Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第1章 幼児教育――信頼の世界  

「21世紀への母と子を語る」(池田大作全集第62巻)

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2  教育の原点は幼児教育に
 政森 このてい談は、「幼児教育」をテーマに、私と、札幌創価幼稚園の岡野副園長で、進めさせていただきます。
 岡野 よろしくお願いします。人間教育のあり方や、心構えについて、学んでいきたいと思います。
 池田 こちらこそ、よろしく。
 岡野さんは幼児教育のベテランですが、政森さんも、かつて幼児教育に携わられていましたね。
 政森 はい。七年間、広島市立の保育園に勤めていました。
 池田 今回は専門のお二人に、いろいろうかがいたいと思います。
 現代のさまざまな問題も、その根をたどれば、教育のあり方にかかわってくる。とりわけ、幼児期の教育、家庭での教育は重要です。
 子どもたちとのじかの触れ合い、生命の触発を考えても、幼児教育にこそ教育の原点がある。
 また、仏法の視点から見れば、多くのお子さんの面倒を見るということは、自分の子孫、家族、一族が生々世々にわたり、多くの方々に守られていくという福徳を積んでいることになるのです。
 政森 先ほども二人で話していたのですが、実は、私たちは二十三年ぶりの再会になりました(平成十一年てい談当時)。昭和五十一年(一九七六年)四月に行なわれた札幌創価幼稚園の第一回入園式に、私も参加させていただいたのです。
 私が広島県の女子部長をしていた頃です。入園式の約一カ月前、池田先生が広島を訪問されました。
 広島支部結成二〇周年を記念する幹部会があり、終了後、私は二人の女子部員とともに広島文化会館の大広間で後片づけをしていました。そこに、先生が入ってこられ、懇談してくださったのです。
 たまたま私たち三人とも、教育に携わった経験がありました。そのことを聞かれた先生は、「来月、札幌に創価幼稚園が開園するから、みんなも連れていってあげよう」と招待してくださったのです。
 池田 そうだったね。一切の行事が終わった後でした。陰で黙々と働く皆さんと思い出をつくり、大きく成長してもらいたかったのです。
 札幌創価幼稚園の設立は、「創価一貫教育」のなかで、大学、高校、中学校に次ぐものでした。
 北海道は、創価学会の師弟有縁の天地です。初代会長・牧口先生も、二代会長・戸田先生も、ここで青少年期を送り、小学校で教鞭を執られている。私の父も、北海道に縁があったし、私自身、何度も北海道に足を運び、広大な天地を舞台に青春の命を燃やした。
 この地に幼稚園を建設したのは、深い意義があります。
 教育においては、「環境」が子どもに大きな影響を与える。ゆえに大学も、高校・中学・小学校も、立地環境に、細心の注意を払いました。
 なかでも、私は、自然豊かな北海道にこそ、「理想の幼児教育の城」をつくろうと思い立ったのです。
3  実際の触れ合いをとおして触発 
 政森 あの入園式は忘れられない思い出です。
 こうして久しぶりに岡野先生と会って、当時のことが蘇ってきました。
 岡野 あの時、池田先生は、入園式が始まる一時間も前から、正面玄関に立たれ、ロビーで園児を待っていてくださいました。
 子どもたちがやって来ると、付き添っていたお母さんたちが池田先生の姿を見つけ、子どもたちより先に先生のもとに駆け寄ってきて――。
 池田先生は「今日は、あなた方が主役じゃないよ」と(笑い)……。
 子どもたちを抱き寄せ、「入園おめでとう」「よくきたね」「仲よくするんだよ」と声をかけながら、一人ひとりの園児を歓迎する先生の姿が印象的でした。
 政森 私も、あの光景は忘れられません。子どもたちを見つめられる、池田先生の眼差しが本当に温かでした。
 当時、私は保育園をやめて、まだまもない頃でしたので、「こんなにすばらしい環境で働けたら」と、皆さんをうらやましく思いました。
 岡野 私たちにとっては、先生の振る舞いそのものが、教育のお手本でした。
