Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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1 国民性のちがいを超えて  

「人間と文化の虹の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)

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2  文化と語学を学ぶ重要性
 池田 同感です。
 そこで、ここからは、韓日相互の理解を一段と深めていく上で、両国の国民性のちがいについて語り合いたいと思います。
 博士は、二十五年ほど前、日本で研究生活を送られた経験をお持ちですが、最初に、韓国との大きな習慣のちがいを感じられたのは、どんなことでしたか。
  まず驚いたのは、日本では、たとえ立場が上の方でも、その人より客人を優先することでしょう。
 一九八〇年、日本に初めて行った時、東京大学名誉教授の田中二郎先生のお宅に、おじやましたことがありました。
 ご存じのように、田中先生は最高裁の判事を務められるなど、大変に高名な学者でした。
 その時、田中先生はずっと立たれたままで、なかなか座ろうとされないのです。
 どうすればよいか分からず、私もずっと立っていました。そうこうしているうちに、「どうぞ、座りください」と言われて、同時に座ったことを、よく覚えています。
 あとで、お客さんより先に座らないことが、日本の礼儀だと聞きました。
 韓国では、目上の人が座ってから、ほかの人が後に続きます。食事の時、スプーンを取って食べる順序も同様です。
 池田 私も、世界の国々を訪れるなかで、習慣のちがいを実感することが多々あります。
 私が初めてポルトガルを訪問した時のことです(一九六五年十月)。
 お客様に、日本の心をお伝えしたいと考え、代表的な花である菊を差し上げようと思ったととろ、菊はいけないと教えられたのです。ポルトガルでは、菊は葬儀に用いる花で、悲しみや寂しさを表していると聞き、驚きました。
 日本で菊は、桜とともに国花とされています。
 また、お隣の中国では、古来、不老長寿の薬効があると言い伝えられ、高潔な花の象徴である「四君子」(竹・梅・菊・蘭)の一つにも、数えられています。
  花一つとってみても、国によって、どうとらえられているか、知っていると知らないとでは、大違いですね。
 池田 ええ。それぞれの国の文化のちがいを実感した出来事でした。
 「言葉」にしても、そうだと思います。
 先日(二〇〇四年三月)、創価学園の卒業式に、来賓として出席されたアメリカのデンバー大学のナンダ副学長が、こんな話をしてくださいました。
 「私の『ナンダ』という名字は、日本語では少し、おもしろく聞こえるかもしれません。
 しかし、サンスクリット(古代インドの言語)では、この『ナンダ』という言葉には、特別の意味があるのです。
 このように、耳で聞いた時には同じ言葉であっても、他の言語に訳されると、ちがった意味を持ちます。だからこそ、私たちは教育を受けなければなりません。また、さまざまな語学を学ぶ必要があるのです」と。
 私も、学園生や創大生に、語学の重要性を繰り返し呼びかけてきただけに共感できるお話でした。
  私も、日本語をしっかり学ぼうと思ったのも、先ほどお話しした、田中先生のお宅での出来事があったからでした。それをきっかけに、日本語や日本文化を懸命に勉強したのです。
 朝は一番早く研究室に行き、夜の門限時間まで、いつも勉強していました。日曜日は大学が休みだったので、一日中、日本のテレビを見ながら、日本語を勉強したものでした。
3  自己主張が強い韓国人気質の背景
 池田 趙博士が無類の努力家であられることが、よく分かります。
 その他に、実際に日本で生活されてみて、印象に残ったのはどんな点でしょうか。
  そうですね。日本人は、とても人情的で、穏和と正直さを最も重視し、人間関係においては、他人に親切であると思います。
 その反面、「本音と建前」という文化が存在するように思いました。あと、日本の人たちは、自分の意見や信念を主張することを、「はしたないこと」として避ける傾向が強いように思われました。
 相手と自分の考えを突き合わせて論争し、その上で納得して結論を出すのではなく、ある程度、自分を抑えて、全体を調和させているように見えます。
 たとえば、私が出席した学術的な討論会で、こんな光景を、よく目にしたものです。
 質疑応答の時聞になって、発表者が質問を受けても、「勉強不足」や「調査不足」を理由に、すぐに答えを打ちきってしまい、わずか一、二の質疑応答で終わったことが何度かありました。
 韓国での討論会では、質疑応答となれば、それぞれが自己主張を繰り返し、時には口げんかになってしまうことも少なくありません。(笑い)
 ですから、国がちがえば、ずいぶんちがうものだなと感じたことを覚えています。
 池田 いや、日本でも口げんかは多々、あります。(笑い)
