Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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1 「性善説」「性悪説」
「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)
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荀子の「性悪説」
季
一方、中国の先秦時代に「性悪説」を主張したのは、儒家の別の一派の代表人物である荀子(荀況)です。
彼は儒家に属していましたが、孟子の「性善説」に強く反対しました。
「人間の生まれつきは悪いもので、人間の善というのは偽、つまり思慮や練習努力の集積の結果である」(木全徳雄『荀子』明徳出版社)と述べています。
この「偽」という字の意味は、現在、われわれが理解している「真偽の偽」とは少し違っていて、「人為」的なものという意味があります。「にせ」という意味ではありません。
人間の生理的な素質は生まれながらのものであり、礼義道徳は人為的なものです。その人為的なものを「偽」と呼んでいるのです。
生まれながらのもの(本性)は、人間が手を加える基礎となるもので、この基礎がなければ、人為的な活動は「加うるところがなく」なってしまう。一方、生まれながらのものは、人為的に手を加えて初めて「美」を表していけるのだということです。
また荀子は言います
「孟子は『人が学問をするのはその本性が善であるからである』というが、とれは全く誤っている。
このような説は、人間の本性を十分に理解し尽くしておらず、人間の本性と人為との区別を明確に察知していない者の説である。
すべて本性は自然によって成るものであり、人為的後天的な学習や努力によって得られるものではない」(藤井専英『荀子』下、前掲『新釈漢文体系』6)
この意味は、人間の本性は生まれながらのものであり、学ばなくてもそなわるものである。しかし、礼義等は聖人がつくったものであるから、生まれつきそなわっているわけではない、ということです。
荀子の言う「悪」とは、人間の生理的な本質や生活欲求をさしていて、現在、われわれが言う「本能」と少し似ております。
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「本能」と「善悪」
池田
おっしゃるとおり、荀子の言う「悪」とは、キリスト教の「原罪」のようなものではなく、「本能」という言葉に、むしろ近いと思います。
だからこそ彼は、生まれつきの天性という先天的なものよりも、人為の学による陶冶という後天的なものを重視したのではないでしょうか。
荀子の政治論も、孔子、孟子に比べて、「徳」よりも「礼」を重んじた礼治主義ですね。
季
荀子は、「本能」を「悪」と呼んでいます。しかし、これは明らかに誤りです。
人間は”万物の霊長”であるけれども、やはり動物の一種です。一般の人々の観察や学者の研究によると、動物や植物を含む生物には、皆、本能があります。
この本能についてくわしく述べると、たいへん複雑なことになりますが、きわめて単純に言いますと、動物の本能には三つしかありません。
すなわち「生存すること」「衣食足ること」「発展すること」です。
ここで「発展」とは、自分自身の発展と死後の発展を含んでおります。死後の発展とは、諺にある「代々、血統を継ぐ」ということです。
告子が述べている「食と色とは性なり」の「食」はこの「三つの本能」の、どれにもかかわってきます。「色」は、「代々、血統を継ぐ」にかかわります。
本能とは、生理的な概念であり、善悪は倫理的な概念です。この二者を混同することはできないし、しでもなりません。本能としての「本性」は、いわゆる善や悪というものではありません。ゆえに、性善説や性悪説は成立しないのです。
ここで、人間の本性に対する私の考え方を述べておきますが、基本的には告子と似ております。しかし、彼と異なるところも少なくありません。
「善悪とは何か」という考え方において、根本的な違いがあります。先に述べた「生存すること」「衣食足ること」「発展すること」という人間の本能は、どこから来るのでしょうか。
いずれの宗教にも、それぞれの説があり、ある者は「神から授かった」と言い、ある者は「大梵天からもたらされた」と言い、ある者は、中国の文化人が「造化小児」と呼ぶ天老爺から来たものと言っております。
仏教者は、「無我」「五陰」「因縁和合」と説き、今、述べた諸説とは異なっております。それが、仏教の高名なところでもあります。
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