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日蓮大聖人・池田大作

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(三)  

小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)

前後
1  パリは眠りにつこうとしていた。春はまだ浅く、街全体が、次第に深まりゆく夜霧に閉ざされようとしていた。
 パリの西端に位置するパシー界隈は、市央部とは違って、なお一層ひっそりと静まり返っている。その一角に、鉄さびがこびりついたような大きなよろい戸をもつ白壁の建物がある。シェニエが、その奥に身を潜めていた。親友フランソワ・ド・パンジュが傍らにいる。建物は、ド・パンジュが、仲間達との秘密の連絡場所としていたもので、シェニエも、ほんの時折、姿を見せていた。
 シェニエは、生きていたのである。ヴェルサイユ潜伏中に、人知れず世を去ろうという衝動に一度はとりつかれた彼であったが、今や、その考えをきっぱりと捨てていた。
 「革命とは、人間を生かすためのもの」――あの農夫の言葉が、いつまでも耳朶にこびりついていた。そして、日を経るにつれて大きな叫び声となって胸に反響し、自分に生き続けることを促すのであった。彼は、自分が決めた本来の道――詩人たる人生を、一日でもよい、自分の決めたままに生きよう、と思っていた。あたかも蜜房に閉じこもった蜜蜂のように、己がひっそりと生きているその狭い場所でもよい、精いっぱい生きられるだけ生きようとした。そして、少しずつ蜜をたくわえて、やがて美しい愛と、悲しい運命の予感とに充ちた長編の叙情詩「ファニー」が結晶した。また、なかば廃園と化したヴェルサイユの宮殿の庭や周囲の自然からインスピレーションを汲んで、己と祖国の行く末を嘆じ、正義と弾劾とに充ちた、美しく、力強い詩を書いた。後に、フランス・ロマン派の先駆とたたえられる叙情詩は、こうして、苦悩する詩人のペンの先から紡ぎ出されていった。
 近くの教会の鐘が、低く、十時を報せた。
 「いよいよ、くるところまできてしまったね。ジャコバンは、今や、血に飢えた巨獣と化してしまった」
 ド・パンジュが、気品のある顔を曇らせて、嘆息して言った。
2  この夜、二人は、幾週間ぶりかで再会したのであった。
 コレージュ・ド・ナバール時代から無二の親友であったド・パンジュの、思慮深さと熱情とをあわせもった性格も、古典詩への傾倒という文学的趣味も、シェニエとよく似ているところがあった。夏の休暇を、シェニエはド・パンジュの実家で過ごすことが多かった。それは、ゆるやかに流れるマルヌ川のほとりにある、いかにも上流階級らしい壮麗な館で、その辺りの広々とした自然とともに、シェニエの少年時代の忘れがたい想い出になった。やがて、二人は革命の渦中に身を投じてからも、大義と友情の絆を分かち合い、励まし合う、いわば勇気と高貴の心で結ばれた友であった。
 小さな卓上の燭台の薄明かりが、二人を近づけ合っていた。
 この頃、革命政府を取り巻く情勢は、常に破局の危機をはらみつつ、ますます混沌たる様相を深めつつあった。
 先に触れたように、一七九三年六月、ジャコバン派を支持する国民衛兵軍と、武装した市民とをあわせて八万人の勢力が、国民公会を包囲して威圧し、それまで革命政府を動かしていたジロンド派を放逐するというクーデターが起きた。このとき、ジロンド派は二十九人が逮捕され、他の要人も地方へ逃亡するなどして、壊滅的な打撃をこうむった。これにより山岳党独裁が、確立されるとともに、いわゆる恐怖政治が始まることになる。
 当時、国民公会のなかで革命を真に擁護するただ一つの党を呼号していたのが山岳党であったが、なかでもジャコバン派が最も有力であった。山岳党というのは、公会の議場にあって、次第上がりになっている議席の上部の方を占めていたことから、そう呼ばれた、革命急進勢力の寄り合い所帯であった。
