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日蓮大聖人・池田大作

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3 「歴史の真実」を語り継ぐ心  

「希望の世紀へ 宝の架け橋」趙文富(池田大作全集第112巻)

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1  好評だった「日本と韓国の学生友好展」
 この春(二〇〇二年四月)に横浜でスタートし、日本全国一五十会場を巡回している「日本と韓国の学生友好展」が、好評を博しています。
 創価学会の学生部が、両国友好の「宝の橋」を架けゆくことを願って企画し、制作したものです。漢字、仏教、稲作など、韓・朝鮮半島を通じて日本に伝わった文化を紹介したコーナーをはじめ、江戸時代における友好交流、日本による侵略と植民地支配の実態などがパネル展示されています。
  それは、すばらしい企画ですね。
 何より、若い世代の人たちが取り組まれたことに、大きな意義を感じます。
 池田 この展示では、韓日両国の百二十大学で実施した「平和意識調査」の結果も紹介されていますが、興味深い内容となっています。
 互いの国の人と「親しい友人として付き合えるか」との問いでは、「できる」「ある程度できる」と日本の九割が答えたのに対し、韓国では四割でした。
 また、「両国の友好推進に最も必要なこと」について、韓国の半数近くの学生が「歴史認識問題の解決」を挙げていることが、特に注目されます。
 先日(二〇〇二年五月二十五日)も、韓日両国の政府によって設立された「歴史共同研究委員会」の初会合が開催されましたが、歴史認識は、両国の間で長らく懸案となっている課題です。
 これまで日本は歴史認識の問題で、貴国をはじめアジア諸国との緊張を高めるケースが多かっただけに、今後進められる共同研究がそれを乗り越えるための一つの礎となればと願っています。
 私は、アジアの平和を築くためには、「青年交流の推進」と「歴史の共同研究」が欠かせないと考えてきました。
 そのための取り組みを、民衆レベルで幅広く進めていくことが重要であることを、一月(二〇〇二年)に発表した平和提言でも強調したところです。
  私も、会長が言われた二つのポイントこそ、両国に永遠の友好を育むための柱となるものと思います。
 池田 ありがとうございます。
 貴国には、伝統的に「歴史」を大切にする精神があります。日本も、これに学ぶべきです。
 ”独立運動の父”である安昌浩アンチャンホ先生は、歴史を「建築」にたとえて、こんな言葉を残されていますね。
 「建築では、一度間違うと、その過ちはいつまでも残るものです」
 「歴史に少々寛容なのは寛容とは言えません。それは無責任なのですから、寛容な人のほうが間違った仕事をする人よりももっと罪があるのです」(李光沫『至誠、天を動かす』具末謨訳、現代書林)
 正しい歴史を知らねばならない。だからこそ安昌浩先生は、「教育」に最大の情熱を注がれた。偉大です。
 安先生と同時忙を生きた、私ども創価学会の牧口初代会長も、社会の悪に対し傍観者であることを、常に戒められていました。
 教育者の姿勢についても、「正邪善悪を識別せしめることを以て第一の職とする教師の地位にあって居ながら、自らその本質に背馳した行動を敢てしてんとして自覚せざるが如きは、真にそれこそ教師の職を冒涜するものといはねばならぬ」と述べていたのです(『牧口常三郎全集』6)と述べていたのです。
  厳しい言葉ですが、牧口会長のお気持ちは、よく分かります。私も、そう心がけてきました
 教育者は、子どもたちの「生命」と「未来」を預かるのですから、それだけの責任があります。
 池田 教育には、人間を善にする力も、悪にする力もある。だからこそ、教育が大事です。
