Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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(四)
小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)
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2
それから数日後のことである。
「先生がお帰りだぞ」
アリストテレスの帰着を教える快活な声が表に聞こえた。
皆、一斉に駆け寄っていったが、ひと月ぶりで相見る師のようすがいつもと違うのを感じ取っていた。見るからに憔悴しきって、目にも声にも力がなかった。何か重大な異変があったらしいことは、若い彼らの眼に敏感に映っていた。
アリストテレスは教壇に立ち、重たげに口を開いた。
それは、衝撃的な内容だった。
「私のかけがえのない友人が死んだ。……いや、殺された。友人であり義父でもあるアッソスのヘルメイアス王が、ペルシャ王の手によって処刑されたのだ」
一瞬、教室の空気が凍りついたように張り詰めた。
ややあって、がたりと椅子を高鳴らせてヘファイスティオンが起ち上がり、叫んだ。
「先生、本当ですか? 先生のお義父上が捕らえられたことは知っておりましたが……、殺されたとは……卑劣な奴らめ」
他の者も席を蹴って、教壇を取り囲んだ。
「拷問の末に、磔にされたのだ」
「ええっ、磔に……」
唸きにも似た声が、教室を揺るがせた。
「私は、故郷スタゲイロスからペラに立ち寄って来たのだが、前日、その報せが王宮に届いていた。フィリッポス様も、落涙しておられた。そして、このミエザには私から報せるように、と仰せであった」
「拷問だと? 磔刑だと? たとえ捕らえても、一国の王らしく待遇するのが当たり前だ。何という、非道な」
いきり立った怒声が次々にあがった。
「だが、ヘルメイアス殿は、見事に、潔い最期を遂げられた。死の瞬間まで、自己の信念を曲げることはなかった」
アリストテレスの語調は常と変わらず、つとめて落ち着き払っていた。
「しかし、何のために拷問など……」
プトレマイオスは、涙声になっていた。
アリストテレスは、声を鎮めて言った。
「真実を語っておこう。皆のためにも、それが良いことだから」
彼のまわりに集まった瞳はいずれも目縁を濡らし、嗚咽を懸命にこらえる者もいた。
「私がここに赴任して来た頃、マケドニアとアッソスの間には、ひそかに同盟の話が進められていた。私も、それを知らされてはいた。アッソスは常に強大なペルシャ軍の鉾先に接している。助けをフィリッポス王に求めていたのだ。だが、どうしてこの密約が漏れたものか、ペルシャの探知するところとなった」
ヘファイスティオンが、思わず叫んだ。
「そうだ! アッタロスのしわざだ!」
「しっ、静かに」
まわりの者が、たしなめた。
「アッソスは素早く攻略され、王は虜囚となって、遙か東方のスサへ護送された。この報せはアテナイの反マケドニア党の連中をも大いに喜ばせたらしい。その領袖デモステネスなどは『これで、いよいよフィリッポス・マケドニアの脅威と陰謀が暴かれることになろう。そうなれば、ペルシャは、我々と反マケドニアの連携に応じてくれるだろう』と言っているらしい。ヘルメイアス殿が口を割れば、ペルシャがマケドニアを侵攻するのに何よりの口実になる。だが――」
アリストテレスの両眼には光るものがあった。
彼は、声を励まして言った。
「ヘルメイアス殿は、一言も語らなかったのだ。彼は、捕らえられたその時から覚悟を決めて、口を閉ざした。きっと、あらゆる恐ろしい拷問の責めと、聞くに耐えない罵詈雑言に辱められたにちがいあるまい。だが、何ものも彼の固い決心を破ることはできなかった。彼は、ただ静かに、耐えに耐えた。彼が初めて口を開いたのは、最後に刑場に引き立てられようとする時だった」
少年達は、固唾をのんで、苦悩を包んだアリストテレスの表情を見守った。