 ただ一方で、正邪や善悪をあいまいにしがちなことは事実です。そこが、日本人の「付和雷同」的な生き方にもつながっている。戦前の軍国主義化を止められなかった一因にもなったと思われます。
 そうした時代にあって、平和の信念を毅然と訴え続けたのが、創価学会の牧口初代会長であり、戸田第二代会長でした。そのため、権力の弾圧を受け、手のひらを返したように去っていった友人もいました。
  良心の主張は、最初は理解されず、それどころか冷遇され、迫害にすら遭うことは、歴史のつねですね。
 しかし、わが国の大教育者である安昌浩先生は、「私一人の健全な人格を築くことが、我が民族を健全にする」と厳然と言われました。
 牧口会長のような人格の方を大事にしてこそ、健全な社会が築かれていくと思います。
 池田 温かいお言葉に感謝します。
 しかし、牧口会長は述懐しています。
 正義を語り続けたがゆえに、逆に、多くのすばらしい出会いに恵まれ、「意外なる人格者に親近の機会」を得ることができ、「新しい親友は百名にも上った」と。
  心から賛同します。
 日本と比べると、韓国人は一般に自己主張が強いとよく言われます。私は、これには歴史的な背景があると考えています。
 もちろん韓国社会でも、儒教の「忠孝思想」を大切にしてきた伝統があり、家族や親族間であっても、自分の位置に見合った言動が、血縁関係の秩序を保つ秘訣とされてきました。
 しかしその一方で、韓半島では、朝鮮国(李朝)の時代から現代にいたるまで、長らく動乱が続きました。そのために、自分のことは自分で守らなければならないという生き方が、韓国の人々に身に付いてきたのです。
 たえず自分を強く出していかないと、生き残ることができない。それで誰もが精一杯、自己主張するようになり、韓国人の気質をつくりあげてきたのではないかと、思うのです。
 池田 外交においても、交流においても、その国の歴史を知ることが、互いを知る上でいかに大切か。
 文化や伝統の背景を知った上で、相手の心を汲み取っていく努力が大切ですね。
  日本人から見れば、きっと韓国人の自己主張の強さに対し、なじめないこともあると思います。
 また、外見は自分たちとよく似ているのに、中身はまるで西洋人のようで、かえって生意気に映る時もあるかもしれません。
 そんな両者が、合理的な結論を出したいと思っても、日本人的傾向が強く出れば、合理性の追求に徹することができない。なんとなく不満が残る中途半端な内容で妥協せざるを得ません。
 また、韓国人的な傾向が強く出れば、合理的な結論どころか、口げんかになり、物別れに終わる可能性があります。
4  「心の交流」には「開かれた心」が必要
 池田 これまでも博士と語り合った、江戸時代の雨森芳洲は、朝鮮通信使の応対に尽くし、貴国を敬愛していました。
 芳洲は、一つのエピソードを紹介しています。
 「ある席で日本人が朝鮮の訳官に、朝鮮の国王は庭に何を植えるかとたずねたところ、麦を植えていると答えた。それに対して『さてさて下国に候』と笑ったものがいた。(中略)
 これは国王みずから農耕のことを忘れないということで古来美徳とするところなので、きっと日本人も感心するだろうと思って麦を植えると答えたのに、日本人からあざけりを受けてしまった例である」(上垣外憲一『雨森芳洲』中公新書)と。
  朝鮮国時代には、王室のそばに、麦だけでなく、絹を生産するために、桑の木も植えて育てたということもありました。
 そうしたことを通じて、王は、民衆の食糧事情をつねに考えようとしていたわけです。
 池田 重要なお話です。大切なことは、人間と人間、国家と国家も、「心の言葉」「心の交流」にて、建設的な関係を築くことではないでしょうか。
 かつて、平和学者のテヘラニアン博士(ハワイ大学教授)と対談した際、十三世紀のぺルシャで”文明を結ぶ詩人”として活躍したルーミーの言葉を紹介されていたことを思い出します。
 「多くのインド人がいても、(言葉は通じるが、心が通じないのでは)たがいに他人同士である。多くのインド人とトルコ人がいても、(言葉は通じなくとも心が通じれば)たがいに分かりあうことができる”舌の言葉”よりも”心の言葉”である」(『二十一世紀への選択』。本全集第108巻収録)
  「心の交流」には、互いに「開かれた心」が欠かせません。
 少し次元は異なりますが、私が総長時代、多くの学生や教職員が手にする大学新聞や、インターネットで、大学にさまざまな意見を反映しようと呼びかけたことがあります。
 また、朝は八時から九時を教授との自由な対話時間にし、午後は六時から八時を学生との自由な対話時間に決めて、毎日のように”店”を開いて待っていましたが、私という”商品”の品質がよくないせいか、残念ながらほとんど開店休業でした。(笑い)
 当然、大学への感情的な悪意の非難など論外ですが、建設的な指摘には耳を傾けよう。それによって大学が改善され、発展するととが、何よりも大切なことであるーーそれが私の思いでした。
 池田 博士の大学を愛する心が伝わってきます。