 先生は、自然のうちに、すっと子どもたちの輪の中に入っていかれる。
 式典の時も、壇上ではなく、園児たちと同じ席に座られていました。じっとしていない園児を膝の上に乗せてあやしたり、お話をされたり、まるで“父と子”のような、すばらしい光景でした。
 私は司会をさせていただいたのですが、園児たちの側にいる池田先生と、ちょうど向かい合う形になり、とても緊張しました。(笑い)
 また、こんなこともありました。
 応接室に先生がおられた時、一人の園児が泣きながら部屋に入ってきたのです。
 先生が、「どうしたの?」と聞くと、その子は「○○ちゃんがいじめるの!」と。
 先生は、胸の名札に「としこ」とあるのを見られ、「としこちゃんは、どうしてそんなことされたと思う?」などと、話をじっくり聞かれた後で、「○○ちゃんのところに行って、仲よく遊ぶんだよ」と、仲直りさせたのです。
 園児たちと先生の触れ合いを見て、「子どもには、自分を大切にしてくれる人が、直感で分かるんだな」と、しみじみ思いました。
 政森 私もよく覚えています。
 ロビーで、「ばら組の人はこっちに来て」「ひまわり組さん、手を挙げて」とマイクを手にされる姿は、子どもと同じ目線に立っていて、まるで“園長先生”のようでした。
 池田 いっしょになって呼吸し、手をつなぎ、遊んであげたりする……それが教育の原点です。
 距離を置くのではなく、実際の触れ合いをとおして触発していくのです。
 大教育者ペスタロッチは、スイスのシュタンツの孤児院で子どもたちと生活した時の様子を、こう書きとどめています。
 「わたしは彼らとともに泣き、彼らとともに笑った。彼らは世界も忘れ、シュタンツも忘れて、わたしとともにおり、わたしは彼らとともにおった。
 彼らの食べ物はわたしの食べ物であり、彼らの飲み物はわたしの飲み物だった。
 わたしは何ものももたなかった。わたしはわたしの周囲に家庭ももたず、友もなく、召使もなく、ただ彼らだけをもっていた。彼らが達者なときもわたしは彼らのなかにいたが、彼らが病気のときもわたしは彼らのそばにいた」(『隠者の夕暮・シュタンツだより』長田新訳、岩波文庫。以下、ペスタロッチの引用は同様)
 これが人間教育なのです。
 子どもたちにとってペスタロッチは、親であり、師であり、またある時は看護者でもあった。
 「子どもにとって、最大の教育環境は教師自身である。だから教師自身の成長が大切である」との創価教育の精神、牧口先生の思想にも通じます。
 私が、できるだけ青年の中に飛び込み、語り合っていこうとしているのも、人生の先輩としてなのです。
 政森 かつて、昭和四十一年(一九六六年)だったと思うのですが、学生部幹部会で、池田先生が学会歌の指揮を執ってくださった時のことを忘れることができません。
 先生は、「これから皆さんの人生には、つらいことも、苦しいことも、たくさんあるでしょう。その時に、立ち上がるための勇気の一助となれば」と言われ、「新世紀の歌」の指揮を執り、舞ってくださいました。
 将来、どうなるかも分からない、無名の、平凡な学生であった私たちに対して、深い真心で励ましてくださる先生の姿――感動のあまり、一節もまともに歌えませんでした。
 今でも、「新世紀の歌」を歌うと、先生の雄渾の指揮が浮かんできます。
4  信頼の世界で可能性は伸びる
 岡野 池田先生が何度も、「この幼稚園から、一人も不幸な人を出してはならない」と言われたのを胸に刻んでいます。
 また、以前(一九九一年)、幼稚園訪問の時に贈ってくださった、
  使命ある
    あの子 この児を
      忘れまじ
    来たる世紀の
      主役なりせば
 との和歌を何度も読み返しながら、教職員一同、創立者と同じ心で、宝の子どもたちを育んでいこうと取り組んでいます。
 池田 よろしくお願いします。
 皆、一人残らず、かけがえのない使命をもったお子さんばかりです。
 先に触れたペスタロッチを、牧口先生は、実際の教育実践と、学問的探求を両立させた「教師の理想」と論じておられる。
 私も青春時代、戸田先生のもとで少年雑誌の編集に携わっていた時、「山本伸一郎」のペンネームで、ペスタロッチについて書いたことがありました。
