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日蓮大聖人・池田大作

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3 忍耐と愛情で築いた”平和島”  

「希望の世紀へ 宝の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)

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2  「海」で結ばれたネットワーク
 池田 当時、「海を越えた」先は、「異国」であるというより、等しく同じ人間が暮らす「隣村」だったのかもしれませんね。
 現代人が見失っている、うらやましいほどに「近隣への情」にあふれた世界観です。
 実に海は、民族同士を「隔てるもの」ではなく、「結ぶもの」だったのです。
 最近、「陸地」中心ではなく、「海」あるいは「島」を中心に、歴史や国際関係を問い直そうとする試みも、活発に行なわれています。
  言い換えれば、「権力同士の対決で決められた境界」ではなく「人間同士で結ばれたネットワーク」のなかに、真実の民衆交流史があるということですね。
 池田 そのとおりです。
 先ほど語り合った「開国神話」が成立した頃の庶民感覚は、私たちが想像する以上に、国家から「自由」であったのではないかと思われます。そもそも、民衆次元では、「国家」に縛られるという概念があったこと自体、考えにくい。
 日本の歌人たちと同様、済州島の人にとっても、「海の向こう」は等しく、「お隣」であったのではないかと想像します。
  そうですね。とくに、沖縄などと同じく、「小さな島」は「平和思想」が受け入れやすい土壌なのかもしれません。
 池田 そういえば、沖縄にも、幸せや恵みは、海の向こうからやって来るという思想がありました。
 「お隣」という感覚があって、「日本」は確かに、済州島の民間伝承の中に伝えられていきました。その麗しい祖先同士の「海の民衆交流史」に、感謝を込めて思いを馳せていきたいと思うのです。
 学問としての歴史検証は、もちろん大事です。それとともに、人間同士の「ぬくもり」や「信頼」などに光を当てていくことも、大切になっているのではないでしょうか。
  まったく、そのとおりだと思います
 済州島民の由来を、あくまで実証主義的に追うのならば、高句麗系民族の移住による「外来説」が、やや有力かもしれません。しかし、それとて、決定的な説とは言えない状況です。
3  モンゴルの征服に抵抗した「最後の砦」
 池田 「開国神話」に続いて、済州島の人びとの成り立ちについて考慮すべき事相は、「渡来してきた人々」および「配流されてきた人びと」の影響でしたね。
  ええ。とくに、渡来してきた人びとによる影響が、大きいと言えます。
 古代における「渡来」は、済州島民の由来に関係するものです。これについては、これまでに述べてきたとおりで、はっきりとした記録がありません。
 一方、生活や文化に影響を及ぼし、済州島民の成り立ちの要因となった他民族の「渡来」として、記録上、最も大規模なものは、やはりモンゴル民族による征服ということになるでしょう。
 池田 高麗人の抵抗勢力「三別抄」が全滅した(一二七三年)あと、「最後の砦」となった済州島は、その後およそ一世紀にわたり、モンゴル民族に征服されたのでしたね。
  ええ。もともとモンゴル帝国は、高麗を懐に取り込んでしまってからは、済州島を南宋と日本を征服するための戦略的基地にしようと考えていたようです。
 一二六〇年代後半から、済州島に何度も人を送り、海路などを調べたり、済州島で軍船百隻を建造する準備を進めたりしました。そして一二七一年、国号を元(大元)に改めると、ますますその戦略を推し進めました。
 一方、三別抄は、最後まで降伏せずにモンゴル軍と戦い続け、自分たちと同じ民族である高麗軍とも戦って、済州島を守り続けました。
 しかし、その抵抗も長くは続かず、三別抄の中心人物であった金通精とその部下七十人は、山中で悲しい最期を迎えてしまいました。
 その地では、一九七六年に三別抄の最後の砦を復元し、「抗蒙遺跡地」と呼ばれて記念碑が建てられ、「地方記念物」に指定されました。
 池田 済州島が征服された一世紀間は、どのような時代だったのですか。
  一二七三年に、三別抄が滅びたあとは、モンゴルの兵士五百人、高麗の兵士千人が進駐するようになりました。そして、済州島を直轄地として高麗から切り離し、「耽羅タムナ国」として支配するために、官庁を設置しました。