 同時に、フランス内外に、危機は高まる一方であった。事実上の革命政府である国民公会に対して、ブルターニュ州、ノルマンディー州などの保守的な六十の県で反乱が起きており、内戦が危惧された。また、オーストリア、プロシア、イギリス、スペイン、サルジニアといった外敵が、国境のほぼ全線にわたり侵入を開始していた。
 七月に入ると、“人民の友”と呼ばれて人気のあった山岳党の要人マラーが、ジロンド派の影響をうけた女性シャルロット・コルディに暗殺されるという事件が突発した。
 この月、ジャコバン派の指導者ロベスピエールは、革命政府をとりしきっている公安委員会の委員となり、権力を掌握した。
 飢饉が全土に蔓延し、物価は暴騰して各地に騒擾が絶えず、これに対処して「買い占め」に関する法律が定められ、違反した商人を死刑にするなど、経済上の恐怖政治が打ち出された。
 九月、「反革命容疑者に関する法律」により、“自由の敵”“国民の敵”を一掃する権限が、政府に与えられた。これにより、恐怖政治は急展開を見せることになる。
 十月、ロベスピエールは、「正義によって治めえぬ人々に対しては、剣をもって治めざるをえない」と演説した。
 この月の十六日、旧王妃マリー・アントワネットがついに処刑された。三十一日、ジロンド派においては、その最高指導者十九人が処刑され、残りの逃亡中の要人も、各地で裁判なしで処刑され、あるいは自殺した。
 十月から年末にかけて、政治犯百七十七人が処刑された。
 だが、この頃から山岳党自体の内部にも猛烈な分派闘争の亀裂が生じていた。ロベスピエールは、革命勢力内に「穏和主義」と「過激主義」の二つの危険があることを指摘して、弾圧のすそ野は広がる気配を見せた。
 翌年二月、ロベスピエールは「革命時にあっては、徳と威嚇との二つが基礎となる」と演説して、恐怖政治による統治に不退転の意志をあらわしている。
 「過激主義」のエベール派が、ロベスピエールと、「穏和主義」のダントンの一派とを、ともに批判していた。こうして、ロベスピエール、エベール、ダントンの三者入り乱れての党派内抗争が、熾烈を極めるところとなった。
 シェニエとド・パンジュが密会したのは、この頃――一七九四年三月七日の夜のことであった。
3  「ああ、パリは、まるで墓場じゃないか」
 ド・パンジュが、憂鬱そうに言った。
 「ジロンド派のロラン夫人が、去年の十一月に処刑されたが、刑場に行く道すがら夫人が“おお、自由よ、汝の名の下にいかに多くの罪が犯されたことか”と言ったと、巷間に伝わっているよ」
 ド・パンジュが、そう付け加えて、肩で大きく息をした。シェニエ自身の周辺でも、親しい友人が一人また一人と、反革命活動のかどで投獄される者が相次いでいた。
 ド・パンジュが、更に言葉を続けた。
 「ロベスピエールは、たしかに、国王の処刑をもって最後の死刑とすることを表明していた。彼は元来、流血と暴力をきらっていた男だった。それは、僕もよく知っている。しかし、それが、急速に変貌してしまった。今のところ、パリの民衆は、沈黙している。いや、沈黙しているように見えるが……」
 シェニエは、おし黙ったままだった。ド・パンジュひとりが熱弁をまくしたてた。
 「民衆は、結局、自らの欲することを成し遂げるだろう。民衆を、世論を、傲慢にも煽動によって自分の思うがままに従えているように見えても、それは幻想にすぎない。民衆は、自らの意思に従うだろう。彼らは、民衆の味方として振る舞っている。そう見せている。しかし、彼らが、本当に民衆を代弁しているのか?この激しい党派争い――それが必ずそうであるように、個人的な争いに発展してしまったが――その手段に、民衆が利用されているとしか僕には思われないのだ」
 二人は、互いの目の前にあるろうそくの灯のかすかな揺らめきを見つめていた。
 ようやくシェニエが重い口を開いた。