「彼は、起ち上がると、アッソスやマケドニアがある遠い西の空に向き直った。そして、少しも死を恐れない清々しい声で言ったという。『私の懐かしい古里の民よ、親しい異郷の友人達よ、一つだけ記憶しておいてもらいたいことがある。それは、私が最期まで哲学を愛していたということを。最期まで哲学の教えるところにしたがって生きたということを』と。それだけを言い残すと、彼は満足げな笑みさえ浮かべて、刑場に赴いたというのだ。さすがのペルシャ軍も、彼の潔い最期に感じたのだろう、一部始終をアッソスに伝えてきた。……ヘルメイアス殿は、友を裏切りはしなかったのだ」
号泣の声が、一つ二つと起こった。
翌朝、師弟は打ちそろって散策に出た。皆、昨日の悲報の余韻にまだ胸を閉ざされていた。足どりも重く、心も沈みがちだった。
ミエザの野は、冬を迎えようとしていた。黄葉の陰から斑に落ちて来る日光も、冷たく冴え渡っている。静かな歩みを運びながら、アリストテレスは、ひと月振りの講話をしようと言った。友愛について話したい――と、何時ものごとく声色おだやかに語り始めた。
「良き友とは、良き友愛とは、どういうことをいうのだろう――友とはもう一人の自分なのである」
左右の葡萄畑は疾うに熟れ盛りを過ぎて、ところどころにしぼんだ房を残していた。
「友愛とは、信頼される以上に相手を信ずることにある。そう、その信ずる力……君達よ、それを魂の奥に彫り刻んでおきたまえ。疑ってしくじれば傷痕の癒ゆることはないが、信を置いてよしんばつまずいても、大きく立ち直ることができる、ということを。信ずるということは善であり、友愛を裏うち支える、またとなき力なのだ。
そのような真の友愛は、たとえ人からいかなる誹謗を浴びせられようと、揺らぎはしない。心が通い、互いを十分に知り合う者が、どうして第三者の言葉などに動かされるだろう。彼が信義に反する行いをなすか否か、それを最も知っている者が、友なのだ。そのような間柄の人々は、互いの人間自体を、その良き部分――徳たるところ――を知り合っている。良き人、高き徳という点で相似た人々の間にこそ、真の友愛は結ばれる」
アリストテレスは遠くの山に目を向け、一息つくと講話を更に続けた。
「そうでなくして、利便のみ、つまり単に己に役立つからというだけの友愛は、結局、冷淡な自己中心なのだ。それは人そのものを愛するのではなく、別の物――己にとって好都合な部分を愛しているのにすぎない。すなわち、利害を友としているから、利害の移ろいとともに消え去ってしまう、はかなく移りやすいものである。ところが、良き友愛には打算はない。金や物で測れるものではないのだ。そして、互いを高め合う。自分の良き点を引き出してくれ、互いをより幸福にしようと努め、そのこと自体を喜びとする。だから、友とはもう一人の自分なのだ。いわば、二人が一人になる、ということなのだ。
人生そのものである、といえるような友、生涯の盟友、一つの思いに結ばれた同志――それは、いまここにいる君達同志のことなのだ」
師の口調がいつになく熱を帯びていくのを、弟子達は感じ取った。
「ヘルメイアス殿こそ、友愛の鑑だ。王は、信義のために犠牲となることを、潔しとした。信義が人間にとって一番大切なものだ。これを守るところに、本当の哲学もあるといっていい。王は、国を学問で飾ろうとし、自らも哲学を愛した文人だったが、哲学する者の真の生涯を身をもって示した、真の哲学者であった」
その夜、いつものようにテーブルに向かい、燭光のもとに書見をしていたフィリッポスは、竪琴のしめやかな音を聴いた。皇子の寝室は、自分の室の斜め上にあたっている。このところ、夜更けてから皇子がしのび音に竪琴を爪弾くことがあった。
それが板敷きの床から漏れて来るのである。
物思いを込めたような音色が、フィリッポスの熱い頭には快く染みいるのであった。
3
ある昼下がり、アレクサンドロスがフィリッポスを誘って、丘の辺の草上にひと時を過ごした。新緑に埋もれる頃と違い、野面を渉るそよ風は冴えざえと冷たかったが、秋草を褥にして腹ばうと、のどかな小春日が背に暖かい。
久し振りの二人のくつろいだ語らいが、フィリッポスの心を弾ませた。
「フィリッポス、君はいつか、医者になりたいと言ったね」
