Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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7 中印学の柱
「東洋の智慧を語る」季羡林/蒋忠新(池田大作全集第111巻)
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長安の都
池田
私もナーランダーに行きました。一九七九年、三回目のインド訪問でした。写真で見たよりもはるかに広大であり、精巧なのに驚きました。
季先生がおっしゃったように、最盛時には、各国から集った、一万人の若き求道の学生と一千人の教授が、ここで生活したと言いますね。
千数百年も前にレンガでつくられた遺跡の数々を見て回ったとき、師匠と弟子との間で行われたであろう、火花を散らすような真理の探究と厳格な人格の鍛錬を思い浮かべ、私も深く感動しました。
また、玄奘と言えば、西安の大慈恩寺を訪れる機会がありました。一九七四年、第一次訪中のときでした。往時、世界的な大都市であった大唐の長安の都です。玄奘がインドから持ち帰り、大慈思寺などに多くの英才を結集して翻訳した仏典は、じつに七十五部千三百三十五巻という膨大な量でした。
これらの叡智を学びたいと、日本からも遣唐使節の留学生などが、木造の船で万里の波溝を乗り越え、生きるか死ぬかの危険をおかし、大慈思寺に学びに行きました。
中国側の記録では、遣唐使節の総計は二千百四十二人にものぼったとのことです。
日本人の留学生が、はるばると中国を訪れたのも、また、中国の学僧が、辛苦の限りを尽くしてインドに旅したのも、学問、文化を必死になって摂取してわが血肉とし、多くの民衆に尽くしていこう、という同じ心であたにちがいありません。
また、インドの高僧は仏教を中国へ伝えるため、中国に骨を埋める覚悟で祖国を旅立ち、険難の幾山河を越え、長安に向かいました。
貴国の鑑真和上はわが国の留学生の要請を受け、「是は法事(=仏法を説き弘めるとと)のためなり、何ぞ
身命を惜しまん」(安藤更生『鑑真和上』吉川弘文館)と、艱難の末、日本に来てくださいました。
文化の伝播、交流というものは、先人の尊き苦闘、必死の努力によってなされてきました。私は、深い敬意と感謝の念を禁じえません。
優れた文化・芸術は人間の心を結びます。国境も体制をも超えて、人々を共通の「感動」で結びつけます。”文化の道”は美しい人間性と智慧の花咲く道です。魂の道です。ゆえに、平和の道でもあります。
私どもも、「創価大学」や「東洋哲学研究所」「民主音楽協会(民音)」「東京富士美術館」等を通し、貴国をはじめ世界の多くの国々と、教育、学術、芸術、文化の交流を誠心誠意、推し進めております。
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