 「人間と人間とを反目させるような革命、血を血で洗うしか解決の道がないような革命――。そうではなくて、もっと大きく、もっと深く、人間と、社会を、人間のあらゆる営みの根本を変革していくような――そういう革命というものはないものだろうか。僕は、そんなことを、夢を見るように考えてしまうのだ」
 「…………」
 「この戦いのなかから、何が残るだろう。そう、法の尊さは残る。国家は残る。そして、ああ、あの『人権宣言』――これこそが理想だ。人間の権利と、自由と――。これらは、現実には踏みにじられているわけだが、その理想の光明だけは少なくとも、擁護すべきものとして高く掲げられたのだ。これこそ、人類の宝鑑としていつまでも光を失ってはならないものだろう……」
 「そうだ。彼らは、遅かれ早かれ、民衆に見放される。民衆は、もういや気がさしてきている。もう疲れているんだ。この革命闘争も、かれこれ五年になるのだもの。きょうの友も、明日には敵になるような、めまぐるしい激流の五年だった。そのどんづまりの末期症状としてやってきた恐怖政治が、おそらくは返り血を浴びるようにして破綻するのも時間の問題さ」
 ド・パンジュが、こぶしをふるってそう言った。
 「それは、その通りだ。でも、それでも、僕は、この暗闇の中に光明が潜んでいることを信ずる。たしかに夜明けは開かれたのだ。今こそ、黎明のときなのだ。僕は、人間の心の中に、夜明けがくることを信ずる。……そのために、もう、とうに覚悟を決めていたんだ。僕は殉教者になる」
 「うん、僕にだって、その覚悟はできているさ。ルソーも言うように、“敵の嘲罵は、勝利者たちの行列につきまとう皮肉のこもった喝采”なのだ」
 ド・パンジュが、力を込めて応えた。
 「殉教――。これこそ、永遠の自分自身への勲章だ。この、遠い世紀への過渡期という激変する時代の、見定めがたい潮流の中に手足をとらえられ、自分を見失ってしまった人々を、僕は、死に臨む瞬間に、大きく許してあげよう。それまで、その瞬間まで、僕はたたかう。それまでは、僕はひるまない、自分を信ずるがゆえに――。審判は、長い歴史が、そして絶対の摂理がなしてくれるだろう。僕は、ただ、信ずるままに生き、たたかうのみだ。何をもって?そう、ペンという、詩という剣をもって」
 シェニエの語気も、次第に熱を帯びていった。
 蝋涙がしたたって、長く伸びていた。森閑として深まりゆく夜の闇が、部屋の内からも感ぜられた。
4  突然、ド・パンジュが、顔をこわばらせた。
 「しっ、静かに! 誰か来るぞ」
 シェニエも、表通りに聞き耳をたてた。
 「少し離れたところに、馬車がそっととまる音がしたのだ。ほら、足音が近づいてくる」
 ばらばらと乱れた足音が近づき、建物の前でぴたりとやんだ。
 「アンドレ、すぐ裏口から避難しよう! 追っ手かもしれない」
 ド・パンジュがそう言い終わらないうちに、鉄の扉をどんどん叩く音とともに、どなり声が聞こえた。
 「開けろ、開けろ! この中に、シェニエが潜んでいるはずだ。開けないと、扉をぶち壊しても、入るぞ!」
 その瞬間、シェニエは覚悟を決めていた。なぜか自分一人だけの名が求められていることが、幸いにも思えた。二人で逃げれば、二人ともつかまるかもしれない。
 この急場では、犠牲者を自分一人にとどめることこそ賢明だ。自分が、ド・パンジュの逃走のために、時間をかせぐのだ――。
 シェニエは、とっさにそう判断すると、ド・パンジュを秘密の裏口へとせかした。
 何気ない壁の一部が、強く押すと外へ通ずる出口になるのだった。
 「アンドレ、一緒に逃げよう、早く!」
 ド・パンジュは、シェニエの手を引いて裏口から抜け出ようとした。その手をふりほどいたシェニエは、抗うド・パンジュの体を渾身の力でぐいと押し出しながら、言った。
 「さよなら、フランソワ。これが、最後の別れと決まったわけでもない。きっと、いつかまた会える日がある。それまで、しばしのお別れだ。さようなら、わが友!」