 私も子どもの頃、軍国教育の空気の中で、一時期、少年航空兵に志願しようと思ったことさえありました。父に厳しく諭され、思いとどまりましたが、悪しき教育の恐ろしさは、肌身で知っています。
 終戦後、そうした軍国教育は一掃されましたが、違つた面での問題が起きています。
 「受験教育」の影響もあるのか、学校で歴史をきちんと学ぶ機会が減っているのです。
 高校でも、日本史は基本的に選択科目となっており、また歴史の授業があっても、近現代史を学ぶ時間が十分でない場合も少なくないようです
 若い世代が過去の歴史をしっかり学ばずして、どうやって平和な未来を描いていくことができるのかーー。実に心配なことです。
  残念ながら韓国でも、カリキュラムや時間数の関係で、植民地時代の歴史まで授業が間に合わないケースが増えているようです。
 池田 そうでしたか。その意味では、学校だけでなく、大人たちが責任をもって歴史を語り継いでいく取り組みが重要ですね。
 私はこれまで、スピーチなど機会あるごとに、青少年たちに、日本が過去に行なってきた侵略の事実や、アジア各国の豊かな文化や歴史を語ってきました。真実を見按く眼を養ってほしいとの思いからです。
 趙博士との対談が、次代を担う青少年たちが真摯に歴史を学んでいくための契機となればと強く願うものです。
2  明治政府の「征韓論」と江華島事件
 池田 江戸時代に「交隣」関係を築いていた日本が、なぜ「侵略」の方向に傾いていってしまったのかーー。
 その背景としてよく指摘されるのが、「征韓論」です。武力によって朝鮮を支配しようという「征韓論」は、慎重派の反発によって、積極派の西郷隆盛らの下野を招いたように、当時の政府を二分するほどの深刻な対立を引き起こしました。
 しかし、これに反対した人びとも、国力をつけた上での近隣諸国への侵略を視野に入れていた点では、変わりはなかったと言われています。
 幕末の尊皇嬢夷思想の影響もあり、そうした姿勢は、江戸幕府が大政奉還し、明治政府が誕生した時から、すでに表れていました。
 明治に入り、日本が初めて貴国に図書を送った際(一八六八年)、、従来の格例を一方的に変えて、日本を朝鮮の上位に置くかのような表現を用いたことなどは端的な例の一つでしょう。
  確かに、従来、中国の皇帝だけにしか使われることのなかった「皇」や「勅」の文字が、国書の中で日本の天皇に適用されていたことは、朝鮮国王を日本の天皇に臣隷化させようとする意図があるのではないかとの疑念を抱かせるものでした。
 当時、鎖国体制をとっていたわが国は、江華島に侵入しようとしたフランス艦隊やアメリカ艦隊を「洋夷」として打ち払う行動をとっていましたが、日本は、かねてからの「交隣国」と見なしていたのです。
 それだけに日本の国書は、こうした交隣関係を打ち壊すものとして捉えられました。
 とうてい、受理できるものではなく、日本に国書の改訂を求めましたが、折り合いがつかず、交渉はその後、数年間にわたり続けられました。
 池田そうした膠着状態の中で起こったのが、一八七五年の「江華島事件(雲楊号事件)」ですね。
 江華島に接近した日本の軍艦・雲楊号が砲撃を受け、反撃のために上陸し、殺傷行為を行なった事件です。
 この事件が、日本の計画的な行動によって引き起こされたものかどうかは見解が分かれるようですが、日本側はこの事件を口実にして、かつて欧米諸国から押しつけられたものと同じような不平等条約の受諾を、貴国に迫りました。
  事件の翌年には、「日朝修好条規(江華島条約)」の締結を余儀なくされ、以来、アメリカ、イギリス、ドイツといったように、列強諸国から相次いで条約の締結を迫られるようになりました。
 この「開国」に伴い、十分な準備のないまま、不平等条約のもとで貿易することを強いられた結果、わが国の経済は大打撃を受けることになりました。
 米などの穀物も、日本に大量に輸出されることになり、深刻な食糧難に陥ったのです。
 池田 幕末の開国以来、西欧の列強と不平等条約を結んだ日本は、「治外法権」の制度などによって、何度も苦汁を飲まされてきました。
