Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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(五)
小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)
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1
(友愛とは……、友愛とは……)
――回想は、一瞬のうちに終わった。
とっさに、アレクサンドロスは、片手を卓上の器に伸ばした。
(服むのだ、薬を服むのだ。……いや、毒でも、薬でも、どっちでもいい。ただ、友の情を服み干すだけだ。信ずるものに身を捨てれば、それでいい。友愛とは……『友愛とは、信頼される以上に相手を信ずることにある』のだから)
その時、不気味な光を放っていたかに見えた卓上の薬物は、にわかに色を変じて、またもや澄んだ葡萄液のように、きらきらとまばゆいばかりの輝きに戻っていた。
彼は、ほんの一瞬間でも逡巡したことを悔いた。それは、友との長く清い交わりの上ににじんだかすかな一点の染みにすぎなかったが――。彼は、やにわに器を掴んで口もとに運ぶと、一口ごくりと服みくだした。
その瞬間、フィリッポスが密書を読み終えて、目を上げたのである。
(ああ、間に合ったぞ、フィリッポス。これで、いい。これが、友への償いの証だ。これが、自分自身への証だ……)
器を手にかざしたまま、アレクサンドロスは莞爾とした目をフィリッポスに向けた。そこには、もはや微塵も翳りの色はなかった。一陣の風がまたも館の壁を打つと、揺らめく灯影がフィリッポスの気高く澄んだ目を映し出した。
二人は、黙って目を見交わした。
アレクサンドロスは、残る薬液を、ごくりごくりと息もつがずに服み干した。そうして静かに、器を卓上に置いた。
フィリッポスは、崩れ落ちようとする自分の体を必死に支えていた。その小刻みに震える片手から、はらりと密書の紙片が離れ落ちると、アレクサンドロスの病床に駆け寄って、その両肩に手を置いた。
無言のまま、友と友とは相抱いた。その時、ふいにアレクサンドロスは、意識が薄れゆくのを感じた。やがて、薬液が脈管の隅々にまでまわったのであろう、全身に激甚の痛みとしびれが襲った。彼は、なお友を信じた。そして、信じながら、友の腕の中に仰向いて、静かに目を閉ざし、暗黒の無意識の深淵へと落ちていった。
二日、三日と過ぎても、アレクサンドロスは昏々と死に瀕した眠りについたまま、いっこうに目を開く気配はなかった。その傍らには、フィリッポスが身じろぎもせず侍居し、眠り続ける病友の寝顔を見守っていた。
五日、六日と過ぎるにつれて、濃い焦燥の色がフィリッポスの顔に浮かんだ。それまでに二、三度、この毒性の強い薬を使ったことはあったが、いずれも重症ではなく、薬もごく少量ですんだ。だがアレクサンドロスに施した薬量は、まかりまちがうと死にも至りかねない危険なものであった。それを承知で、フィリッポスはぎりぎりの賭けに出たのである。見捨てておいても、いずれ助からないことは明らかであった。フィリッポスに残された道は、一つしかなかった。彼はしくじった時の我が身の成り行きなどは少しも顧みず、迷わずに大量の秘薬の調合にかかったのである。
万が一、王が落命したら――それが薬によろうと病によろうと、医者であり友である自分が生きていようなどとは毛頭考えなかった。自分自身への執着は、全くなかった。二人ながらに命を捨てようと思った。そして、友を活かす僅かな可能性に全てを託したのであった。
(どうか、こらえぬいてくださいませ、アレクサンドロス様。どうか、もう一度あの健やかな笑顔をお見せくださいませ……)
変化の兆しは少しもなく、ただ眠るばかりのアレクサンドロスに向かって、フィリッポスは心の中で必死に呼びかけていた。もはや薬効は失せる頃とも思われた。
今となってはフィリッポスが望みとするところは、ただ一つしかなかった。それは、アレクサンドロスとの強い強い心の絆であった。
王が自分を信頼しきって服薬したものなら――自分に全幅の信をおいてくれたものなら――あるいは助かるやも知れぬ。
その思いは、少年の頃の想い出から萌していた。病夢の中に英雄アキレウスの姿となって現れたアレクサンドロスが自分を救ってくれたという、あの忘れがたい想い出である。友情の絆が病苦を除いてくれたという、あの抜きがたい確信である。彼は、密書を憎むことすら忘れていた。毒薬かもしれないものを、アレクサンドロスは笑みさえたたえて一息に服み干してくれた、ただその事実だけが今ここには重要なのであった。
