Nichiren・Ikeda
Search & Study
第31巻 「誓願(続)」
誓願(続)
小説「新・人間革命」
前後
32 誓願(続)(32)
香港が中国に返還される五カ月前には、山本伸一は金庸に、「返還後も香港は栄え続けるでしょう」と述べ、これからは、経済だけでなく、「心の充足」も焦点になると語った。
すると、金庸は、強く訴えた。
「香港SGIをはじめ、SGIの方々には、ぜひ『精神の価値』『正しい価値観』を多くの人たちに示していただきたいのです」
香港の民衆の幸福と繁栄――二人の心は、この一点にあった。
伸一が、メンバーに訴え続けたのは、いずこの地であろうが、不屈の信心ある限り、“幸福の宝土”と輝くということであった。
日蓮大聖人は、「其の人の所住の処は常寂光土なり」と仰せである。
――一九九七年(平成九年)七月一日、イギリスの統治下にあった香港は、中国に返還され、歴史的な式典が行われた。
その祝賀式典のアトラクションには、香港SGIの「金鷹体操隊」も若さあふれる演技を披露した。また、同日夜の記念音楽会には香港SGIの各部の合唱団が出演した。
伸一は、旧知の江沢民国家主席と香港特別行政区の董建華行政長官に祝電を送った。香港のメンバーは、返還後の香港を「平和と繁栄の港」にとの決意を固め合い、二十一世紀という「第三の千年」へ飛翔していくのだ。
伸一は、九五年(同七年)十一月の香港滞在中、マカオを訪れ、マカオ大学で名誉社会科学博士号を受けたほか、マカオ市政庁を表敬訪問した。ポルトガル領であるマカオも、九九年(同十一年)、中国に返還されるが、マカオのメンバーも香港の友に続き、希望のスタートを切っていくことになる。
九五年(同七年)十一月十七日、アジア訪問から帰国した山本伸一は、そのまま中部・関西指導に入った。そして二十三日、関西文化会館で、全国青年部大会、関西総会を兼ねた本部幹部会が開催された。
その席上、SGI理事長の十和田光一から、「SGI憲章」が発表された。
33 誓願(続)(33)
SGIは、一九七五年(昭和五十年)一月二十六日、太平洋のグアムで行われた第一回世界平和会議で誕生し、以来、仏法の生命尊厳の思想を弘め、「世界の平和」と「人類の幸福」に寄与するための運動を展開してきた。そのなかで各国・地域のSGIは、地域、社会で信頼を広げ、大きな期待を担うまでになっていた。
そこで結成二十周年の節目にあたり、「SGIは何をめざして進むのか」という理念と行動の規範を明文化しようと、この九五年(平成七年)、SGI常任理事会・理事会で、SGI憲章制定準備委員会が発足した。そして、十月十七日のSGI総会で「SGI決議」が採択され、それに基づいて、準備委員会で検討を重ね、各国の賛同を得て、憲章が制定されたのである。
「SGI憲章」は、仏法を基調に平和・文化・教育に貢献することをはじめ、基本的人権や信教の自由の尊重、社会の繁栄への貢献、文化交流の推進、自然・環境保護、人格陶冶などが謳われ、十項目からなっていた。
この七つ目には、「仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく」とある。
「世界の平和」と「人類の幸福」を実現するために大切なことは、人類は運命共同体であるとの認識に立ち、共に皆が手を携えて進んでいくことである。これを阻む最大の要因となるのが、宗教にせよ、国家、民族にせよ、独善性、排他性に陥ってしまうことだ。人類の共存のためには、“人間”という原点に立ち返り、あらゆる差異を超えて、互いに助け合っていかねばならない。
創価学会は、阪神・淡路大震災でも、被災者の救援・支援活動に、総力をあげて取り組み、各国のSGIからも、さまざまなかたちで支援があった。それに対して、被災者をはじめ、多くの人びとから感謝の声が寄せられた。また、SGIは他の宗教団体などとも協力し、核廃絶の運動を推進してきた。
34 誓願(続)(34)
人道的活動のために、宗派や教団の枠を超えて、協力していくことは、人類の幸福を願う宗教者の社会的使命のうえからも、人間としても、必要不可欠な行動といってよい。
そして、共に力を合わせて、課題に取り組んでいくには、互いの人格に敬意を払い、その人の信条や文化的背景を尊重していくことである。
本来、各宗教の創始者たちの願いは、人びとの平和と幸福を実現し、苦悩を解決せんとするところにあったといえよう。その心に敬意を表していくのである。
よく日蓮大聖人に対して、「四箇の格言」などをもって、排他的、独善的であるとする見方がある。しかし、大聖人は、他宗の拠り所とする経典そのものを、否定していたわけではない。御書を拝しても、諸経を引いて、人間の在り方などを説かれている。
法華経は、「万人成仏」の教えであり、生命の実相を説き明かした、円満具足の「諸経の王」たる経典である。それに対して、他の経典は、一切衆生の成仏の法ではない。生命の全体像を説くにはいたらず、部分観にとどまっている。その諸経を絶対化して法華経を否定し、排斥する本末転倒を明らかにするために、大聖人は、明快な言葉で誤りをえぐり出していったのだ。