 モスクワ大学のサドーヴニチィ総長は、本当によい人材の出る学校とは、「『建物』としての学校ではなく、『教える人の人格』の周りにできる学校なのです」と述べておられました。
 ここに人間教育の実像があります。その模範こそ趙博士です。
 先ほど、趙博士は、韓日の間で進んでいる子どもたちの交流について言及されましたが、ご家庭の教育で何か心がけてきたことはありますか。
  これは個人的なことですが、わが家の家訓は、「正直」と「誠実」で、このことを私は、子どもたちにつねに言い聞かせてきました。
 何よりも「正直」ということが大切です。「正直」は信用される第一条件であり、最後の条件であると思います。
 また、「誠実」な生活や姿勢が、周囲との人間関係において力になっていくと私は思います。
 自分自身で勝手に決めつける姿勢は、「誠実」とは程遠いものです。相手をよく理解し、心から尽くしていこうと誠実に考えて、それを誠実に行動していけるかが大事です。
5  「真っ白な立場」に戻って道を開く
 池田 やはり、「聞かれた心」を育む第一歩は家庭教育ですね。
 引き続き、おうかがいしたいのですが、貴国では、正月やお盆に、民族衣装を着る伝統が残っています。
 貴国は古来、「白衣の国」と呼ばれますが、「白衣」の由来は何でしょうか。
  白衣は、朝鮮国の時代に、庶民階層を中心に着るようになったと思います。
 物質的・科学的観点から見れば、白衣はすぐ汚れが目立つので、あまりよくないかもしれません。
 しかし、精神的観点から見れば、色のない、真っ白な立場に戻って自分自身を反省するために、白衣を重んじるのはよいことでしょう。
 同様のことが人間教育についても言えます。
 社会環境も自然環境も汚れてしまった人間に、新しい教育を進めるのに、漸進主義ではだめです。
 「ゼロ・ベース」ーーつまり、真っ白な立場から再考すべきなのです。
 私の博士論文は「予算政策」についてでしたが、予算の場合は、配分の硬直化を防ぐために「ゼロ・ベース」から出発することが、いっそう大事になってきます。
 池田 大切なお話です。今こそ、政治も経済も、教育も、「人間の幸福のため」という原点に立ち返って、すべてを見つめ直すべきです。
 七年前(一九九七年)、貴国の私立の名門である慶熙大学の創立者・趙永植チョヨンシク博士とお会いした際、ご自身の人生の教訓としてきた、父君の言葉を紹介してくださいました。
 「どうして失敗したのか? どうしたら失敗しないのか?ーーこれを考えながら進むことが大切なんだ。私も二度の失敗をしたが、考え続けたから、最後に成功したんだ。
 同じ失敗でも、考えて失敗するのと、本能的に行動して失敗するのでは、次の結果がちがう。何回も何回も熟考し、忍耐強く考えることが、人生において大切なんだよ」と。
  味わい深い言葉ですね。
 失敗や過ちから謙虚に学んでいってこそ、新しい道が開けてくるものです。
 過去の歴史も、現在と未来のために生かしてこそ意味があります。
 私は比較研究が専門ですが、もし、もう一度、日本で学ぶ機会があれば、貧しい国や人々のために、日本と韓国、そして中国がどう貢献していくべきなのか、そういうことを研究してみたいと思っています。
 池田 気高いお志です。
6  思師の姿を胸に韓日の友好を
  今まで人類社会を支配したのは「武力」でした。二十一世紀は、「慈愛」と「人情」をもって、感動を与えることによって、リードしていかねばなりません。
 そして、お互いの人間的向上のために、真心からの交流を重ねていくべきです。
 そのために、池田先生と創価学会の皆さんの哲学と行動が果たす役割は大きいと思います。
 池田先生は、日本だけでなく、アメリカや香港、シンガポール、マレーシア等に教育機関を設立されましたが、これからも世界中に平和教育の哲学を広げてください。
 そして平和教育に貢献した人々を讃え、宣揚していただきたい。そのためなら、私も、どこへでも飛んでいきたい気持ちです。
 池田 あまりにも寛大なお言葉です。
 世界から「悲惨」の二字をなくしたいーーが、戸田第二代会長の熱願でした。
 戸田先生は、朝鮮戦争をはじめとする、韓半島の民衆の苦悩に胸を痛めておりました。そしてアジアと人類の安穏のために立ち上がり、民衆運動の指揮を執ったのです。
 一九五一年の五月三日、第二代会長就任の式典でのことです。恩師は、貴国の一人の婦人を演壇に招き、抱きかかえるように励ましました。その姿は、私の険に焼き付き、今もって離れません。
 恩師が、「地球民族主義」というビジョンを掲げたのも、このころでした。
 世間は空論と笑いました。
 しかし、戸田先生は、「どの国の民衆も、絶対に犠牲になってはならない。世界の民衆が、ともに喜び、繁栄していかねばならない」と訴え続けました。
 韓日友好を願う私の胸にはいつも、この師の姿があります。
 そして、これからも、この恩師との誓いを果たしゆく人生でありたいと思っています。

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