なおも彼は、アレクサンドロスの手指の微かな動き、呼吸の僅かな変調にも全神経を集めて、回復の兆しを待った。
ふと、アレクサンドロスの茶色の巻毛の房に隠れた枕の下に、書冊らしいもののあるのがフィリッポスの目についた。そっと取り上げてみると、何度も繰り返し読んだらしい手擦れのした『イーリアス』の巻であった。アレクサンドロスは、この書を愛して、戦場にもたずさえ歩き、夜、護身の短剣とともに枕の下に置くことを習慣としていたのである。
たちまち、想いはペラの王宮やミエザの野に還った。
(アレクサンドロス様……いいえ、私を救ってくれたアキレウス様。不思議なことに、あの時の私の病は、今のあなたの病と同じものなのです。これを治すには、ただ薬餌の力だけでは及びません。何より心の強さが大切です。アキレウス様が私に力を与えてくれたように、今、あなたと私との鉄鎖のような心の絆が力になるのです……)
フィリッポスは、恩友の側に身を置いて、幸福であった。
(信ずることは、何よりも強いのです、病にも、生きるにも。……信ずることは、希望なのです。現在にも、未来にも)
ミエザの野に二人、雲の往き交いを仰ぎながら、どこまでも空想を馳せた日のことがフィリッポスの目に浮かんでいた。そして、友を励ますともなく、自分を励ますともなく、心の内に言葉を継いだ。
(アレクサンドロス様、私は信じております。きっと、あなたが助かるものと信じております。なぜなら、あなたは私を信じられたのですから。友を信じて、薬を服されたのですから。……必ずや烈しい薬の毒にも打ち克って、生きて目を開かれるでしょう。その時が、病毒に薬毒が勝った時、そして薬毒に命の力が勝った時なのです)
(よくぞ私を信じてくださいました……夢にも思いがけないことでございました、私が背信者だなどと――。いつかアリストテレス先生がおっしゃったように、親愛が深いほど、友の裏切りの罪は大きいものです。どうして私に、そんな節操を汚すような、卑劣なことができましょう……)
(だが、私の身はどうでもよかったのです。いかなる汚名を着ようとも、あなたのお命が助かりさえするものなら、それで全ては償われるのでございます。よくぞ私を信じてくださいました。いいえ、あの恐ろしい手紙を読みながらも、私は微塵も疑いませんでした。あなたさまのお心を、どこまでも信じておりました。覚えておられましょう、師の言葉を。『友愛とは、信頼される以上に相手を信ずることにある』のですから……)
(きっと、あなたさまのお命の力はこの大患を堪え抜いて、再び希望の旅立ちがおできになるでしょう。……希望。……希望。……あなたは、どこまでも希望の道を進んで征かれることでございましょう。世界の果てを窮めようと、ご自身に課された希望の道を)
時の移るのも忘れて、つぶやくともなく祈るともなく、フィリッポスは、無意識の闇の中に死と闘うアレクサンドロスの手をとって、励まし続けた。
臥床すること十日。ようやく高熱のひく気配が見えると、アレクサンドロスの口もとが微かに動き、やがて、うっすらと目を開けた。
「アレクサンドロス様!」
フィリッポスは、力強く友の名を呼んだ。
アレクサンドロスは、今やはっきりと目を開いた。不思議にもその瞳は少しも病熱を知らなかったように、深い睫毛の奥に澄んだ落ち着いた色をたたえていた。そして、ゆったりと半身を起こした。紛れもない、蘇生の証であるアレクサンドロスの一挙一動を、フィリッポスは目にいっぱい涙を浮かべて見守った。
「どうやら、私は長い眠りについていたようだ。……だが、この寝覚めは何という清々しさだろう。フィリッポス、君のおかげで、命拾いをしたぞ」
アレクサンドロスは、確かな口調で言った。
「ああ、アレクサンドロス様、あなたはとうとう勝ちました」
そう応えるフィリッポスの胸は躍った。
「今しがた私は、夢を見ていた。懐かしいミエザの花野の夢だ。見渡す限り緑がうち広がる野に、フィリッポスと二人腹這って、語り合ったときのこと……。それから頭の中に、アリストテレス先生の言葉がグルグルと回っていた。それは、野道や林を歩きながらうかがった講話のいくつもの断片だった。でも、何故か、フィリッポスの心配げな厳しい眼差しが、私に凝っと向けられているのを感じてならなかった。思いきって振り向いてフィリッポスの方を見ようとした、そのときに目覚めて、気が付くと、夢に感じたと同じフィリッポスの目が私の傍らにあった」