 名残の言葉をそれだけ言うと、シェニエは、すばやく壁を元に戻して裏口を閉ざし、それから正面の入り口へと、ゆっくりと歩いた。
 扉を開けると、外には、猛々しく肩をいからせた数人の男の姿が、部屋の内から漏れ出る薄明かりの中に浮かんだ。いずれも、毛糸の赤い帽子に、カルマニョルという短い上衣を着たサン・キュロットのいでたちで、槍や銃を手にしている者もいる。
 「君が、アンドレ・シェニエか? 私は、この地区の警備を務めている市民のグエノという者だ。パシー地区委員会から、君を、反革命容疑者として逮捕するよう指令をうけている。一緒に、委員会まで来てもらいたい」
 いつか来るべき時が来たのだ。
 シェニエは、いささかも動揺の色を見せずに言い放った。
 「いかにも僕が、アンドレ・シェニエだ。グエノ君、君の来意はよく分かっている。さあ、すぐに僕を連れて行きたまえ」
 ド・パンジュに累が及ばぬよう、グエノと名乗る男とその徒党を、自分にひきつけて、一刻も早くこの場を去らせる必要があった。
 「よろしい」
 グエノらは、部屋へ踏み込んだものの、簡素で狭いその場所に人影らしいもののないことを認めると、シェニエを取り囲んで表へ出た。時ならぬ物音に、周囲のアパルトマンの高い窓のいくつかがぱたんと開いて、明かりとともに住民の顔がのぞいた。
 シェニエは、近くにとめてあった馬車に乗せられた。その闇の中に消えていく車輪の音を、物陰から、目にいっぱい涙を浮かべて去りがたく見送るド・パンジュの黒い影があった。
5  ひとまず、シェニエは、パシー地区委員会の建物の一室に拘留された。容疑者がつかまると、いつもこの部屋が使われるのだろうか、片すみに狭い木のベッドが置かれてある。そこに、シェニエは疲れた体を横たえた。入り口の小さな扉の切り窓からは、廊下側からほの暗い明かりが射し込んでおり、そこから、時折、赤い帽子をかぶった、見張りらしい男の顔がのぞいた。
 (ド・パンジュは、うまく逃げてくれたろうか……)
6  革命の渦中に身を投じてから、四年がたっていた。シェニエの熱いまぶたに、それらの想い出が次々と浮かんでは消えていく。
 あの砂を噛むように無味乾燥な、ロンドンで過ごした日々――。一七八七年十二月から、シェニエは、ド・パンジュ家の紹介により、ロンドンのフランス大使館で、書記官として二年間働いた。そこでの生活は、まるで国外追放にでもあったような気分だった。懐かしいフランスの自然も、友人も、温かな家庭からも遠く、ただ文書の山と、分かりにくい帳簿の処理に追われた。英語をしゃべるのも苦手だった。いつも、フランスへの郷愁にかられていた。
7  とりわけ、美しい、母親エリザベートの面影――。父親は、モロッコ領事を務めるなどで家を留守にしがちだったから、シェニエに対する両親の影響は、母親の方が強かった。才気にあふれる彼女は強いギリシャ趣味の持ち主で、話すことも、衣裳も、ギリシャのものが多かったし、家の中にはギリシャ産の調度や骨董品があふれていた。やがて、母がパリで開くサロンに、上流階級の人々やインテリが集まるようになったが、そこでの話題も、とかくギリシャ趣味のことに落ち着くことが多かった。シェニエが、ダヴィッド――新古典派の巨匠とうたわれるに至る大画家――を知ったのも、母のサロンであった。シェニエの生地がコンスタンチノープルであったこともあり、すでに幼い頃からヘレニズム風に染まって育ったといえる。コレージュ・ド・ナバールでギリシャ・ラテン語の勉強に精を出し、ギリシャ古典詩や東方の文学に興味をもち、その影響が詩の中に強く見られるのも、そのためであった。
 ロンドン生活の鬱屈をなぐさめてくれたものは、やはりギリシャ、ラテン、ペルシャの詩や文学の書を読みあさり、詩作にふけることであった。
 時折、舞い込んでくる友からの便りも楽しみだった。
 あるときの来信が、シェニエの心に火をつけた。