そして、釈尊の本意にかなった教えは何かを明らかにするために、諸宗に、対話、問答を求めたのである。それは、ひとえに民衆救済のためであった。それに対して、幕府と癒着していた諸宗の僧らは、話し合いを拒否し、讒言をもって権力者を動かし、大聖人に迫害を加え、命をも奪おうとしたのである。
それでも大聖人は、「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」と、自身に大弾圧を加えた国主や僧らを、最初に成仏に導いてあげたいと言われている。そこには、慈悲と寛容にあふれた仏法者の生き方が示されている。
人びとを救おうとする、この心こそが、私たちの行動の大前提なのである。
35 誓願(続)(35)
自身の信ずる宗教に確信と誇りをもち、その教えを人びとに語ることは、宗教者として当然の生き方である。しかし、そこには、異なる考え、意見に耳を傾け、学び、より良きものをめざしていこうとする謙虚さと向上心がなければなるまい。また、宗教のために、人間同士が憎悪をつのらせ、争うようなことがあってはならない。
現代における宗教者の最大の使命と責任は、「悲惨な戦争のない世界」を築く誓いを固め、人類の平和と幸福の実現という共通の根本目的に立ち、人間と人間を結んでいくことである。そして、その目的のために、各宗教は力を合わせるとともに、初代会長・牧口常三郎が語っているように、「人道的競争」をもって切磋琢磨していくべきであろう。
SGIは、この「SGI憲章」によって、人類の平和実現への使命を明らかにし、人間主義の世界宗教へと、さらに大きく飛躍していったのである。
翌一九九六年(平成八年)も、山本伸一の平和旅は続いた。三月に香港を訪問し、五月末から七月上旬には、北・中米を訪れた。
その折、アメリカでは、六月八日にコロラド州のデンバー大学から、名誉教育学博士号を授与されている。
十三日には、ニューヨークのコロンビア大学ティーチャーズ・カレッジで、「世界市民」教育をテーマに講演し、訴えた。
――世界市民とは、生命の平等を知る「智慧の人」、差異を尊重できる「勇気の人」、人びとと同苦できる「慈悲の人」と考えられ、仏法で説かれる「菩薩」が、その一つのモデルを提示している。教育は「自他共に益する」菩薩の営みである。
翌日は、ニューヨークの国連本部を訪れ、明石康国連事務次長をはじめ、各国の国連大使らとの昼食会に出席して意見交換した。
伸一は、二十四日からキューバ文化省の招聘で、同国を訪問することになっていた。彼は果敢に行動した。行動こそが時代を開く。
36 誓願(続)(36)
キューバは、この一九九六年(平成八年)ごろ、経済的にも、政治的にも、厳しい試練の渦中にあった。東西冷戦が終わり、ソ連・東欧の社会主義政権が崩壊したことによって、社会主義国キューバは、ソ連という強力な後ろ盾を失い、孤立を深めていた。さらに、この年の二月、キューバ軍によるアメリカの民間機撃墜事件が起こり、それを契機に、アメリカでは同国への経済制裁強化法(ヘルムズ・バートン法)が成立するなど、緊張した状況が続いていたのである。
“だからこそ、世界の平和を願う一人として、キューバへ行かねばならない。そこに、人間がいるのだから……。この国とも、教育、文化の次元で、交流の道を開こう!”
キューバ行きを一週間後に控えた十七日、山本伸一は元米国務長官のヘンリー・A・キッシンジャー博士と、ニューヨーク市内で再会し、旧交を温めた。博士は、アメリカとキューバの関係改善について、自らの思いを語った。伸一は訴えた。
「一時の風評や利害ではなく、未来のための断固とした信念と先見で行動し、二十一世紀に平和の橋を架設すべきであるというのが私の信条です」
二人は、率直に話し合った。
伸一は、キューバへ向かうために、ニューヨークからマイアミへ移動し、フロリダ自然文化センターを初訪問。世界五十二カ国・地域の代表が集っての第二十一回SGI総会に出席した。
二十四日午後、彼は、カリブ海の七百の島々からなるバハマを初訪問した。このころ、アメリカからキューバへの直行便はなく、第三国を経由しなければ出入国はできなかった。バハマは、伸一にとって、海外訪問五十二カ国・地域目となった。この国でも、男女二人のメンバーが彼を待っていた。
四時間余りの滞在であったが、この二人を全力で励まし、記念に一文を認め、贈った。
「ここにも SGI ありにけり
バハマ創価学会 万才」
37 誓願(続)(37)
山本伸一たちは、バハマからキューバが差し向けたソ連製の飛行機で首都ハバナのホセ・マルティ国際空港へ向かった。
二十四日の午後五時半過ぎ、空港に到着すると、文化大臣夫妻をはじめ、多くの政府要人が出迎えてくれた。
伸一は、心からの謝意を述べ、「民間人であるが、『勇気』と『行動』で、人びとや国と国の“分断”を“結合”に変えていきたい。二十一世紀のために、全力で平和の道を開きたい」と、語った。