 翌一二七四年、高麗では忠烈王チュンニョルワンが王位に即き、元に対する抵抗を放棄し、一体化することによって、王権の安定を図ろうとしました。
 忠烈王自身がモンゴル皇帝フビライ・ハンの皇女と結婚したのをはじめ、代々の王がモンゴルの皇女と結婚し、王室はモンゴル化していきました。
 ちなみに、この王から六代続けて、王の名前に「忠」の字が使われたのですが、これは、とりもなおさず、元に対する高麗王室の立場を象徴しているのです。
4  元冠の精神的影響
 池田 よく分かりました。
 その後、高麗王朝は、衰退を余儀なくされるのですね。
  一二七四年には日本が、最初のモンゴル軍の襲来を受けています。(文永の役)
 しかし、ご存じとおり、これは失敗に終わりました
 それから七年後、一二八一年に、モンゴル軍は再度、日本を攻めました(弘安の役)。
 これも失敗に終わったのですが、この時使われた軍船は、済州島で造られたもののようです。
 しかも元はその後、高麗に命じて耽羅タムナ進駐軍を増強し、なんと四年後の一二八五年四月には、三度目の日本侵攻をもくろみ、耽羅で建造した百隻の軍船を、高麗に回したとの記録があります。
 池田 ひょっとすると、元軍の侵攻は、三度目もあったかもしれないということですね。
 二度にわたる「元冠」は、日本社会に重大な影響を及ぼしました。多くの戦死者を出し、経済的な打撃を被ったのはもちろんですが、日本人の精神の上にも重大な影響を残しました。
 歴史学者の網野善彦氏は、一九七四年発刊の研究書の『蒙古襲来』(『日本の歴史』10所収、小学館)の中でこう記しています。
 少々長くなりますがーー。
 「この外冠が、一夜の暴風によって終わったことは、はたして本当の意味で、日本人にとって「幸せ」だったのだろうか。犠牲はたしかに少なくてすんだ。それが一つの幸せであったことはまちがいない。
 しかし不徹底な結末は『神風』という幻想を遺産としてのこし、のちのちまで多くの日本人を呪縛しつづけた。
 この意味で、敗れたりとはいえ徹底的に戦った三別抄をその歴史にのこした朝鮮武族は、苦闘したもののみにゆるされる真の幸せをもっている。
 七百年まえの偶然の『幸せ』に、つい三十年まえまで甘えつづけていたわれわれ日本人は、きびしくみずからを恥じなくてはなるまい」
 「元冠」が日本人に及ぼした影響は、貴国と比較してみるとき、より浮き彫りになります。
 「座して天祐(天の助け)を待つ」というのか、日本人には、どこかで甘えが出るとも指摘されてきました。「すべては自らの汗で戦い取るものだ」という意識への変革が要請されるところです。
  興味深い分析です。三別抄のみならず、わが民族全体にまで言及しているのですね。
 池田 実際には、元は成立直後には、分裂し始めていたと聞いたこともあります。
 元は、歴代の中国の王朝とは根本的に違っており、統治する側のモンゴル民族は、遊牧民として「移動生活」をし続けたようですね。
 当時のモンゴル人は、済州島に入って、豊かな緑と、どこまでも続く草原を発見した時、小躍りして喜んだのではないかとも、想像されます。
 モンゴルの人びとは、自由な草原の民であり、馬に対する愛着も、まことに深いものがあります。
  そのようですね。
 モンゴルの人びとにとっては、済州島は中国、高麗のどこよりも、モンゴル騎馬軍の駐屯地として最適に映ったことでしょう。
 実際、一二九四年に、済州島で育った四頭のモンゴル馬を、元に献上したという記録が残っています。
 また現在、天然記念物となっている「済州馬」は、モンゴル馬の特徴を色濃く残していると言われています。
 一方で当時の済州島は、船を建造する木材が豊富であり、建造技術も発達していたことがうかがえます。
 さらに、島民は海産物で生計を立てており、韓半島や中国、日本への往来も活発であったため、相当の航海術も身につけていたとも考えられます。
 池田 なるほど。済州島の歴史と風土は、すでに世界を呼吸し、世界の文物を包含していたのですね。
 牧口初代会長は『人生地理学』の中で、「郷土民」は即「国民」であり「世界民」であるとし、郷土を詳細に見て、そこから世界を考える視点を見いだしています。
 つまり、郷土の川や山と人生の関わりから、世界全体を把握する視点を広げていったのです。
 ところで、元による済州島の支配が終わったのは、明が成立してからのことでしょうか。
  そのとおりです。一三六八年、朱元璋しゅげんしょうによって明が輿り、漢民族が中国を奪還しましたが、そのわずか二年後には高麗が、三年後には済州島が、モンゴルの支配から開放されました。
