「だが、殺し合いの手助けはご免だ」
 父親は、ぽつりとそう言うと、もはや青年の名前を尋ねようともしないで、黙り込んでしまった。
 ルネは、はっとした。自分の部屋にひきこもると、脇のポケットから、あのスカーフを取り出してみた。そして、詩人がふと「もう自分には時間の余裕がない」と漏らした言葉を、何度も想い返した。
 もう、あの人に、これきり生きては会えないのではないか――。スカーフを握りしめながら、不安の翳が消えなかった。
 その日から、再びシェニエの姿をビエーブルの谷間に見ることはなかった。

1
4