 しかし、その経験を戒めにすることなく、貴国にそれを同じように押しつけた。当時の時代状況はあったにせよ、非道と言うほかありません。
 米など穀物の輸入も、日本で大凶作が続いた時期(一八八九年~九〇年)には、その横暴ぶりがとくに目立ったと言われています。
 同じく凶作で苦しんでいる貴国の人びとから、まるで奪い取るかのように、強圧的な”買いたたき”が行なわれ、安価に輸入した米を日本で高値で売って、莫大な利益を得た商人も多かったといいます。
3  「日清戦争」の戦場となった韓半島
  そうした経済の混乱の中で、わが国では、たびたび民衆による蜂起が起こりました。
 国家財政の悪化で税金の取り立ても厳しくなり、とくに農民の間で不安や不満が極限に達していたのです。なかでも最大のものは、一八九四年二月に始まった「甲午農民戦争(東学党の乱)」でした。
 最大の穀倉地帯であった全羅道チョルラ古阜コブ郡に端を発する農民蜂起は、またたくまに全羅道全体に広がり、農民軍はソウルにも迫る勢いとなりました。
 そのため、政府は急速、清(中国)に鎮圧のための援軍を求めましたが、このことを知った日本は、要請もないのに、清軍に対抗するような形で、ただちに軍隊を派遣してきたのです。
 政府は、最悪の状態を防ぐために、農民軍と内政改革を約束する「全州和約」を結び、清と日本の同時撤退を求めました。
 清はこれに応じ、日本にともに撤退することを呼びかけましたが、日本軍は駐留を続け、八月に清に宣戦布告し、日清戦争が始まったのです。
 池田 招かざる日本の出兵は、貴国の人びとにとって侵略以外の何物でもなかったはずです。
 しかし当時の日本では、日清戦争は、清の圧政に苦しむ貴国の人びとを救うための戦争であるかのように喧伝されていました。
 近代日本を代表する知識人の一人であった内村鑑三も、「日清戦争の義」と題する英文を発表し、その正当性を国際社会に訴えていたほどです。
 ただし鑑三は後年、強い自戒の念を込めて、日清戦争は「不義の戦争」であったと見解を改めました。
 そして、こう書き記したのです。
 「日清戦争は其名は東洋平和のためでありました、然るに此戦争は更らに大なる日露戦争を生みました、日露戦争もまた其名は東洋平和のためでありました、然し是れまた更らに更らに大なる東洋平和のための戦争を生むのであらふと思ひます」(『内村鑑三全集』13、岩波書店)
  内村鑑三の指摘のとおり、日清戦争の後も、わが国は、日本をはじめ列強諸国の脅威にさらされ、戦火が新たな戦火を呼ぶ困難の時代が続きました。
 日清戦争に勝利したものの、ロシア・フランス・ドイツによる「三国干渉」によって戦争で得た権益を手放すことになった日本が、わが国に対する支配をめぐってロシアと対立するようになりました。
 この時、高宗コジョンの王妃であった閔妃ミンピを中心に、ロシアを頼ろうとする動きが強まったのですが、これに反発した日本が一八九五年十月、宮廷内の紛争に見せかけて、閔妃を殺害する事件を起こしたのです。
 ソウルの日本公使は否定しましたが、二人の西洋人の目撃者がいたため、日本の関与は明白となり、否定できないものとなりました。
 この事件をきっかけに、反日感情が一気に高まりました。一方で、民衆の啓蒙と国権回復を目指す新たな政治勢力である「独立協会」が発足し、亡命先のアメリカから帰国した徐載弼ソジェビルによって「独立新聞」も発行されるようになりました。
 国内に独立思想が広がるにしたがって、国王・高宗は、従来の中国との関係を改める意味で独自の元号を建てたあと、「大韓帝国」を国号とすることを宣布しました。一八九七年十月のことです。
 しかし、日本とロシア双方からの脅威は、一向に去ることはありませんでした。
4  日露戦争と『人生地理学』のビジョン
 当時、日本は韓半島を足がかりにして、中国の東北地方への進出を目指していました。
 それだけに、一九〇〇年、東北地方で起こった「義和団」の蜂起を鎮圧するために出兵した日本とロシアは、その後の支配権をめぐって激しく対立するようになりました。