 しかし弱体化した高麗は、およそ二十年後の一三九二年、李成桂イソンゲによって滅ぼされ、韓半島には朝鮮国(李朝)が成立しました。
 済州島は、解放されたとはいえ、モンゴル民族の統治は一世紀にも及んだため、民族的にも文化的にも、さまざまな影響を受けることになりました。
 済州島民の「葛藤」の背景にあるものは、自分たちにモンゴルの「血」が入り、モンゴル人が父母となり、祖父母となっていったにもかかわらず、「抗蒙精神」が強く長く続いたということです。
 池田 その心情は、察して余りあります。
 ただ私が感嘆するのは、済州島の方々が、そうした受難の歴史を、「世界市民」となりゆく過程へと転じてこられたことです。
 ともあれ、権力の側から歴史を見れば、民衆とかけ離れたところで、「支配」や「解放」があります。
 しかし、民衆の側から見れば、「支配」に対しては「抵抗」の死闘があります。
 そして、いったん「解放」されたとしても、真に「自由」を勝ち取っていくためには、その後も、長い長い戦いが続きます。歴史というものは、たえず民衆の側から見直される必要があるでしょう。いずれにしても、二十一世紀紀こそは、民衆が事実上の主役となる歴史を築いていかなければなりませんね。
  ええ。そのとおりですね
 そのために、この対談から、ありったけの「平和へのメッセージ」を伝えたいと思うのです。
 池田 日本の権力者は、元冠のさなか、何の罪もないモンゴルの使者を、鎌倉と博多で斬首しました。
 そこには、モンゴル人とともに、貴国の先人なども含まれていました。
 日蓮大聖人は、その死を深く悼み、権力の暴虐な行為を痛烈に呵責しました。
 仏法では「一日の命は、全宇宙の財宝にも勝る」と説き、生命の尊厳を何よりも重んじ、他者の痛みに対して同苦していくことを教えています。
 また、日蓮仏法では、日本の権力者からの弾圧も、「わずかの小島の主らの威嚇」に過ぎないと見下ろす、広大な世界観、宇宙観が説かれています。
 日蓮大聖人は、その正義の主張ゆえに、讒言によって佐渡島へ配流されました。
  お話のとおり、世界観が大切ですね。
 加えて、「生命尊厳」を徹して貫く姿勢に、感動いたします。「暴力と破壊の時代」だからこそ、「対話の力」の重要さを、改めて痛一膨します。
5  済州島で亡くなった国王
 池田 ところで、済州島民の成り立ちに関して、「配流されてきた人びと」による影響も大きいと言われますね。
  高麗の時代、済州島は罪人だの流刑地でした。
 しかし、朝鮮国の時代になって、主に「政治犯」の配流地となってから、韓半島の人びととの人種的交流が行なわれました。
 「政治犯」といっても、正義を唱えて権力闘争に敗れた学者たちも多くおりました。
 なかには、国王でありながら済州島に流された者もいます。
 池田 国王もですか。
  その国王の名は光海君クワンヘグンといいます。豊臣秀吉による壬辰倭乱イムジンウェラン丁酉再乱チョンユジェラン(文禄慶長の役)の時の皇太子でした。
 父王である宣祖ソンジョの避難中、光海君は江華カンファ島に拠点を置いて最前線で指揮をとり人望を集めました。
 宣祖の死後、一六〇八年に即位し、内政・外交ともに優れた手腕を発揮したのですが、王朝の党派争いに巻き込まれ、派閥の策謀にのって兄弟を次々に殺害した上、母后を幽閉するなどしたため、人心は離れ、政治は混乱してしまいました。
 結局、臣下によって江華島、ついで済州島に流され、一六四一年、七十一歳で生涯を閉じたのです。
 これは、国王が配流された唯一の事例ですが、その他にも、王族が配流された事例がいくつかあります。
6  「石」「風」と共存してきた民
 池田 これまでのお話で、済州島の方々のダイナミツクな成り立ちの歴史が、よく分かりました。
 古代から他地域との交流がもともと盛んであり、さらに大きな人的交流として、モンゴル軍による支配と、韓半島からの政治犯の配流があったということですね。
 結果として、島の人びとの文化水準、教育水準は高くなり、そして何よりも「心の器」は類例を見ないほど、豊かになったのではないかと思われます。
 ともあれ、異文化との交流は重大ですね。私が対談したトインビー博士の歴史観も、異文化との遭遇から新たな力強い文化が創造されていくとするものでした。
 続いて、済州島の自然条件などが島民にどのような影響おぼしたかを、お聞きしたいと思います。
  すでに「三麗」「三宝」の島であるということで、自然や文化を紹介してきました。
 これらは、一九六年代以降に言われるようになった言葉で、比較的新しいものと言えます。