 ペスタロッチの孤児院の環境は、決して、恵まれたものではなかった。
 孤児院に来たばかりの子どもたちは、ぼろをまとい、やせていて、心もすさんでいた。言うことを聞かず、乱暴をはたらく子どもも多くいた。
 政森 ペスタロッチは、まず、どうしたのでしょうか。
 池田 ペスタロッチは、こうした「最も憐れな最も見離された子供」でも、内なる人間性を必ず輝かせていけることを信じて疑わなかった。そして、辛抱強く慈愛のかかわりを続けていきます。
 実際、子どもたちは、ペスタロッチといっしょに過ごすうちに、徐々に変わっていった。いつしかそこには、一つの家族のような結びつきが生まれていきます。
 孤児院が開かれたのは冬のことでしたが、「春の太陽がまだわたしたちの山々の雪を溶かさないうちに、もうわたしの子供たちは見違えるように立派になった」と、ペスタロッチは綴っている。
 子どもへの「信頼と愛」によって、ペスタロッチは孤児たちの美しい生命を引き出した。
 「信頼の世界」でつつみこんでこそ、子どもは、のびのびと、すこやかに、内なる可能性を伸ばしていける。
 母や、父や、まわりの人びとが愛情でつつんであげれば、子どもにとって、そこは安心できる「信頼の世界」となるのです。
 ペスタロッチの教育思想のキーワードは「居間の教育」です。つまり、「居間」=「家庭」における教育こそ、人間教育の理想と考えたのです。
 彼の教育実践のポイントは、家庭教育の長所を、学校教育に移すことにあったと言われている。
 彼は言っている。
 「よい人間教育は、居間におる母の眼が毎日毎時、その子の精神状態のあらゆる変化を確実に彼の眼と口と額に読むことを要求する」
 子どもたちのささいな「心の変化」を見逃さない眼差しが必要である、と。
5  そそがれた愛情が生きる力に
 岡野 子どもたちを見ていますと、家でうれしいことがあったのか、いやなことがあったのか、すぐ分かりますね。
 それはたとえば、お絵描きにも表れます。人物の目を、ふだんと違って、非常にきつく描いた子に話しかけてみると、両親の夫婦げんかを見てショックだったことが分かったりするのです。
 政森 私が保育園に勤めていた頃の経験ですが、両親が離婚して、お母さんが家を出ていってしまった一歳半の男の子を受け持ったことがありました。
 母親がいなくなってから、その子は保育園でほかの子の髪の毛を引っ張ったり、たたいたり、荒れた様子が続いたのです。
 経済的には何不自由ない暮らしで、いつもきれいな服を着ていましたが、どうしようもない寂しさがあったのだと思います。
 ですから私は、その子に少しでも安心感を与えてあげられるように、いつも手を握ってあげていました。
 池田 幼い子どもにとって、とくに大切なのは「安心感」だね。心のスキンシップです。
 「自分は愛されている」「自分は必要とされている」という実感がないと、子どもの心は不安定になってしまうものです。
 幼いうちに注がれた愛情が、その子の「生きる力」となって、一生を支えていくのだと私は思う。
6  過干渉、過保護は自立心をなくす
 岡野 私にも、園児の頃の忘れられない思い出があります。最近は少ないようですが、「トビヒ」といって、伝染性の皮膚病にかかったことがありました。
 最初に水ぶくれができて、あとから「かさぶた」になります。まだ少し赤い痕が残っていたのですが、お医者さんに「もう園に行ってもいいよ」と言われたので、喜んで行きました。
 ところが久しぶりに会った友だちは、赤い痕を見て、「美代子ちゃん、おさるさんみたい!」と言いました。その時、ほかのクラスの先生も「ほんとね」と、あいづちをうったのです。
 何気ない気持ちで言われたのでしょうが、子ども心がグサッと傷つきました。今でも、その時の気持ちを覚えていて、自分自身への戒めとしています。
 それだけに、小学校に入学した時、担任の女性の先生が「今日から、私がみんなのお母さんです」と言われた一言に、安心したのを覚えています。
 政森 子どもには、愛情をどれほど注いでも、「愛しすぎ」ということはありません。