キューバでの滞在は二泊三日であるが、彼は、多くの人びとと友誼を結ぼうと深く心に誓っていた。一つ一つの行事に、一人ひとりとの出会いに、全精魂を注ぐ思いで臨んだ。
二十五日の午後四時、国立ハバナ大学を訪問した。ここで、伸一の文化交流への貢献を讃えて、ハルト文化大臣から国家勲章「フェリックス・バレラ最高勲章」が贈られた。
叙勲式で文化大臣は、「会長は『平和の不屈の行動者』であり、叙勲は『平和を願う民衆の連帯』の表れである」と述べた。
次いで、ハバナ大学からの「名誉文学博士号」の授与式が行われ、引き続き伸一が、「新世紀へ 大いなる精神の架橋を」と題して記念講演をすることになっていた。
式典の途中から、晴れていた空が、にわかに曇り、沛然たる豪雨となった。会場の講堂の窓に稲妻が走り、雷鳴が轟く。酷暑のキューバで、雨は涼をもたらす恵みである。しかし、あまりにも激しい突然の雷雨であった。
伸一はマイクに向かい、こう話し始めた。
「雷鳴――なんとすばらしき天の音楽でありましょう。『平和の勝利』への人類の大行進を、天が祝福してくれている『ドラムの響き』です。『大交響楽』です。
また、なんとすばらしき雨でありましょう。苦難に負けてはならない、苦難の嵐の中を堂々と進めと、天がわれらに教えてくれているようではありませんか!」
大拍手が起こり、皆の顔に笑みが浮かぶ。
深い心の共鳴が場内に広がった。
38 誓願(続)(38)
講演で、山本伸一は、「二十一世紀に始まる新しい千年には、『人間の尊厳』を基盤とした“希望”と“調和”の文明を、断固として築いてまいりたい」と、思いを披瀝した。
そして、そのために、三つの「架橋」、すなわち結び合う道を示した。その第一が、人間と社会と宇宙を結ぶ詩心の薫発による「生の全体性」の回復。第二が、他者の苦悩に同苦しつつ、「人間」と「人間」を結ぶこと。第三が、教育に力を注ぎ、未来へ希望の橋を架けることであった。
この夜、伸一は、フィデル・カストロ国家評議会議長と、革命宮殿で約一時間半にわたって会見した。軍服姿で知られる議長だが、スーツにネクタイを締めて、笑顔で迎えてくれた。平和と友好の意志を感じた。
話題は、後継者論、人材育成論、政治・人生哲学、世界観など多岐にわたった。だが、一貫して、「対話」と「文化」の力が二十一世紀の平和にとって、極めて大きな要素となることを確認する語らいとなった。
伸一は、キューバも世界も、未来は「教育」にかかっていると力説した。また、SGIの運動は、どこまでも平和を基調とし、体制を超えた、「人間」を根本とした国際的運動であることを述べ、それは「すべての人間は平等に尊厳である」とする仏教思想の必然の帰結であり、その具体的な表現であると訴えた。
一方、カストロ議長は、一行を心から歓迎し、相互理解を図るために、キューバと日本の交流を積極的に行いたいと明言した。
会見のあと、カストロ議長に創価大学から名誉博士号が授与された。謝辞に立った議長は、「今回のSGIの皆さまのキューバ訪問は、平和に貢献する人間主義を主張するうえで、重要なことと思っています」と強調。また、日本は、資源も少なく、土地も狭いうえに、地震や台風などもあるなか、国を発展させてきたと評価し、こう話を結んだ。
「日本の方々は、『人間に不可能はない』との実証を世界に示された!」
伸一と議長との友誼の絆は固く結ばれた。
39 誓願(続)(39)
山本伸一のキューバ訪問以降、日本との文化・教育交流も活発に行われていった。
また、二〇〇七年(平成十九年)一月六日、キューバ創価学会が正式に宗教法人となり、その登録式が行われている。
アメリカは、対キューバ経済制裁を次第に緩和し、二〇一五年(同二十七年)に両国は国交を回復することになる。
一九九六年(同八年)六月二十六日、伸一は、キューバに続いて、パナマに隣接し、「中米の楽園」といわれてきたコスタリカを初めて訪れた。これで海外訪問は、世界五十四カ国・地域となった。コスタリカは、憲法で常備軍を廃止し、永世的、積極的、非武装中立を宣言している国である。
翌二十七日、伸一は、首都サンホセ市の大統領府で、ホセ・マリア・フィゲレス・オルセン大統領と会見したあと、メンバーとの交歓会に駆けつけるとともに、和歌を贈った。
「コスタリカ ここにも地涌の 友ありき
常楽我浄の 人生あゆめや」
二十八日には、中南米で初の開催となる「核兵器――人類への脅威」展の開幕式が行われた。これには大統領夫妻、ノーベル平和賞を受賞したオスカル・アリアス・サンチェス元大統領らが出席した。
会場のコスタリカ科学文化センターには、「子ども博物館」が併設されており、そこで遊ぶ子どもたちの元気な声が、式典会場にも響き渡っていた。スピーチに立った伸一は、微笑みながら語った。
「賑やかな、活気に満ちた、この声こそ、姿こそ、『平和』そのものです。ここにこそ、原爆を抑える力があります。希望があります。子どもたちは、伸びゆく『生命』の象徴です。核は『死』と『破壊』の象徴です」