 じつは、それよりももっと前から、済州島を表現する言葉に、「三多」というのがあります。
 池田 それは何でしょうか。
  「石」「風」「女」です。
 「石」が多くなった原因は、これまでにも述べてきたとおり、漢拏山の火山活動によるものです。
 済州島の地盤は、ほとんど岩盤であると言って差し支えないでしょう。
 そのため、水田が極めて少なく、土のあるところはほとんど畑でした。しかも農作物をつくるのにも、大変な苦労を強いられてきたのです。
 済州島民の日常生活では長い間、ごはんは米飯ではなく、雑穀でした。米飯は、先祖をまつる祭祀や結婚式でしか見ることはできませんでした。
 農民たちは地面を覆う多くの石の塊を取り除き、畑を開墾しました。
 漁民たちは大きい石を見つけては、港に積み上げ、海賊などに備えました。
 このようにして、すべての済州島の島民は、石と共存するなかで、長い歴史を積み重ねてきたのです。
 池田 済州島のいたるところで見受けられる「トルハルバン」(おじいさんの形をした石像)これも、石と共存する文化のなかで生まれた民衆の芸術なのでしょうね。
 人びとの苦労は一筋縄ではいかないはずなのに、「トルハルバン」の表情は、つねに穏やかでにこやかです。これは、偉大にして豊穣な精神文化がなければ、創られるものではありません。
 趙博士からいただいた「トルハルバン」も、大切に飾っております。
  ありがとうございます。
 「トルハルバン」は、人の背より大きなものから、観光みやげの一五センチ程度のものまでさまざまですが、まさに済州島のシンボルでしょう。
 起源は明らかではないのですが、朝鮮王朝の中期以前にさかのぼることができるようです。
 「トルハルバン」は、村落に病魔や邪気が入らないように、村の入り口に建てられています。日本でいえば、道祖神のようなものでしょうか。
 その他、民族村や済州大学など、主要な施設にも置かれています。
 池田 「トルハルパン」は、まさに済州島の人びととともに、歳月を刻んできたのですね。
 二番目の、「風」が多いというのは、強風が吹くということですね。
  ええ。二十四時間の平均風速は、例えばソウル市が毎秒二・五メートルであるのに対し、済州島は毎秒四・七メートルにも及びます。
 上陸する台風の回数も多く、全国一の強風地帯と言えるでしょう。
 済州島では、旧暦の二月一日から十五日までを、風の神である「ヨンドンハルマン」を祭る期間に定めて祭りを行ない、その年の海事の安全を祈願する風習があります。
 また、民家や畑の土が吹き飛ばされないように、いたるところに石垣が造られました。
 池田 そのたたずまいは、私も拝見したことがあります。
 三番目の「女性」が多いというのは、どのような理由によるのでしょうか。
  まず、「女性が多い」ということには、二つの意味があります。
 一つは、実際に女性の人口が、男性の人口より多いということ。
 もう一つは、韓半島に比べて、女性が、畑や海辺など、外で働く傾向が高いことを意味しています。
 このうち前者については、男性たちが、しばしば、漁の最中に遭難して命を落としたこと、また第二次世界大戦、済州島での「四・三事作」、「六・二五動乱(朝鮮戦争)」と続く一連の戦乱で、男性の犠牲者が多かったことなどが影響しています。
7  「門」がない信頼の島
 池田 それにしても、容易に人びとを寄せつけない、石の多い、風の吹きつける土地にあって、島の人びとは、厳然と人生の根を張り、忍耐強く息抜き、「三麗」「三宝」「三多」の島を築いてこられたのですね。
 その尊き強靭な精神性に敬服いたします。
 ところで、済州島を表す言葉に、「三無」という表現もあるそうですね。
 「泥棒」「乞食」「門」だというのですが、本当でしょうか。
  「門がない」というと驚かれるかもしれませんが、本当です(笑い)。
 古来、済州島民は、やせた土地で生活していくために、勤勉、節約、助け合いを美徳として、泥棒泥棒もせず、乞食も出さず、家と外部社会との境界になる「門」も設けずに暮らしてきました。
 自立心を強くもち、勤勉に働き、収穫した農作物を節約して来来に対する備えとしたからこそ、泥棒や乞食をしなくても生きてこられたのだと思います。
 もし、ひもじい人を見つけたら、隣人が畑の仕事を手伝うようにさせて食べさせていました。
 門がないのも、島民たちの間に秘密がなく、信頼し合い、開放的であったからなのです。
 池田 すばらしい! 心に垣根がなく、すべての人を迎え入れたのですね。
 島の暮らしは決して裕福ではなかったと思われるのに、この心の高貴さ!