 私には三人の娘がいます。上の娘は、今年(一九九九年)の春に創価大学に入学。二番目の娘は、関西の創価高校に行っています。
 今、いっしょに暮らしているのは中学生の末の娘だけですが、日頃忙しくてなかなか、かかわってやれないので、たまに娘の横にいっしょに並んで寝るんです。
 いろんなことを話していると、すやすやと寝つくのですが、眠っている娘の顔は、とても安心しているように見えます。
 子育てでいけないのは「過干渉」「過保護」だと思います。
 子どもが転んだら、すぐに助け起こすのが愛情とは限りません。自分で立ち上がるのを、じっと見守ってあげるのが大事な時もあると思うのです。過干渉や過保護は、自立心をなくしてしまいます。
 岡野 最近は核家族化、少子化の影響もあってか、子育てに戸惑うお母さんたちが少なくないですね。
 育児書を見て、自分の子どもが、書いてあることと少しでも違うと、「うちの子は、どこかおかしいのだろうか」と思い悩んだり、ほかのお子さんと比較して、「うちの子は発育が遅れているのでは……」と不安になってしまいがちです。
 池田 子どもというのは、一人ひとり違う。成長の度合いも、千差万別です。
 あまり神経質になって、一喜一憂すると、その不安が子どもに移って、悪循環に陥るということにもなりかねない。
 お母さんは、少々のことには動揺せずに、どっしりと構えていることが大事です。
 心豊かな、広々とした境涯の母親のもとでこそ、子どもはのびのびと育っていくことができる。
 焦りは禁物です。もちろん病気の心配がある場合などは、病院できちんと診てもらうことは必要でしょうが、体の発育や言葉の発達が多少、遅れていても、長い目で見てあげたほうがよい場合もある。あわてないで、子どもといっしょに歩んでいくのです。
 岡野 そのように思います。子どもというのは、自分の思いどおりになるものでも、「こうすれば、必ずこうなる」という方程式があるわけでもありません。
7  苦労があるからこそ親も成長
 池田 今は、便利さや効率性を追求する世の中です。
 そういう観点から見ると、子育てほど、思いどおりにならない、効率が悪く感じるものはないかもしれない。
 便利な世の中で育った今の若いお母さんたちが、育児ノイローゼになったりするのも、そうしたところに、一つの原因があるように思います。
 人間というのは、「効率性」で計れるものではない。
 子育てには「忍耐」が必要です。
 とりわけ人を育てることは、本当に手のかかるものです。すぐに思いどおりにいかなくて当たり前です。
 子育て、人材育成に関しては、「労少なくして功多し」ということはありえません。
 岡野 その労に耐えられるかどうかですね。
 池田 そう。苦労を惜しんで、小手先で何とかしようとしたり、子どもを「操作」しようとすれば、必ず行き詰まります。
 自分では意識していなくても、心のどこかに、「どうせ子どもだから」などという傲慢さがあれば、子どもはそれを感じ取る。子どもは敏感です。生命のレーダーで、大人の心を、そのまま写し取ってしまう。
 いつも言っていることですが、子どもの中には立派な大人がある。一個の人格として尊重していくことです。
 逆に言えば、どこまでも真心を傾け、愛情を注いでいけば、たとえそれが不器用であっても、子どもは必ず応えてくれる。
 苦労があるからこそ、親が人間として成長できる。
 「育てる」ほうも、「育てられる」のです。
 政森 私は、小学四年生の時に父を亡くしましたが、父の葬式の時に、初めて母の涙を見ました。だれもいないところで、ひっそりと泣いていた母の姿。あんなに悲しそうな母は見たことがありませんでした。
 その母が創価学会に入会したのは、父が死んだ後のことです。
 実は、私たちを学会に導いてくれたのは、父なのです。
 若い頃、北海道大学に行くのが夢で、北海道をとても愛していた父が、仕事で北海道に行った時、「東京には、すごい宗教がある」と聞いて帰ってきたことがありました。
 実は、その「すごい宗教」というのが、創価学会だったようなのです。父は生前、学会に出合うことはありませんでしたが、ある時、母が下関へ向かう列車の中で仏法の話を聞き、「これが、主人が聞いてきた宗教にちがいない」と直感し、入会したのです。