 その後、イギリスと同盟を結んだ日本は、次第にロシアとの戦争準備を強めていきました。
 一九〇四年二月、日露戦争が始まると、日本は仁川から軍隊を上陸させるとともに、中立を宣言していた貴国に戦争協力を強いる議定書の締結を迫りました。
 その上、日本は戦争に乗じて、貴国に対する植民地支配の道を開こうとしたのです。
  おっしゃるとおり、日露戦争を乗じて、わが国は日本に主権を次々と奪われるようになりました。
 まず、八月に締結した「第一次日韓協約」によって、政府は日本が推薦する人物を財政顧問と外交顧問に就けねばならなくなりました。
 そして翌年、戦争に敗退したロシアが、わが国に対する日本の指導・保護・監理の権利を認めた後、「第二次日韓協約(乙巳ウルサ保護条約)」で、わが国のすべての外交権は剥奪されたのです。
 これは、日本の憲兵隊が包囲する中で迫られた条約であり、その結果、一九〇六年二月には、日本の統監府がソウルに置かれることになりました。
 しかし、日本はこうした保護国化だけで満足したわけではありませんでした。
 池田 明治期以降の「富国強兵」路線が、どれだけ貴国をはじめとするアジアの国々の人びとを苦しめ、平和な生活を踏みにじったのかーー日本人は、真摯にその事実を見つめなければなりません。
 当時、こうした時代相を、「虎視耽々、いやしくもいささかの罅隙かげきあらば、競いて人の国を奪わんとし、これがためには横暴残虐敢えて憚るところにあらず」(『牧口常三郎全集』1)と鋭く批判し、弱肉強食的な世界からの脱却を訴えていたのが、創価学会の牧口初代会長でした。
 牧口会長は日露戦争が始まる前年の一九〇三年に、『人生地理学』を著し、世界を跋扈する帝国主義を「国民的利己主義」と非難し、国家の最終目的は「人道の完成」にあらねばならないと強調しました。
 そして、他者の犠牲の上に成り立つ幸福や繁栄ではなく、自他ともの幸福と繁栄を追求するための「人道的競争」のビジョンを世に問うたのです。
  牧口会長の先見的な思想は以前もうかがいましたが、本当にすばらしいものです。
 私も教育者として、青年たちに、”他人のため””社会のため”に生きるべきであると訴えてきました。
 以前、韓国の「新教育新聞」に、次のような言葉を寄せたことがあります。
 「青年たちよ! 世の中を広く見て、多くの存在に恩恵を施すことができるよう、高く飛翔せんと思索し、苦悩せよ!
 人のために苦悩できず、自分のためだけに生きようともがく人生は、下等動物のように結局は他人の餌食になってしまい、自分のためにもならず、その人生は無価値なものとなる。
 遠い将来を考え、深刻に苦悩することができず、今日のことだけを考える人生は、他の下等動物のように自身の運命を予測できず、今日という一日をも無価値なものにしてしまうのである。
 したがって青年は、自分をもとに、他人のために生きようと苦悩した時にこそ、力が湧き、人間として生まれた真の幸福を感じるのである」と。
 池田 すばらしいメッセージです。博士が、どれだけ青年たちの未来を思われ、教育に心血を注いでこられたかを、凝縮した言葉だと思います。
  過分なお言葉です。
 私のことはともかく、牧口会長のビジョンは、二十一世紀の人類にとって重要な指針だと思います。
 牧口会長が指摘されたように、二十世紀初頭の国際社会は、帝国主義による植民地支配が広がる中で、列強諸国の利害が衝突していた時代でした。
 一九〇七年六月、オランダのハーグで行なわれた「万国平和会議」は、こうした対立を平和的に調整しようというものでした。わが国でも高宗が使者を派遣し、日本の侵略行為を世界に訴えようとしたのですが、韓国には外交権がないとされたため会議に参加することはできませんでした。
 日本で「ハーグ密使事件」と呼ばれているものです。伊藤博文はこれを口実にして、翌月、高宗を退位させ、新たに純宗スンジョンを即位させました。
 譲位式は、新旧の皇帝のいずれもが参加せず、代理によって行なわれた、きわめて異例のものでした。