席上、伸一は、「“核の力”よりも偉大な“生命の力”を、いかに開発させていくか」「“核の拡大”よりも強力な“民衆の連帯”を、どう拡大していくか」――ここに人間教育、民衆教育の重大な課題があると訴えた。
40 誓願(続)(40)
山本伸一は、北・中米訪問の翌一九九七年(平成九年)の二月に香港を訪れ、五月には第十次の訪中をし、十月にインドを訪問した。日々、限りある時間との闘争であった。
九八年(同十年)は、二月にフィリピン、香港へ。五月には韓国へも赴き、この時、初めて、韓国SGI本部を訪れたのである。
また、翌九九年(同十一年)五月、三度目の訪韓となる済州島訪問を果たした。
二〇〇〇年(同十二年)は二月に香港へ。
そして、十一、十二月と、シンガポール、マレーシア、香港を歴訪したのである。
シンガポールでは、十一月二十三日、S・R・ナザン大統領と大統領官邸で会見した。
大統領は、温厚にして信念の人であった。
――一九七四年(昭和四十九年)、日本赤軍のメンバーら四人が、シンガポールの石油精製施設を爆破し、従業員五人を人質に取るという事件が起こった。その時、国防省治安情報局長官として、冷静に、断固たる信念をもって交渉し、陣頭指揮を執ったのがナザン大統領であった。テロリストらはクウェートへの移送を要求し、日本政府関係者と共に、シンガポール政府関係者の同乗を条件とした。
ナザン長官は、自ら飛行機に乗り込んだ。そして、最終的に、一人の犠牲者も出すことなく終わったのである。何かあれば、自分が命がけで取り組み、一切の責任を取る――その覚悟をもっていることこそが、リーダーの最も大切な資質であり、要件といえよう。
自分の身を守ることが第一か、民衆、国民を守ることが第一か――その生き方の本質は、いざという時に、また、歳月とともに明らかになる。時代は、ますます真剣と誠実のリーダーを要請している。
会見でナザン大統領は、「シンガポールは小さな国です。新しい国です」「多民族、多宗教、多言語の国です。さまざまな困難な状況のなかで、共通の目的に向かって前進してきました」とも、率直に語っていた。
伸一は、大統領の責任感に貫かれた生き方に、発展する同国の魂を見た思いがした。
41 誓願(続)(41)
山本伸一が、二十一世紀を生きる青年たちへのメッセージを求めると、ナザン大統領は学会の青年部への讃辞を惜しまなかった。
「独立記念日の式典で、私は何度も、シンガポール創価学会の演技を見てきました。本当にすばらしい。シンガポールだけでなく、マレーシア創価学会の演技も見てきました。見事に調和しています。規律がある。心を引きつける美しさがあります。いったい、どうしたら、こんなすばらしい演技ができるのだろう――いつも、そう驚いていました。
しかも、青年が主体者として参加している。演技には、仏法の教えが体現されています。シンガポールの社会においても、人間的な質が、一段と大事になってきています。その意味でも、創価学会は、社会と国家に、すばらしい貢献をしてくださっています」
伸一は嬉しかった。学会への信頼と期待がここまで社会に広がり、後継の青年たちが賞讃されていることが、何よりも嬉しかった。
次代を担う青年たちの成長こそが、弟子の勝利こそが、自身の喜びであり、楽しみであり、希望である――それが師の心である。それが師弟の絆である。
翌二十四日、オーストラリアのシドニー大学から伸一に名誉文学博士号が贈られた。名誉学位記の授与は、シンガポール及び周辺国からの留学生の卒業式典の席で行われた。
会場は、シンガポールの中心部にあるホテルであった。
シドニー大学は、オーストラリア最初の大学であり、世界に開かれ、約三千人の留学生が学んでいる。特に、アジアからの留学生が多く、シンガポールも、その一つであった。
「留学生と長い間、離れていた家族や友人たちにも、晴れ姿を見せてあげたい」との配慮から、シンガポールと香港で卒業式を行うことになったという。そのこまやかな心遣いにも、学生中心の教育思想が脈打っていた。
「学生のための大学」という考え方こそ、人間教育の確固たる基盤となる。
42 誓願(続)(42)
ファンファーレが鳴り響き、総長らと共に山本伸一が入場し、シドニー大学のシンガポールでの卒業式典が始まった。
同大学のクレーマー総長も、キンニヤ副総長補も女性教育者であり、なかでも総長は、さまざまな社会貢献の活動が高く評価され、オーストラリアの「人間国宝」に選ばれている。
副総長補が「推挙の辞」を読み上げ、総長から伸一に、名誉学位記が手渡された。
引き続き、学生たちへの卒業証書の授与となった。名前が呼ばれると、四十五人の卒業生が順番に総長の前に進み出て、証書を受け取る。その時、総長は一人ひとりに、温かい言葉をかけていった。
「今、どんな課題に挑戦しているの?」
「社会に、しっかり貢献していくのよ!」
「楽しみながら進むことが大切よ!」
母親が、わが子を慈しみ、励ますような、ほのぼのとした光景であった。伸一は、そこに、情愛に満ちた大きな教育の力を感じた。