 それから母は、原爆の後遺症と闘いながら、女手ひとつで私たち子どもを育て、亡き父との約束どおり、弟二人を大学に進学させました。父が死んでからは、私たちを育てている間、母の涙を見たことはありません。
 私は、母に心から感謝しています。あの母でなければ、とても私たちを育てることはできなかったと思います。
8  偉大な母の労苦に心から感謝
 池田 母の祈り、母の思いが、どれほどの力をもつか――。
 以前、ジャズ界の巨匠で、アメリカSGI(創価学会インタナショナル)のメンバーであるハービー・ハンコックさんが来日し、東京で語り合いました(一九九九年四月)。
 ご存じの方も多いと思いますが、アメリカ音楽界最高峰のグラミー賞を七回も受賞した、世界的な音楽家です。
 ハンコックさんは少年時代、決して裕福とは言えなかった。
 しかし、お母さんは家計をやりくりして、ハンコックさんにピアノを買ってあげ、三人の子どもたちを全員、大学に進学させたのです。
 ハンコックさんは、お母さんへの感謝を込めて語っておられた。
 「いまだに、(母が)どうやって、そんなことができたのか、わからないんです。奇跡としか、言いようがないんです」と。
 政森 ハンコックさんの気持ちがよく分かります。
 自分が子どもの頃は、よく分かりませんでしたが、こうして子を持つ親になってみて初めて、母の偉さを実感します。私も、母のしたことは“奇跡”のように思います。
 岡野 私も、両親にはとても感謝しています。私の入会は三歳の時の昭和二十九年(一九五四年)です。わが家は東京の江東区にあり、人情に厚い下町の空気を呼吸して育ちました。
 家は学会の会合の会場にもなっていましたので、いつも皆さんが出入りしていました。会合が終わると、だれもが元気になって帰っていく姿が、とても印象的でした。
 また、子どもの時、父や母に連れられて、戸田先生の法華経講義に参加したこともあります。
 戸田先生のお話に、会場が沸き返るような雰囲気だったのをよく覚えています。
 池田 戸田先生は、本当に偉大な指導者でした。庶民の心をつかむ“天才”でした。
 難しい仏法哲学でも、戸田先生の手にかかれば、だれもが納得できる、分かりやすい話に変わってしまった。
 たくみな譬喩、天衣無縫のユーモア、確信あふれる指導――。
 戸田先生のお話をうかがっていると、涙と笑いのなかで、いつしか心の底から、ふつふつと勇気と希望がわいてくる自分に気がつくのです。
 そうした戸田先生の講義を、「あれは仏法ではない」などとバカにする学者もいました。
 そういう学者に限って、難解な言葉をもてあそんで、宗教を庶民の生活から遠ざけてしまったのです。
 難解なものを難解に説明するのは、やさしい。深遠な内容を、分かりやすく説明するから偉大なのです。
 それが「慈悲」です。戸田先生は、全学会員を幸福にしようと決意されていた。それはそれは、すごい気迫であられた。その心が、聞く者の心に迫ってきたのです。
 これは、教育者も学ぶべき精神ではないでしょうか。
9  子どもを立派な後継者に
 岡野 よく分かりました。
 それにしても、戸田先生が亡くなった時のことは忘れられません。
 小学二年生の時でした。その日、私が家に帰ると、部屋の中は、電気もついておらず真っ暗でした。
 いったいどうしたのだろうと思って、家に入ると、母が一人で、泣きながら題目をあげていました。
 「どうしたの?」と聞くと、「戸田先生が、お亡くなりになられたの……」と。私はびっくりしました。あまりにも悲しそうな母といっしょに、題目をあげました。
 ですから、二年後の池田先生の会長就任を、両親が心から喜んでいたのを忘れられません。
 当時、私は九歳でしたが、日大講堂で行なわれた会長就任式に、父に連れられて、姉といっしょに参加させていただきました。
 政森 それはすばらしいですね。あの式典に、子どもも参加できたのですか。
 岡野 周りを見渡しても、ほかに子どもは見当たりませんでした。(笑い)