フィリッポスの目をのぞきながら、アレクサンドロスが言った。
「はい、その思いは募る一方です。出来ることなら、諸都市の医学所を訪ねて勉強し、一人前の医者になって帰りたいと念じております」
「それなら、私も出来るかぎり応援しよう。立派な医者になって、私の側にいつまでも居てくれないか」
「皇子、それは誠でございますか。必ず精いっぱい勉強して、皇子のお役に立ちとうございます」
フィリッポスは、瞳を輝かせて言った。
突然、手前の草むらから野鳩の群れが何かに驚いたように飛び立って、はたはたと東の空へ抜けて行った。その跡を追って仰ぎ見る空は広々とどこまでも澄んで、あるかなしかの雲を浮かべている。
アレクサンドロスは、遠くへ目をあげたまま深々と息をついて言った。
「あの空や雲の、ずっとずっと東の方に、インドがある」
その言葉は、フィリッポスの胸を刺した。
(ああ、皇子、あなたの心の中は、やはり東方への夢でいっぱいなのだ……)
「インドが世界の果てだ、とアリストテレス先生は仰せでした」
「うん。ペルシャよりも東の国。ペルシャの民にもほんの少ししか知られていない、インド……。パルパニソスの頂から望見できる世界の果て……」
そう言ってアレクサンドロスは、真剣な光をたたえた瞳をフィリッポスの方に返した。
「ねえ、フィリッポス。どんな苦労だって、自分が進んで求めたものなら耐えられるだろう。必ずこの道を行くと決めた時には、つらくとも苦しくとも真っすぐに進んで行けるだろう。だから、自分の道がどこにあるかを探しあてることが第一だ。それさえ心底からつかめれば――。自分の体を投げ出してもなお貫こうとするような生き甲斐が見つかるものなら――いかなる苦難も、かえって自分を輝かせるものとなる。苦難のさなかに喘ぎ苦しみながらも、本当の心の底は充実しているにちがいない。幸福とは、真実の楽しみとは、そういうものにちがいない。これから行く手に、どんな苦労が待っているかもしれないが、死をも恐れるものか。どこまでも自分の道を進むのだ。たとえ遠い異郷の果てに死ぬことになろうとも……」
最後の言葉が、戦慄のような感懐をもってフィリッポスの五体を打った。
(ああ、あなたは世界の果てまで征こうとなされている。もう、父王様のお心をも遠く凌いでおられる。……ただ、命あればこそ、皇子の宿願も成し遂げられよう。そのために身を尽くし、心を砕いて、医術に精進するのが自分の道だ……)
ペラの王宮から、数えて四年。共々に多感な少年時代の想い出を分かちあった年月は、いつしか二つの若い心を固くつなぎ合わせた。アレクサンドロスにとって、フィリッポスは今や、誰よりも大切な親友であった。
そのアレクサンドロスが「たとえ遠い異郷の果てに死ぬことになろうとも……」と言って自らの夢を暗示したとき、フィリッポスの心は決まった。真に友のために己が誓いを果たすべく、友情と信義に殉ずる覚悟ができていた。
二人は身を起こして、じっと東の空の遙か彼方を見つめた。
4
紀元前三四〇年――。ミエザに、春は四たび回ってきた。草の柔らかい芽が一斉に伸びようとして、野は、見渡す限り薄緑の毛氈を敷いたようになった。
やがて、この春かぎりで学問所も閉鎖されるという報せがペラから来た。
この頃、アレクサンドロスの父フィリッポス二世は、ヘレスポントス海峡近くまで兵馬を進め、要都ビザンティオンをうかがうとともに、これに刺激されるアテナイの軍ともやがて一戦は避けられないとして、備えを固めつつあった。
アレクサンドロスも十六になっていた。
巣立ちの時が来ていたのである。
アリストテレスは、一時故郷スタゲイロスに退いて、静かな学究生活に入っていた。
アレクサンドロスと貴族子弟達の一行が、ペラをさして帰って行く。彼らを野のはずれの分かれ道まで見送ったフィリッポスは、皇子の馬上姿が見えなくなるまで手を振り別れを惜しんだ。
見返ると、学問所の白い建物が、森を背負って遠く小さく日に輝いている。その懐かしい三年余の学舎のたたずまいを胸深くしまうと、フィリッポスは一人、遠い遊学の旅路についた――。
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