謝辞に立った彼は、創価教育の父・牧口常三郎初代会長が、一九〇三年(明治三十六年)に発刊した『人生地理学』で、自らが着用していた毛織りの服の原料がオーストラリア産などであることを例に、誰人の生活も、世界の無数の人びとの苦労と密接に結びついていると論じたことを紹介した。そして、牧口が日本の軍部政府の弾圧で獄死したことを語った。
「帝国主義の吹き荒れる時代のなかで、牧口会長は、いち早く、『地球的相互依存性』への自覚を促し、そして、他のために貢献し、自他共に栄えていくという『人類共生の哲学』を訴えたのです。
さらに、人類は、『軍事』や『政治』や『経済』の次元で、他を圧しようとするハード・パワーの段階を終え、『人道』を新たな指標として、文化、精神性、人格というソフト・パワーによって、切磋琢磨していくことを強く提唱したのであります」
伸一は、二十一世紀は、人道をもとに、思いやりをもって、自他共に栄える人類共生の時代であらねばならないと展望していた。
43 誓願(続)(43)
山本伸一は、二十五日、シンガポール創価幼稚園を訪れた。幼稚園の訪問は二度目だが、タンピネスの新園舎は初めてである。
伸一と峯子に、園児の代表から花束が贈られた。彼は、「ありがとう!」と言いながら、一人ひとりの手を握っていった。喜びの声をあげる子もいれば、はにかむ子もいる。
「皆さんとお会いできて嬉しい。皆さんの作品を収めたアルバムを、昨日、見せていただきました。みんな上手でした」
子どもたちは、日本語で、かわいい合唱を披露してくれた。小さな体を左右に大きく揺らしながらの熱唱である。伸一も、一緒に手拍子を打った。
「日本語も上手だね」
皆の顔が、ほころぶ。
その光景を見ていた園長が感想を語った。
「子どもたちの表情が、瞬間で変わるのがわかりました。“自分は愛されているんだ”という満足そうな表情でした」
園内には、英語で書いた、園児のメッセージカードも張り出されていた。
「先生は世界平和をつくっています。だから、ぼくはパイロットになって、みんなをいろんな国に連れていきたいです」
「先生は、はたらきすぎです。いつもありがとう。先生の愛情にこたえるために、私もいっしょうけんめいお勉強します」
伸一は、峯子に言った。
「ありがたいね。二十一世紀が楽しみだ」
彼は、未来に懸かる希望の虹を見ていた。
伸一たちは、幼稚園に続いて、SSA(シンガポール創価学会)の本部を初訪問し、世界広布四十周年記念大会に出席した。
ここでは、「但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」との御文を拝して訴えた。
「何があっても御本尊を信じ、題目を唱え抜くことです。御本尊を、母と思い、父と思い、嬉しいことも、苦しいことも、全部、話していけばよい。心の丈を、ぶつけてゆけばよい。必ず全部、御本尊に通じていきます」
44 誓願(続)(44)
二十六日、山本伸一は、シンガポールとオーストラリアの合同最高会議に出席した。席上、シンガポールが「獅子の都」を意味することから、仏法で説く「師子」に言及した。
「仏法では、仏を『師子』と呼び、仏の説法を『師子吼』という。大聖人は、『師子』には『師弟』の意義があると説かれている。仏という師匠と共に生き抜くならば、弟子すなわち衆生もまた、師匠と同じ偉大な境涯になれるのを教えたのが法華経なんです」
一般的にも、師弟の関係は、高き精神性をもつ、人間だけがつくりえる特権といえる。芸術の世界にも、教育の世界にも、職人の技の世界にも、自らを高めゆかんとするところには、必ず師弟の世界がある。
伸一は、青年たちに力説した。
「『人生の師』をもつことは、『生き方の規範』をもつことであり、なかでも、師弟が共に、人類の幸福と平和の大理想に生き抜く姿ほど、すばらしい世界はありません。
この師弟不二の共戦こそが、広宣流布を永遠ならしめる生命線です。そして、広布の流れを、末法万年を潤す大河にするかどうかは、すべて後継の弟子によって決まります。
戸田先生は、よく言われていた。
『伸一がいれば、心配ない!』『君がいれば、安心だ!』と。私も今、師子の道を歩む皆さんがいれば、世界広布は盤石である、安心であると、強く確信しています」
さらに、彼は、「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ」と仰せのように、師子王の心とは、「勇気」であると訴えた。
「勇気は、誰でも平等にもっています。勇気は、幸福という無尽蔵の宝の扉を開くカギです。しかし、多くの人が、それを封印し、臆病、弱気、迷いの波間を漂流している。どうか皆さんは、勇気を取り出し、胸中の臆病を打ち破ってください。そこに人生を勝利する要因があります」
未来は青年のものだ。ゆえに、青年には、民衆を守り抜く師子王に育つ責任がある。
45 誓願(続)(45)