 「とにかく、君の引っ込み思案は追い散らしたまえ。書くために生まれついた君よ。専心、ペンをとりたまえ。それこそが世に遺る唯一のものなのだ。いつも君が求められているところへと帰ってくれたまえ」
 シェニエは、なによりも詩人であって、政治家の肌合いではなかった。古代の世界や、自然や、友人達を想い、静かに甘美な夢にふけることが好きだった。だが、詩人であるがゆえに、その体内には熱情家の血も潜んでいた。
 長い王政に、倦み疲れきった祖国の人々。その魂を救うべき教会も、権威を失っていた。シェニエが、ロンドンへ行く気になったのも、高まる経済的・社会的混乱を収拾しえない王権政府に、フランスの変革という自分の夢を失ったことが手伝っていたのである。彼は、愛惜の思いを込めて、海の彼方からフランス社会の危機的な状況に鋭い目を注いだ。
 一七八九年五月、三部会招集の動きが始まり、やがて六月十七日に国民議会の成立へと至る。同月二十日、僧侶・貴族・市民の三つの身分が結束しての、いわゆる「球戯場の誓い」などの急速な改革の報が、ロンドンにも届く。二十七日には、国王ルイ十六世も三つの身分が合流した国民議会を認めることになり、ここに国民主権へと大きく歴史は転換した。このとき革命は、法律の面からは達せられたのであった。
 それは、長い冬、身をこごらせていた全ての生命が息吹き始めようとする、大自然の目覚めにも似ていた。絶対王制の歴史は、ついに終局を迎えたのである。シェニエの夢は、蘇った。
 胸の高鳴りをおさえきれないような感動を覚えながら、目くるめく事態の推移に、異国の都で想いを馳せた日々――。
 シェニエは、フランスの変革が、抑圧されているあらゆる国々を震撼させずにはおくまいとみた。人間解放の思想が、民族の解放におもむくことは間違いあるまいと考えた。あたかも大地を一新するがごとくに、ただちにヨーロッパ全体の新時代がもたらされるものと信じた。
 彼は、革命後のフランス社会の体制を、自分なりに思索し、結論していた。
 ――公正なる法、人間的なる法のもとに、自由と、法の上の平等、権利の平等が確立され、寛容と正義と徳がいきわたるような社会。政治の運営は、憲法を根本とし、その憲法は、国民が代表する議会がつくり変更もできること。そして、それらは王と人民との協調によって可能である。すなわち、人民主権のもと、王も市民であるとともに、フランスの愛と栄光と最高の誉れの友であり、人民とは緊密な信頼と誓いの絆に結ばれること。一方、人民の側は、愛国心の中に固く団結し、祖国と法と王とに忠誠であること――。
 すなわち、それは立憲王制主義の立場に立つ、一つのユートピアであった。そして、革命の混沌たる状況下では、ユートピアなるがゆえに、戦闘的な思想たらざるをえない宿命をもっていた。
 シェニエは、この政治革命が、“混乱もなく、悲惨もなく”達成されることを願った。
 八月四日には、貴族・聖職者の特権を廃止する諸法令が決議された。ここに、封建制は破壊され、法の前における万人の平等が確立された。
 二十六日には、「人間と市民の権利の宣言」――いわゆる「人権宣言」が採択された。
 だが、これと相前後して、革命は騒乱の様相を深くしはじめる。
 少し前の七月十四日には、パリの民衆がバスチーユ牢獄を襲撃して陥落させるという大事件が起きた。革命は、ついに民衆の決起を招き、それは燎原の火のごとく全土に波及していったのである。地方では、おおむね無血革命であったが、パリでは民衆による騒擾が起き始めていた。
 十月には、パリの女性達がヴェルサイユ宮殿へデモ行進し、流血をみた。
 こうした事件が、虚実ないまぜにした情報となって、ロンドンに届く。シェニエは、それら片々たる混乱の報せに、心を痛めた。
 「十九日に、パリに帰りました。お父さん。途中の船旅は、かつてない沈痛のものでした。僕の心は、パリへと急き立てられました。全パリが燃えているとの至急便がパリから来たのです。パリじゅうに、早鐘が鳴っている、と……」