 実は父が、とても大事な会合と聞いて、「大事な会合だから、大事な娘たちといっしょに参加しよう」(笑い)と、私たちにピンクの、とっておきの服を着せて、連れていってくれたのです。
 母は二階で、父と私たちは三階席でした。母が二階席から見上げると、大人たちに交じって、ピンクの服を着た私たちの姿が目立ったそうです。
 子ども時代の最高の思い出であり、人生の原点にもなっているんです。ですから、両親には本当に感謝しています。
 池田 ご両親は、広宣流布という崇高な人生の目的を、大事なお子さんたちに受け継がせていこうというお心だったのでしょう。
 その結果、岡野さんは、こうして創価教育の本舞台で活躍されている。岡野さんの姿それ自体が、ご両親の勝利の証明です。政森さんも、お母さんの信心があってこそ、今がある。
 子どもを立派な後継者に育てることが、自身も、子どもも、福徳の人生を歩んでいく根本の軌道なのです。
 私たち学会員の立場で言うなら、子どもに厳然と「学会の心」を教えていくことです。
 それを忘れて、世間的な名聞名利や、見栄に流されてしまっては、結局、親も、子どもも、不幸になってしまいます。
10  言葉でなく行動で示す
 政森 はい。私も、そのことを、いつも心がけてきました。
 ささいなことですが、子どもが小さい頃、会合に連れていく時は、いつもきれいな服に着替えさせてから行くようにしていました。きれいな服といっても、立派に着飾るということではなく、洗濯した服ということですが。
 「これから、大切な学会の会合に行くのよ」と声をかけながら、着替えさせていたのですが、学会活動の大切さを体で覚えていったようです。
 しばらくすると、「さあ、会合に行くわよ!」と言うと、洗濯した服に自分から着替えるようになりました。(笑い)
 岡野 やはり、子どもに最も説得力があるのは、「言葉」よりも、大人の「姿」であり、「振る舞い」ですね。
 池田 そのとおりだね。
 立派な言葉や教訓を、どれほど費やしたとしても、大人の行動がそれに伴わなければ、なんにもならない。かえって子どもたちの不信感を強めるだけです。
 言葉で教えようとしても、なかなか身につくものではない。自分自身の行動で示し、振る舞いで教えていくことこそ、最高の教育です。
 岡野 以前、ネパールのマテマ駐日大使が、池田先生について語っておられた言葉が印象に残っています。
 「ただ考えるだけでは哲学者にすぎない。ただ行動するだけでは、実行者にすぎない。『考えること』と『行動すること』の両者が“よき結婚”をしてこそ、偉大な人格者となるのです。SGI会長こそ、その人です」と。
 先生の振る舞いを鑑にして、教育者として成長していきたいと思っています。
 政森 昭和五十三年(一九七八年)七月、池田先生は五年ぶりに鳥取に来られました。この時、会員のために全力で行動される先生の姿を、中国方面女子部長として間近で拝見したことが、私の原点になっています。
 この時、先生は中国方面の学会歌「地涌の讃歌」をつくってくださいました。
 岡野 昭和五十三年といえば、宗門問題の最中。新しい前進を期そうと、全国各地で次々と新しい愛唱歌が生まれた年でしたね。
 政森 そうです。この年の五月、広島に来られた先生に、「ぜひ新しい『中国の歌』を」とお願いしました。
 一応、青年部の有志で歌詞の案をつくり、お見せしました。
 先生は、それをご覧になり、赤鉛筆をもって直そうとされたのですが、なにしろ、元の詞があまりうまくできていなかったのです(笑い)。とうとう、その時は完成せず、帰京されました。
 それから二カ月後の七月十九日、先生は関西から岡山に来られました。岡山文化会館に入られるなり、「さあ、この前の続きをやろう!」とロビーでそのまま、歌詞の添削を始めてくださったのです。
 しかし、その日も完成しませんでした。
 翌二十日の夕方、鳥取の米子文化会館を訪問。
 代表との懇談会が終わり、夜になると、外はすばらしい満月でした。
 一切の行事を終えられた先生とともに、会館の庭で、飛び交う蛍を観賞した思い出は、忘れられません。
 人工的な明かりは一切なく、あるのは、満月と、満天の星空と、蛍の光だけ。