十一月二十七日夕刻、山本伸一の一行は、シンガポールから、マレーシアの首都クアラルンプール国際空港に到着した。伸一の同国訪問は、十二年ぶり二度目である。
この十二年間で、マレーシア社会も、SGM(マレーシア創価学会)も大いに発展していた。クアラルンプールには超高層ビルが増え、なかでも一九九八年(平成十年)に完成したペトロナスツインタワーは、ビルとして世界一の高さ(当時)である。
学会の会館も充実し、クアラルンプールの中心地には、地上十二階建てのSGM総合文化センターが翌二〇〇一年(平成十三年)の完成をめざし、建設が進んでいた。また、マレーシア全十三州のうち十二州に、立派な中心会館が整備されることになっていた。
二十九日には、マレーシア最大の総合大学である国立プトラ大学から伸一に名誉文学博士号が贈られ、同大学で、名誉学位特別授与式が厳粛に挙行された。
その式典は、真心と友情にあふれていた。
「推挙の辞」を朗読したのは、女性教育者のカマリア・ハジ・アブ・バカール教育学部長である。彼女は、思いの丈を表現しようと、随所に自作の詩を挟んだ。さらに、突然、マレー語から、日本語に変わった。
「先生! あなたは偉大な人です。『世界平和』という、先生の生涯の夢が、達成されますように――」
“すべてマレー語では、私の本当の思いは伝わらないのでは”と考え、日本語を覚え、最後に、直接、日本語で語ったという。
ペナン州総督のトゥン・ダト・ハムダン・ビン・シェイキ・タヒール総長から名誉学位記が手渡され、伸一の「謝辞」となった。
「真実の友情の対話は、民族・国境を超え、利害を超え、あらゆる分断の壁を超えます。
そして、多様性を尊重し、活かし合いながら、寛容と共生と創造の道を、手を携えて進んでいくことこそ、最も大切な道なのであります。なかんずく、教育が結ぶ友情こそが、平和と幸福を護る最も堅固な盾であります」
46 誓願(続)(46)
山本伸一は、プトラ大学からの名誉学位記の授与に、深い意義を感じていた。マレーシアはイスラム教が国教であり、その国の国立大学から仏法者の彼が顕彰されたのである。
それは、平和のため、人類の幸福のためという原点に立ち返るならば、宗教を超え、人間として共感、理解し合えることの証明であり、イスラムの寛容性を示すものであった。
人間と人間が分断され、いがみ合う時代にピリオドを打つために、二十一世紀は、宗教間対話、そして文明間対話がますます重要となろう。
なお、彼は、二〇〇九年(平成二十一年)にマレーシア公開大学から、そして、翌一〇年(同二十二年)には国立マラヤ大学から、名誉人文学博士号が贈られている。
伸一は、十一月三十日、マハティール首相と首相府で、二度目となる会見を行った。
「青年こそ宝」――二人は、未来に熱い思いを馳せつつ語り合った。
十二月一日、伸一は、マレーシア創価幼稚園を初訪問し、引き続きマレーシア文化会館での世界広布四十周年を記念するSGM(マレーシア創価学会)の代表者会議に出席した。
熱気に満ちた大拍手が会場に轟いた。
SGMは目を見張る発展ぶりであった。伸一の入場前、理事長の柯浩方は叫んだ。
「皆さん! 私たちは勝ちました!」
国家行事で誰もが驚嘆した五千人の人文字、独立記念日を荘厳してきた青年部のパレード・組み体操、社会貢献の模範と謳われる慈善文化祭、女性の世紀の先駆けとなった婦人部・女子部の「女性平和会議」……。
そこには、「仏法即社会」の原理に生きる信仰者の、深い使命感からの行動があった。
理事長は語っていた。
「ただただ、真心で、誠心誠意やってきたからです。瞬間、瞬間、『今しかない』と」
伸一はこの日のスピーチで、「『心の財』こそ三世永遠の宝」「幸福の宮殿は自身の中に」と訴え、また、句を贈った。
「世界一 勝利の都 マレーシア」
47 誓願(続)(47)
山本伸一の激励行は香港へ移った。これが二十世紀の世界旅の掉尾となる。
十二月四日、香港SGI総合文化センターで行われた、香港・マカオの最高協議会に出席した彼は、今回で香港訪問が二十回目となることを記念し、一句を贈った。
「二十回 香港広布に 万歳を」
そして、一九六一年(昭和三十六年)一月からの香港訪問の思い出をたどりながら、広布草創の功労者の一人である故・周志剛の奮闘を紹介した。
「周さんは、シンガポール、マレーシアなどに点在する同志の激励のために、数日に一回の割合で手紙を書き送った。手紙は、何か問題が生じれば、二日に一回となり、時には連日となることもあったといいます。
貿易会社の社長としての仕事も多忙ななか、香港広布の中心者として活動し、さらに、アジアの友に激励の手紙を書き続けることは、どれほどの労作業であったことか。しかも、その分量は、四百字詰め原稿用紙にして、五枚分、十枚分に相当することも珍しくなかった」
当時は、電話も普及しておらず、インターネットが発達しているわけでもない。身を削る思いで励ましを重ね続けたのである。