 その上、日本は「第三次日韓協約(丁未七条約)」を結ばせ、内政権を全面的に掌握するとともに、韓国の軍隊を解散させました。
5  独立運動の闘士ーー安重根アンジュングン安昌浩アンチャンホ
  こうした日本の動きに対し、各地で義兵闘争が広がり、一九〇九年十月には、安重根義士がハルピン駅で伊藤博文を暗殺する事件が起きました。
 池田 貴国では、安重根は独立の義士として崇敬されてきました一方、日本では伊藤博文は初代総理大臣として千円札紙幣の肖像に選ばれていたこともあるーーここに、貴国と日本の歴史観の違いが象徴的に出ていると思います。
 私は青年時代、安重根についての本を読んで、鮮烈な印象を受けたことを覚えていますが、博士はどう評価されますか。
  未完に終わった「東洋平和論」をはじめ、優れた思想をもっていた安重根義士が、危地にあった祖国を救うための最後の手段として暴力に訴えるほかなかったというのは、時代の悲劇と言わざるをえません。
 以前も申し上げたとおり、同時代にあって、「興士団フンサダン」などの結成を通じて民衆教育によって国を興そうとした安昌浩先生の生き方に、私は強く共感します。
 私自身が教育者ということもあるのでしょうが、安昌浩先生は、私が模範とする人物です。
 池田 安昌浩先生といえば、生前の伊藤博文が独立運動の中核を担う安先生を懐柔しようとして、一蹴されたエピソードが伝えられていますね。(前掲「至誠、天を動かす」)
 韓国の再建に助力したいと申し出た伊藤に対し、安先生は、”韓国を助ける一番の方法は、韓国人自身の手で改革を進めることである”と断言された。
 そして、「明治維新をアメリカ人がきてやらせたとしたらあなたはどう思うか。私は明治維新は成就しなかったと信じる」と鋭く切り返しました。
 また、この時、安先生は「日本が列強諸国の敵となり東洋の諸民族の敵となることを自分は憂うる」との諌言をされた。日本の未来を予見した言葉でした。
 後に、中国の孫文も、逝去の前年(一九二四年)に日本を訪れ、「西方覇道の手先となるのか、それとも東方王道の干城(=守り人)となるのか」との警告を行いました。日本の為政者は、こうしたアジアの賢人たちの言葉に、最後まで耳を傾けることをしなかった。
 その結果、軍国主義の道を突き進んだ日本が、どれだけアジアの人びとに塗炭の苦しみを与え、亡国への末路をたどったかーー。
 この過ちを正そうとして立ち上がった、牧口初代会長と戸田第二代会長が投獄され、牧口会長が獄中で生涯を閉じたことは、以前、ご紹介したとおりです。
 この愚かで悲惨な歴史を、二度と繰り返してはならないという決心で、私どもは行動していたのです。
  池田会長をはじめ、SGIの皆さんが取り組まれている平和運動に、私も深く共鳴します。過去の歴史は過去の歴史として、未来を見据えた建設的な行動が重要だと考えています。
 二十一世紀の人類の勝利のために、互いに尊重し合いながら平和のための連帯を強めていくーー時代をこの方向へ、韓国と日本の国民が手を取り合って、世界を先導していくべきだと思うのです。
 池田 博士の寛大なお心に胸を打たれました私もまったく同感です。
 しかし日本人は、博士のような韓国の方々の寛恕に、甘えていてはならないと思います。「過去の歴史」から、目を背けることは許されないのです。
 アジアの平和を強く願われていた師の戸田第二代会長は、近代の日本の行動は、「その国の繁栄を共にしようとした」ものではなく、自らの侵略的精神に発していたものであると厳しく批判していました。
 そして、日本という一国の繁栄だけでなく、日本の民衆が、韓国の民衆や中国の民衆とともに手を取り合って、「平和」と「幸福」の道を切り開いていかねばならないと力説していたのです。
 私は、この師の心を”わが心”として行動してきました。博士との対談を通じて、その心を青年たちに託したいと願っています。

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