Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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1 豊臣秀吉による半島侵略
「希望の世紀へ 宝の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)
前後
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五百年にわたる友好関係
趙
高麗がモンゴルの支配下で弱体化し、海賊・倭冠が盛んになると、室町幕府に取り締まりを要請するための高麗の使節が日本にやって来ました。
つまり、倭冠は両国の悩みの種であると同時に、一面では「友好交流の促進剤」でもあったのです。
「通信使」という言葉を初めて使ったのは、朝鮮王朝の成立後、一四二八年の使節からのようです。
池田
予想以上に古いおつき合いだったわけですね。
趙
ここで強調したいのは、「通信使」が誕生してから十九世紀末までの四百数十年間、いえ、高麗時代から考えれば五百年以上の長きにわたる間、長い目で見れば韓国と日本は極めて友好的な関係であり続けたという事実です。
多人数の使節団単位では、すべての通信使を数え上げても二十回ほどでしょうが、当然、使節はそれがすべてではなく、小規模のものなら数え切れないくらいの記録が残っています。
秀吉の侵略の話が多かったので、逆説的に聞こえてしまうかもしれませんが、こんなに長い時間をかけて、こまめに使節を行き来させた国と国は、他にないのではないでしょうか。
秀吉の侵略はむしろ、長い友好の時代の中で、ほんの短い期間で最悪の関係となってしまった、特殊な事例とも捉えられます。
加えて二十世紀の前半は、両国が最も不幸な関係に陥るわけですが、それもこの友好の時代に出べたら、長さとしては「十分の一」にも満たない期間なのです。
池田
寛大なお心です。私もお会いしたき貴国の元文化相の
李御寧
イオリヨン
先生は、「朝鮮通信使」をはじめとする韓半島との文化の往来が、江戸時代の日本を「武力主義」から「文化主義」へと変えていったと考察されていました。
具体例として挙げておられたのは、関ケ原の戦いの時、日本には十万丁の鉄砲があったという事実です。
十万丁といえば、当時の「ヨーロッパのすべての鉄砲」を集めた数より多い。
その日本が、江戸時代になって、鉄砲を使わなくなりました。
李先生は、こう指摘されています。それは幕府が、「文化主義」「教養主義」に、生きる道を見いだしたからである。刀や鉄砲を使わなくても、「文の力」で治めることができるーーと。
その劇的な変化の背景に、韓半島との文化交流があったと指摘されているのです。
歴史を検証すれば、悠久の友好の時代は、確かに長く続いていた。
ただ、両国民が、それを「忘れつつある」時代となってしまった。
もう一度、受け継がれてきた友好の絆を呼び覚ますには、「朝鮮通信使」の歴史を、もう少し掘り下げて検証することが必要ですね。
趙
そうですね。
とくに「朝鮮通信使」の往来が、最大の規模で
行われるころーー雨森芳洲と
申維翰
シュンユハン
、そして新井白石らが織りなす交流史は、もう一度深く、語り合いたいと思います。
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