「ある地域の中心者への手紙には、『メンバーと、心から話し合える機会を多くつくることです。それができるのは家庭訪問以外にありません。これによって、同志と心やすく話し合え、密接なつながりもでき、相互の信頼も増すのです。これは、言うは易いが、実行は大変なことです』とあります」
人体も血が通わなければ機能しなくなる。組織も同じであろう。学会の組織に信心の血を、人間の真心を通わせるのは、家庭訪問、個人指導である。それがあるからこそ、創価学会は人間主義の組織として発展し続けてきた。一人ひとりを心から大切にし、親身になって、地道な対話と激励を重ねていく――それこそが、未来永遠に、個人も、組織も、新しい飛躍を遂げていく要諦にほかならない。
48 誓願(続)(48)
香港・マカオの最高協議会で山本伸一は、香港の輝ける歴史に言及していった。
「大聖人の未来記である仏法西還への歩みは、この香港から始まった。そして、一九七四年(昭和四十九年)五月から六月の、日中友好の『金の橋』を架ける初の中国訪問も、ここ香港から出発し、ここ香港に帰ってきました。
また、世界七十三大学(当時)と学術教育交流を広げる創価大学の『第一号の交流校』となったのは、香港中文大学です。さらに海外初の創価幼稚園の開園(九二年)も香港でした」
そして、香港・マカオのメンバーは、「二十一世紀もまた、その尊き大使命に生き抜いていっていただきたい」と、力強く励ました。
折しも、この年の二月、インドの創価菩提樹園に待望の講堂が完成し、前月の十一月二十六日、創価学会創立七十周年を祝賀する、インド創価学会の総会が創価菩提樹園で盛大に開催されたばかりであった。月氏の国インドで、日蓮大聖人の太陽の仏法がいよいよ赫々と輝き、社会を照らし始めたのだ。伸一は、二十一世紀の壮大な東洋広布、世界広布の道が、洋々と開かれていることを実感していた。
五日夜、伸一と峯子は、香港の陳方安生政務長官官邸での晩餐会に招かれた。
長官は、一九九三年(平成五年)、総督に次ぐ立場である香港行政長官に、女性として初めて就任し、九七年(同九年)の中国返還以降は、行政長官に次ぐ政務長官として活躍していた。
また、長官の母は現代中国画の巨匠・方召画伯であり、ちょうど、この時、東京富士美術館では、創立者の伸一の提案による「方召の世界」展が開催中で、好評を博していた。伸一は、九六年(同八年)に香港大学で、この母娘二人と共に名誉学位を受け、その後、交流を重ねてきたのである。
伸一たちは、方家の家族らの歓迎を受け、香港、そして中国の未来の繁栄を念願して意見交換した。眼下に広がる“百万ドルの夜景”が美しかった。
49 誓願(続)(49)
十二月七日、山本伸一は、香港中文大学からの学位授与式に臨み、同大学で日本人初となる名誉社会科学博士号を受けた。彼は、一九九二年(平成四年)には同校の「最高客員教授」となっており、その時、「中国的人間主義の伝統」と題して講演も行っている。
八日、伸一は帰国の途に就いた。香港から向かったのは、常勝の都・関西であった。彼が会長に就任して、真っ先に訪れたのが大阪である。二十世紀の地方指導の最後も大阪で締めくくり、一緒に二十一世紀への新しい扉を開きたかったのだ。皆、伸一と苦楽を共にし、不屈の魂を分かち合う同志である。
常勝の友の顔は、生き生きと輝いていた。
十日、伸一は関西代表者会議に出席した。
いよいよ「女性の世紀」であり、「関西が、その模範に!」と期待を寄せ、「壮年部は男子部と一体になり、婦人部は女子部と一体になって、青年を守り、愛し、励まし、育てていっていただきたい」と呼びかけた。
十四日には、二十一世紀への旅立ちとなる本部幹部会が、関西代表幹部会、関西女性総会の意義を込めて、大阪・豊中市の関西戸田記念講堂で開催された。
「明二〇〇一年(同十三年)から、二〇五〇年へ、いよいよ『第二の七つの鐘』がスタートします!」
伸一は、新しい「七つの鐘」の構想に言及し、民衆のスクラムで、二十一世紀を断じて「人道と平和の世紀」にと呼びかけた。
また、世界で、女性リーダーの活躍が目覚ましいことを紹介した。
「今、時代は、音をたてて変わっている。社会でも、団体でも、これからは女性を尊重し、女性を大切にしたところが栄えていく。
大聖人は『女子は門をひらく』と仰せです。広宣流布の永遠の前進にあって、『福徳の門』を開き、『希望の門』を開き、『常勝の門』を開くのは、女性です。なかんずく女子部です」
麗しき婦女一体の対話の拡大、励ましの拡大は、二十一世紀の新たな力となった。
50 誓願(続)(50)
二〇〇一年(平成十三年)「新世紀 完勝の年」が晴れやかに明けた。「希望の二十一世紀」の、そして、「第三の千年」の門出である。山本伸一は「聖教新聞」の新年号に和歌を寄せた。
「新世紀 新たな舞台は 世界かな
胸の炎の 決意も新たに」
一月二日、彼は、七十三歳の誕生日を迎えた。伸一が七十代のテーマとしていたのは、「世界広布の基盤完成」であった。
五月三日、アメリカ創価大学オレンジ郡キャンパスが、待望の開学式を迎えた。人類の平和を担う、新しき世界市民を育む学舎が誕生したのだ。学長に就任したのは、創価高校・創価大学一期生の矢吹好成であった。