 そういえば、歴史小説家の司馬遼太郎氏も、『耽羅紀行』の中で、済州島に「門」はないことを紹介していました。(『街道をゆく』28、朝日新聞社参照)
 氏によると、二、三本の棒を横にわたしただけの、のどかな造りの門に似たものも見受けられ、これは「動人は留守です」ということを意味するそうですね。済州島には泥棒がいなかったことを、世に証明しています。地域の友好と教育力のモデルを見る思いです。
 日本人にもかつては、そのような地域がありましたが、今は「心」にまで門を構え、他者を閉ざす傾向が見えています。地域の教育力が失われて、青少年の非行にも歯止めがかからなくなっています。これは、歪んだ大人社会の反映です。
 どこまでも寛やかでおおらかな済州島の人びとの心に、学ばなくてはなりません。
  経済的、社会的観点からもう少し説明すると、住民たちの間に貧富の差がなく、盗まれるものもなければ、乞食に与える余裕もなく、泥棒や乞食を放置しない環境ができあがったことが大きいでしょう。
 また精神的観点から言えは、耽羅国の末裔であるとか、正義を貫いたがために配流された気高い士人たちの末裔であることを誇りに、その先祖の名誉を傷つけないように生きてきたことが挙げられるでしょう。
 これらはとりもなおさず、安定した社各秩序と、平和な社会基盤を形成していることを意味します。
 観光産業中心の現代社会において、このようなよき伝統を、どう生かしていくのかが、今後の課題になると思います。
 池田 そうですね。済州島がいつまでも、南海の「ユートピア」であることを願ってやみません。
8  「武器」は忍耐、愛情、冷静さ
  一般的に、個人でも民族でも、耐え難い環境や歴史を経験した場合、「命を亡くす」のが世の常であると思います。
 そういう意味で、私は、ニーチェが唱えた「弱者と強者の共存論理」には、共感するところがあります。
 もし社会的弱者が、権力、金力、組織力、地位、名誉等をもった社会的強者と激しく戦い、生き残るとすれば、弱者の武器は、忍耐と愛情と、冷静な思考力以外の何ものでもない。
 しかもこれらは、苦難が甚だしくなればなるほど、忍耐力は強くなり、より多くの愛情を注ぐようになり、ますます冷静に脳細胞を働かせるようになるのです。
 結局、そのようにして弱者は、強者と対等に肩を並べるのみならず、相手から信頼と尊敬をも勝ち取って、相手をリードすることになります。
 池田 戦い抜かれた、真実の「人生の闘士」のみが到達する、どこまでも深い境地だと思います。
  ありがとうございます。済州島の人びとは歴史的に、韓国人の中でも最も苦難の多い生活を送ってきました。
 そして、その子孫たちが生きるために得た遺産は、個人としての忍耐心であり、勤勉で誠実な努力であり、家族関係の愛情であり、社会に対して切実に望む平和であったのです。
 地方自治の歴史も浅く、国民全体を統合するナショナリズムの街頭の歴史もなかったゆえに、縁故主義を超えた社会への博愛が未熟であったり、公的関係の共同作業も苦手であったりする短所も見受けられるのですが、戦争の歴史を最も身近に体験した済州島民たちが、だれよりも平和を望むことは言、つまでもありません。
 かつてわが国の慮泰愚ノテウ大統領と、ソ連のゴルバチョフ大統領が、済州島で歴史的な会談を行ない、冷戦構造を終わらせる先駆けとなりました。
 冷戦が終結した今、そして新たな紛争が起こり始めている今、韓半島の平和はもとより、「世界平和」へのメッセージの発信基地として、この済州島を輝かせていきたいのです!
 池田 済州島を敬愛する一人として、私も、そのように心から期待してやみません。
 幾多の苦難と試練を超え、忍耐と愛情に生きようと決めた人びとが、民しき済州島をつくり上げてこられたことが、よく分かりました。
 歴史を真に担い、築いていくのは、民衆です。無名の民衆です。
 時代の底流を動かしつつ、何ものにも膨せず色き恥く民衆こそ、最終的な「歴史の担い手」であり、広範な「平和の担い手」です。
 このすばらしき「済州島の伝統」を、次代の「世界の伝統」にしていくことが大切ではないでしょうか。

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