静かに語るアレクサンドロスの頬は憔悴の跡こそ痛々しかったが、血潮の兆しに薄く染まっていた。もはやフィリッポスの安堵は揺るぎなかった。
「ああ、私は試されたのだよ、フィリッポス。あの忌まわしい密書の向こうの目に見えない魔物のような何ものかが、一瞬の心の隙間を衝こうと、真実らしい仮面をかぶって、罠を仕掛けてきたのだ。だが……」
「アレクサンドロス様、あなたは勝ちました。いかなる運命の魔物も、あなたの胸いっぱいに宿す希望の力を打ち砕くことはできませんでした。また、友の信義を欺くこともできませんでした。もう大丈夫でございます。この病は、一度克服すれば、二度と罹る懸念はないものです。すっかり快くなられれば、晴れてまた東方への旅を続けることができましょう。ああ、よくぞ堪え抜いてくださいました。私には、もはや何一つ心残りはございません。どうか、安心して、今一度お眠りなさいませ」
フィリッポスの晴ればれとした笑顔を見ると、アレクサンドロスは再び身を横たえ、目を閉じた。それからの数日間、おだやかな寝息の眠りが続き、やがて遂に回復の日が来ると、彼は起って、館を出た。そして、愛馬ブケファロスに乗って、陣営に健やかな馬上姿を現したのである。
「万歳!」
「万歳!」
どの幕舎も、どの幕舎も、喜びに沸き返らない所はない。将兵は挙って躍り上がった。
その時、フィリッポスは、親しく友を見守りつづけた寝台の傍らに座っていた。
そして、波涛のように沸いてはこだまする喚声を遠くに聴きながら、自分の額に手をやった。彼は、身に病を感じていた。夜の更けるのも食べるのも忘れて心魂を傾け尽くした二十日にわたる看病は、小アジアの夏の炎熱とあいまって、病弱に生まれついた彼の命を消耗させていたのである。
沸き起こる喚声は次第に彼の耳に遠く虚ろになっていく。
だが彼は、満足だった。
友は遂に起った。命永らえて再び希望の旅につくことができるのだ。いつか必ず報いたかった友の恩誼にようやく応えることができたのだ――。込み上げる喜びに胸を満たしつつ、フィリッポスは、目の前の卓上に倒れ伏した。
2
紀元前三二六年七月――。
アレクサンドロスの東征軍は、インダス川の五つ目の支流を眼前にしていた。
故国を進発してからすでに八年。彼はひたすら東へ東へ、また東へと道を進んだ。恩師に教えられた少年の日から夢のように心に思い描いてきた、白雪まばゆいパルパニソスの山々――後にヒンドゥークシュと呼ばれるこの群峰を、彼は困苦の末に踏破した。そしてインドに入ってから約十カ月が過ぎていた。折からの雨期に増水氾濫したインダスの渡河もまた、困難を極めた。
だが、アレクサンドロスは、その熱い眼差しを、なおも東へと向けていた。今しがた、この地の土侯から、初めてインダス以東の事情を耳にしたのである。遠く砂漠を越えると、ガンジスという大河がある。それは、インダスよりもなお大いなる流れをなし、ほとりに強大な一王国を潤しているという。王国の名は「マガダ」。地味豊沃にして富み栄え、軍事力も歩騎兵二十八万、戦車八千、軍象六千、と。
今、ほのかに聞くマガダ王国。恩師が教えてくれたように、その東の向こうに、世界の果てをなす大洋があるのだろうか――。
濁流が渦巻くインダス最後の支流の傍らにたたずんで、アレクサンドロスの心ははやった。ただ前進することのみが、彼の眼前にあった。そして、彼が開き残して来た道に、いかなる歴史が花咲こうとしていたか――。
緑深いスワート渓谷やガンダーラ地方に、彼とその一行が初めて直にもたらした、西洋からの衝撃。このインダス流域に、クシャン朝がおこる。そこに巻き起こる仏教弘宣の大風は、経典とともにギリシャの面影を深くたたえる仏教芸術を飛翔せしめて、はるか中央アジア、中国の大空へ、そして日本へと運び伝えていく。やがて、仏教に目覚めた中国から、多くの人々がスワートの谷間を訪れるであろう。
アレクサンドロスは、その歴史の流れを知るよしもない。
そして、インダスの河辺に立つアレクサンドロスの傍らに侍医フィリッポスの姿もあったかどうか――フィリッポスの生涯の多くは、知る手掛かりが残されていない。ただ、彼が小アジアの町タルソスまで侍医として従軍し、大王アレクサンドロスの重病を救った事実だけが歴史に明らかである。
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