 一七八九年十一月二十四日、シェニエがパリに帰ってすぐ父親ルイ・シェニエ宛に書き送った書簡の一部である。バスチーユ陥落から四カ月が過ぎていた。
 そのとき、シェニエは、二十七歳であった。
 ――シェニエは、更に革命騒乱の地パリを踏んでから二年有余にわたる自分の闘争を心の中にたどった。
 パリの路上に出て、すぐに気がついたのは、民衆を煽動して、革命の秩序を乱している者達の存在であった。たくさんの新聞が、パリの街上にまき散らされる。そこには、政治家達の政見や、議会のニュースが載っており、有力な政治家は、みなこの種の新聞をもっていた。世論は、それによって煽動されていることを、改めて自分の目で確かめた。民衆がどこに向かって走りだすかは、これら革命ジャーナリズムによるところが大きい。民衆の圧力を自派に利用しようとする偽善と、敵意や憎悪ばかりが目についた。
 シェニエは、このみずみずしい革命の精神が、やがて醜い党派争いと暴力の汚泥にまみれていく危険を直観したのであった。
 自分も、ペンをとった。革命の逸脱と暴政を、激しく攻撃した。詩人としては無名なのに、一かどの革命ジャーナリストとして、その“散文”が知られるようになった。発表した二十余りの“反革命的”な論文――。それらが当局に追及されることになるだろう。
 シェニエは、パシー地区委員会の一室の硬い木のベッドの上で、いつしかまどろみ始めた。その心の中には、「球戯場の誓い」と題して画家ダヴィッドに捧げた自作の詩が、切れぎれに浮かんでいた。ジャコバン派の礼讃者であるダヴィッドとは、今や政治的には対岸に立つ間柄であったが――。
8   ……………………
  おお 二度生まれた人民よ!
  一度は古い人民 一度は新しい人民!
  歳月を経て若がえった幹よ!
  墓の灰の中から蘇り出た不死鳥よ!
  そして、さあ貴男らも同じだ松明を掲げる人々
  我らの運命を指し示してくれる貴男らよ!
  パリは頼みの手をさしのべる
  我らが選んだ申し子達に!
  人民の父達に法の構築者に!
  貴男らは確固たるその手で
  全ての基本的な人権のうえに
  古くて純粋な人間の法のうえに
  自然とともに生まれた神聖なる権利のうえに
  永遠とともに生きてきたそれらのうえに
  人間のための荘厳なる法典をうちたてることもできるのだ!
  貴男らは全てを制圧し 身を縛られる束縛もない
  全て障害は貴男らの攻撃のもとに滅んだ
  かくして頂上をきわめた人々よ
  輝かしき貴男らの仕事は常に謙虚であれ
  恩人らよ、我らに報告すべきことは山ほどある
  手綱をひきしめよ 他者も自分も
  へりくだることを知れ
  ……………………
  人民よ! 全てが我らに許されるとは思いすごしだ
  君らの貪欲なへつらい者を怖れよ
  おお 主権者たる人民よ! 君の寛大な耳もとで
  凡百の口達者な死刑執行人が君の友だと名乗り出ている
  彼らは人殺しの火を口で煽りたてているのだ
  ……………………
9  それは、革命によって掻き立てられたシェニエの希望と興奮が、その後の醜い党派間抗争によって打ち砕かれた、その幻滅と警告をうたったものであった。とことんまで革命の根本精神に忠実であろうとした彼は、革命の秩序を混乱させる、民衆の不当な煽動者こそが真の敵であることを知っていた。
 (僕にとって革命とは実際には、開始することだけだったのか。ああ、この友愛の光にみちた大叙事詩と、低劣なる人間の狭量、弱さ、策謀、醜さと……)
 シェニエは、牢舎の天井の黒い闇を見つめて、大きく嘆息した。
 シェニエが革命ジャーナリストとして登場したのは、一七九〇年八月、「ジュルナル・ド・パリ」紙に寄せた「フランス人民に告ぐ――真実の敵について」と題する論文であった。その中でシェニエは、長い圧制のあとのやむをえない暴力革命の正当性を認めはした。だが、それに続く動揺にかわる新秩序をただちに構築しゆくこと、それには、政治的な憎悪や非難の応酬が深刻化してはならず、なによりも非合法的な暴力を排することを要求した。
