Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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3 苦節のドイツ留学時代
「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)
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戦争の惨状
季
ええ。この時期、すでに戦争の情勢は大きく変わってきました。ドイツのファシストは勝利から敗北に転じ、ただ相手の攻撃を食い止めるだけで、すでに反撃の力はなくなっていました。
イギリスの飛行機がドイツを爆撃する爆弾の威力はしだいに強まり、ビルを徹底的に破壊するまでになりました。ときには、貫通させたあと、地下から地上に向かって爆発するようにもなったのです。
この爆撃の規模は日増しに拡大し、アメリカが昼間爆撃したかと思えば、イギリスが夜爆撃しました。イギリスは、「絨毯爆撃」方式、つまり、絨毯を敷くように、一点の隙間も残さず爆撃するというやり方でした。
あるとき、私は郊外の林の中へ行き、空襲から避難しました。草地に伏して、アメリカやイギリスの飛行機が隊を編成して飛んで行くのを仰ぎ見ました。飛行音は地を揺るがし、黒い影は天を覆い、一回伏すと一時間ほど動けませんでした。
私は当然、祖国に帰りたいと思いました。日本軍国主義の野獣の類が、私の故郷で残虐のかぎりを尽くし、火の手をまき散らしている。しかし、祖国は幾山河の彼方、雲と天の果てにあり、私はなすすべもない状態にありました。
私は、ときには、ふたたび生きて最愛の祖国を見ることはできないのではないかと思い、すっかり希望を失ってしまいました。家族とも連絡が途絶えました。私は「峰火三月に連る 家書万金に抵す」(「春望」『杜詩』2〈鈴木虎雄訳注〉所収、岩波文庫)ーー戦乱ののろし火は三カ月を経てもまだやまず、家族からの手紙は、万金にも値するように思われるーーという杜甫の詩を思い出していました。
池田
胸が痛むお話です。あまりにも申しわけないことに、日本は先生の大切な祖国を侵略し、償いようのない大罪を犯しました。私は日本人の一人として、心から深くおわび申し上げます。
季
日本の侵略戦争は中国とアジアのいくつかの国々、さらには日本本国の人民にまで甚大な災難をもたらしました。そして、現在も、日本の国内ではまだ一握りの軍国主義者が侵略という犯罪の事実を否認し、愚かな行動をとっています。
池田先生がこのととに対し、「深いおわび」を表明されていることからも、先生が、道徳があり、良識があり、先見の明があり、博識があり、真実に立ち向かう方であることがわかります。このことに私は敬意を表します。
池田
寛大なお言葉に感謝いたします。
私が子どものころ、四人の兄が出征しました。あるとき、中国へ送られた長兄が一度帰ってきて、こう言ったのです。
「日本は、ひどいよ。あれでは中国の人たちが、あまりにも、かわいそうだ」
その長兄もビルマ(現・ミャンマー)で戦死してしまいました。
”日本は、絶対に中国に対して償わなければならない”。これは、言わば兄の遺言です。
私は空襲で家を焼かれ、兄を失い、病弱な体を酷使し、戦争の残酷さを五体に刻み込みました。
終戦後、軍国主義と戦い牢に入った戸田城聖先生と出会い、創価学会に入りました。私は戦争の悲惨を断じて繰り返してはならないとの決意から、ささやかな行動ですが、日中の国交正常化に取り組み、民間人の立場で平和への対話を重ねてまいりました。
私の胸の底には、長兄の戦死の報を受けたときの母の背中があります。知らせを受けるや、母は黙って、くるりと背中を向けました。無言でした。その肩が、その背中が小刻みに震えていました。
ところで、ヨーロッパの戦況が終息へと向かっていった当時のようすをうかがいたいのですが。
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戦争の傷跡
季
ファシストによる体制が崩壊したあと、ドイツは廃撞となりました。私は、当時のハノーヴァーへ一度行ったことがあります。この百万の人口(=近郊の人口をのぞけば五十万人)を擁する大都市は、建物の骨組みだけが残り、ほとんど住民を見ることはありませんでした。
大通りの両側は破壊されたビルだらけで、外壁が少し残っているばかりでした。外壁にそった地下室の窓のそばには、どこも死者に手向ける花束が並べられていました。地下室に埋められた人は数千、数万にのぼるということでした。爆撃直後は、まだ助けを求める声が聞こえていました。
しかし、地下室を掘って彼らを救う方法はありませんでした。その声は日増しに衰えていき、ついには地下室の中で、無言で死んでいったのです。
戦争が終わっても、地下室を掘って死体を運び出すことは、まだできませんでした。家族の墓参りといっても、窓の外に花束を供えるしかなかったのです。この光景は、身の毛もよだつほど、恐ろしいものでした。
池田
戦争ほど、残酷なものはありません。戦争ほど、悲惨なものはありません。
幾百、幾千万の人々が虫けらのように殺されていく。戦争は、あまりに愚劣な、あまりに残忍な破壊行為です。その泥と炎の中で苦しみ、うめき、嘆くのは、いつも罪のない民衆なのです。
季先生はヨーロッパの戦場の硝煙がまだ消えきっていない一九四五年の秋、十年間過ごしたゲッテインゲン大学を離れ、スイスに半年間滞在したのち、フランス、ベトナム、香港を経由して、一九四六年夏、十一年ぶりに祖国に帰ってこられました。
ナチス政権下で、有色人種の留学生として、しかも戦時下で生き延びるだけでも大変ななか、世界最高レベルの学問研究をされたことは、奇跡にひとしいことではなかったでしょうか。
帰国の途中も、一緒に出発した船は、三艘のうち二艘が潜水艦に撃沈されるなど、危険と困難に満ちたものだったと、聞きました。留学前から、奥さまはじっと先生の帰国を待っておられました。帰国後、感動的な再会を果たされたとうかがっております。
季
ええ、そうです。私の長い流浪の生活はここで終止符が打たれたのです。
池田
一九四六年秋、先生は要請を受け、北京大学において教授兼東方言語文学学部学部長になられます。しかし、帰国の当初は、研究に専念できるような状況ではなかった……。
季
はい。仏教混淆サンスクリットの研究については、帰国してからというものは、必要な専門書が不足しているだけでなく、必要な雑誌も之しく、徒手空拳で何もない状態でした。
私は仏教混淆サンスクリットについて、まだ深い興味をもっており、研究への意気込みがまだ盛んでしたが、やむなくぺンをおくよりほかにはありませんでした。この分野の研究作業は、どのみち進めようがなかったのです。
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