伸一は、万感の思いをメッセージに託し、「『文化主義』の地域の指導者育成」「『人間主義』の社会の指導者育成」「『平和主義』の世界の指導者育成」「自然と人間の共生の指導者育成」を「指針」として示した。
九月十一日のことであった。アメリカで、四機の旅客機がハイジャックされ、そのうちの二機はニューヨークの世界貿易センタービルに、別の一機は国防総省に突っ込むという事件が起こった。「アメリカ同時多発テロ事件」である。
死亡者は約三千人、負傷者も六千人を超える悲惨な事態となった。アメリカ政府は、イスラム過激派の犯行と断定し、「テロとの戦い」を宣言。首謀者らが潜伏していると見られるアフガニスタンへの軍事攻撃を開始した。また、その後、ヨーロッパなどで、自爆テロが頻発していくことになる。
どのような大義を掲げようと人びとの命を奪うテロは、絶対に許されるものではない。
このテロ事件では、アメリカSGIも直ちに緊急対策本部を設置し、救援活動の応援、義援金の寄託など、できうる限りのことを行った。また、宗教間対話にも積極的に取り組んでいった。平和、戦争反対、暴力をなくす――これは教義を超えた人間の共通の道であり、宗教は、本来、そのためにこそあるのだ。
51 誓願(続)(51)
山本伸一は、同時多発テロ事件後、各国の識者との会見でも、また日本の新聞各社のインタビューなどでも、今こそ、平和と対話への大世論を起こすべきであると強調した。
翌年の1・26「SGIの日」記念提言でも、「文明間対話」が二十一世紀の人類の要石となると述べるとともに、国連を中心としたテロ対策の体制づくりをと訴えた。また、テロをなくす方策として、「人間の安全保障」の観点から、人権、貧困、軍縮の問題解決へ、世界が一致して取り組む必要性を提起した。
彼は、世界の同志が草の根のスクラムを組み、新しい平和の大潮流を起こす時がきていることを感じていた。もとより、平和の道は“険路”である。恒久平和は、人類の悲願にして、未だ果たし得ていない至難のテーマである。なればこそ、創価学会が出現したのだ! なればこそ、人間革命を可能にする仏法があるのだ! 対話をもって、友情と信義の民衆の大連帯を築くのだ!
また、人類の平和を創造しゆく道は、長期的、抜本的な対策としては正しい価値観、正しい生命観を教える教育以外にない。めざすべきは「生命尊厳の世紀」であり、「人間教育の世紀」である。
二〇〇一年(平成十三年)十一月十二日、11・18「創価学会創立記念日」を祝賀する本部幹部会が、東京戸田記念講堂で晴れやかに開催された。新世紀第一回の関西総会・北海道栄光総会、男子部・女子部結成五十周年記念幹部会の意義を込めての集いであった。
伸一は、スピーチのなかで、皆の労を心からねぎらい、「『断じて負けまいと一念を定め、雄々しく進め!』『人生、何があろうと“信心”で進め!』――これが仏法者の魂です」と力説した。そして、青年たちに、後継のバトンを託す思いで語った。
「広宣流布の前進にあっても、“本物の弟子”がいるかどうかが問題なんです!」
広宣流布という大偉業は、一代で成し遂げることはできない。師から弟子へ、そのまた弟子へと続く継承があってこそ成就される。
52 誓願(続)(52)
山本伸一の厳とした声が響いた。
「私は、戸田先生が『水滸会』の会合の折、こう言われたことが忘れられない。
『中核の青年がいれば、いな、一人の本物の弟子がいれば、広宣流布は断じてできる』
その『一人』とは誰であったか。誰が戸田先生の教えのごとく、命がけで世界にこの仏法を弘めてきたか――私は“その一人こそ、自分であった”との誇りと自負をもっています。
どうか、青年部の諸君は、峻厳なる『創価の三代の師弟の魂』を、断じて受け継いでいってもらいたい。その人こそ、『最終の勝利者』です。また、それこそが、創価学会が二十一世紀を勝ち抜いていく『根本の道』であり、広宣流布の大誓願を果たす道であり、世界平和創造の大道なんです。
頼んだよ! 男子部、女子部、学生部! そして、世界中の青年の皆さん!」
「はい!」という、若々しい声が講堂にこだました。
会場の後方には、初代会長・牧口常三郎と第二代会長・戸田城聖の肖像画が掲げられていた。二人が、微笑み、頷き、慈眼の光で包みながら、青年たちを、そして、同志を見守ってくれているように、伸一には思えた。
彼は、胸の中で、青年たちに語りかけた。
“さあ、共に出発しよう! 命ある限り戦おう! 第二の「七つの鐘」を高らかに打ち鳴らしながら、威風堂々と進むのだ”
彼の眼に、「第三の千年」の旭日を浴びて、澎湃と、世界の大空へ飛翔しゆく、創価の凜々しき若鷲たちの勇姿が広がった。
それは、広宣流布の大誓願に生き抜く、地涌の菩薩の大陣列であった。
(小説『新・人間革命』全三十巻完結)
二〇一八年(平成三十年)八月六日
長野研修道場にて脱稿
創価の先師・牧口常三郎先生、
恩師・戸田城聖先生、
そして、尊き仏使にして「宝友」たる全世界のわが同志に捧ぐ