 「……この種の猜疑、騒擾、暴動をかくまで高揚せしめるものは、われわれの中のいったい何なのか。この問題を考えるとき、ペンを持つ者の圧倒的な意見によって大いに増幅され、培われ、支えられるという事実を、われわれは無視することはできない。この革命中になされる善悪の全てはペン先次第なのである。われわれを脅かす害悪の源泉を、その点にこそ見いだすのである。われわれは、そこで、邪悪な意見を吐く文筆家の利益なるものを追跡していくと、大部分はあまりにもあいまいな人々であり、一派の領袖たるにはあまりにも不適当であることが明白になるだろう。彼らの動機が、金か、あるいはばかげた確信であると結論できるであろう」
 高官への暴力、旅行の禁止、家宅捜索、あるいは思想弾圧の不当を述べて、やがては「血への渇き、他人の苦痛を見たいという恐るべき人間の欲望を掻き立てて、“裁判と死を与える遊び”に人々がふけるようになろう」とも警告した。その予見がどれほど的確なものであったかは、やがて証明されるところとなる。
 そして、シェニエは「賢明にして有徳なる市民の連帯のうちに正義と良識と理性の声を高めゆくならば、悪意と愚昧の叫びを鎮圧することができる」と結論づけたのであった。
 これが、シェニエの最初の政治論文であった。そして、ここに示された見解と、歯に衣を着せない筆鋒を、シェニエは最後までつらぬいた。自分にとって、革命勃発後の最大の関心事は、フランスに平穏と秩序と調和とをすみやかに回復することであり、革命本来の「自由」「平等」「正義」「友愛」の光を、フランスに、否、全世界に輝きわたらせることであった。その秩序を破壊する煽動者こそが真の“敵”であるとして、攻撃の筆を休めなかった。
 カミーユ・デムーランが、さっそくシェニエの論文を批判した。「われわれを、彼がどう扱っているかを見たまえ」と。デムーランは、民衆によるバスチーユ襲撃の火をつけた街頭演説で知られる、過激な政治ジャーナリストであった。
 シェニエは、痛快だった。それは、「真の敵」が誰かを名指して書いたわけでもないのに、「それは自分のことだ」と名乗り出たようなものだったから。だが、シェニエは、デムーランに対してあえて反論しなかった。そして、自分のノートに、こう記した。
 「文意を曲げ、ペンの力を利用して記事を書いている人を攻撃しても、真実をそこねるだけである。その議論を論破しようとすることは、その人間があまりにも危険であることが知られているがゆえに、無益である」
 一七九一年四月には「党派心に関する反省録」という論文を発表している。
 「有徳かつ自由な人、真実の市民とは、真実しか語らず、真実を常に口にし、真実を全て言う者のことである。そして、勇気をもち、恐怖の意見に耳をかさない者が、良き市民である」
 「二年間も乱用された密告。しかし、それで何が発見されたろうか。どんな犯罪が明らかになったのか。悲しい不名誉を、むだ骨のうちに見るのみだ」
 同年八月末、立法議会の成立を前にして、シェニエは、“人民へのへつらい者”を批判した。
 「多弁で、狡猾な人々――いつも不平にみちてすぐに錯乱してしまう市民階級の熱情を目覚めさせ、予見し、煽り立てる準備のできている人々に、われわれは事欠かない。彼らは、これら市民に、法律への従順は、がまんのならない隷属であると説く。“君らの自発意思のみが法律である”と語る。あいまいな獰猛な非難によって、市民の羨みにおもねるのである。そして、彼らの前に膝を屈することを拒む者は全て、現下の中傷者達が流行させている最も恐るべき“品定め”によって、撃たれることになる。彼らは、不遜にも“人民の擁護者”と自称している」
 シェニエの攻撃は、明らかに民衆の煽動者としてのジャコバン派に向けられていた。彼らこそが、フランスを揺るがしている無秩序の根源である、と。