 そこで先生は、「さあ『地涌の讃歌』をつくろう」と言われ、原稿と懐中電灯を持ってきて、その場で最後の直しを入れられたのです。そして、とうとう完成。
 見せていただくと、すべて、先生のオリジナルの作詞になっていました。はじめ、三番までしかなかった歌詞は、最後には四番にまでなりました。
 岡野 ドラマチックな誕生の瞬間ですね。
11  一人でも多くの人に何らかの思い出を
 池田 私も、あの時のことはよく覚えています。
 中国方面の皆さんが、喜んで歌っていただけるような歌をと、一語、一語、魂を込めてつくりました。
 政森 翌日は、なかなか会えない鳥取の同志に、できるだけ会ってあげたいとの先生のご配慮で、自由勤行会が連続して開催されました。
 知らせを聞きつけて、会館には、県内中から集まった同志が入りきれないくらい詰めかけたのです。
 一回では終わらず、午前、午後と全部で四回の勤行会が行なわれ、すべてに先生は出席してくださいました。
 とても暑い日で、たしか三七度を記録したと記憶しています。会館のクーラーを全開にしても、会場を埋めた方々の熱気で、部屋はまったく涼しくなりません。
 私は先生の後ろのほうにいたのですが、先生は流れる汗もぬぐわず、同志を激励されていました。髪の毛からは、汗がぽたぽたと肩にしたたり落ちていました。
 この日午後には、二カ所の個人会館も訪問され、また島根の友との懇談会もしてくださいました。
 先生はほとんど休息もとらず、勤行会を終えてもなお、本会場に入りきらない方々のもとへと、あらゆるところに足を運び激励されていました。
 そしてまた、屋外の仮設テントでは、自らスイカを切って、みんなにふるまってくださいました。
 猛暑のなか、少しも休まれることなく、同志のために行動される先生の姿を目の当たりにし、とにかく感動の連続でした。
 池田 あの時は、本当に暑かったね。(笑い)
 一人でも多くの人に、何らかの「思い出」をつくってさしあげたかったのです。
 今は活動の舞台も世界に広がり、なかなか各地にお邪魔できませんが、今もその気持ちは、まったく変わりません。
 一番、苦しんでいる人、最も困難なところで戦っている人、そうした方々を思い、スピーチし、筆を執る毎日です。
12  母の一念は“奇跡”をも起こす
 政森 のちのことになりますが、私が中国方面の婦人部長になる時、この大任をまっとうできるかどうか、悩みました。
 しかし私は、鳥取で会員のために尽くし抜かれた池田先生の勇姿を思い起こし、「そうだ! あの先生のお姿を忘れてはならない! 先生の万分の一でも、私も会員の方々のために働かせていただこう!」と心を決めることができました。
 池田 私のことはともあれ、人々のために尽くす――その生き方こそが、子どもの心に鮮やかに投影され、無言のうちに種を植えていくのです。このてい談も、同じ思いで取り組んでいます。生活と戦いながら、懸命に育児に取り組む方々のために。
 先ほど、紹介したハンコックさんは、お母さんについて、こうも語っていました。
 「母が結婚した当時、黒人は将来に何の希望ももてない時代でした。みんな自暴自棄になり、いつも家庭不和や夫婦げんかばかり。子どもがぐれて、警察沙汰になったり、麻薬に走る家庭も多かった。
 そうしたなか、母は、大きな夢と将来への展望をもっていました。
 今の生活を脱皮し、有意義な人生を送りたい! 子どもにもそうさせたい! そういう夢です」
 ハンコックさんのお母さまは、人種差別の激しい、アメリカ南部のジョージア州で生まれ育った。
 日本に住むわれわれとは比較にならない、大変な環境であったにちがいない。
 しかし、それでもお母さまは、「大きな夢」と「将来への展望」を持ち続けた。
 子どもたちのために。家族のために。
 ハンコックさんは、「母がしたことは“奇跡”だ」と言われた。
 母の一念は、“奇跡”をも起こすことができるのです。
 皆さんもお子さんたちが「大きな夢」と「将来への展望」を抱いて、強く生き抜いていけるよう、励まし続けていってください。

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