 「人民へのへつらい者は、うそと軽蔑のうちに、専王時代をさらに上回る悪を行っている」
 こうした表現は、自ら処刑台へサインを送るにもひとしかった。だが、シェニエは一歩もひかず、その筆鋒は、ますます先鋭化していった。フランスを愛するがゆえに、祖国が混乱から脱け出て、革命の真実の勝利をかちうるために、何ものをも恐れず、正義と高貴の道をひたすら突き進んだ。自分こそが真実の愛国者・真実のフランス人との信念は、少しも揺るがなかった。
 彼は今や、いかなる党派にも属していなかった。ド・パンジュやトゥルデンヌといった少数の友人をのぞけば、革命ジャーナリストとしては孤立した、孤独な戦士であった。
 恐怖政治の組織者の一人であるコロー・デルボワをはじめ、有力な政治家であるブリソー、ダントン、ペティヨンらが、シェニエの主な論敵となった。コロー・デルボワは、ジャコバン・クラブの演説で、シェニエを「スパイ」「宦官」「力の乏しい散文家」「国民の敵」と、口を極めてののしった。
 一七九二年八月には、シェニエが論城としていた「ジュルナル・ド・パリ」が発刊停止処分となり、反革命容疑者の家宅捜索は、シェニエの身辺にも及んだ。
 この月のうちに三千人が逮捕され、月末には反革命ジャーナリスト達の最初の処刑が執行された。
 シェニエは一時、パリを逃れてノルマンディー地方のルーアンやルアーブルに身を潜める。その一カ月の間に、重大事件が次々と起きた。
 八月十日、民衆が蜂起して、国王ルイ十六世の居城チュイルリー宮殿を襲い、多数のスイス人衛兵を虐殺した。辛うじて難を逃れた国王一家も、十三日から、タンプル塔に幽閉される。
 議会はなおジロンド党が支配していたが、この民衆蜂起とともに成立した山岳党のパリ・コミューヌの是非をめぐって、両党派間の対立は一挙に頂点に達した。
 九月二日から、牢獄での大虐殺が始まった。山岳党のマラーとダントンの手引きによるものだった。六日間で千三百人の囚人がパリ各所の牢から引き出されては、飢えた豺狼のような殺人集団に襲いかかられた。
 同月二十日、議会は立法議会から国民公会へと変わり、その翌日、王政廃止が宣言され、その次の日から共和国第一年が始まることとなった。
 ジロンド党が、マラー、ダントン、ロベスピエールへの激しい攻撃を繰り返していた。
 十一月七日、国民公会は、国王を公会の場で裁けると結論し、十二月十一日から、議場において国王の審問が始まった。
 シェニエが再びパリに姿を現したのは、国王ルイ十六世を擁護するためであった。シェニエは有力者や、スペイン大使らの間を奔走した。国王の処遇については、シェニエは国王の完全な無罪を主張する弁護人にも反対であった。しかし、有罪であっても、退位のみにとどめるべきであると考えた。
 その裁判も、憲法に照らして真の主権者である人民自身にゆだねられるべきであるとして、国民公会での裁判の公正さを疑問とした。もし、公会が国王を極刑に処すれば、新たな混乱を招くだろうと深く憂慮したのである。
 一七九三年一月十七日、ルイ十六世の死刑を、国民公会は決議する。わずか一票の差の多数決によってであった。
 二十一日、革命広場で、そのギロチンによる処刑が執行された。
 シェニエの失望は大きかった。彼は、革命ジャーナリストとしての自分の使命も終わった、と考える。国王処刑とともに、シェニエの政治的な経歴も終わるのである。シェニエがヴェルサイユに身を潜めたのは、国王処刑から三カ月後のことであった。
 その二年余にわたる、苛烈な戦いの日々――シェニエの胸には、むしろ満足感が広がっていた。
 獄舎の長い夜が、明けようとしていた。扉の切り窓から、薄明かりが射し込んでいた。やがて、厳しい尋問が始まるであろう。苛酷な時間が続くであろう。
 シェニエは、明け方の僅かな時間を、深く眠った。

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