Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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(三)
小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)
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1
紀元前三四三年の春――。フィリッポスが王宮に奉公して二年経った頃、教場はにわかに賑やかになった。新しい生徒が二人、三人と姿を見せるようになったからである。彼らは、いずれもマケドニア国政の枢機にあずかる貴族の子弟らであった。
最終的に二十人ほどの顔ぶれになると間もなく、教場も王宮の外に移されることが知らされた。
彼らは皆、フィリッポスやアレクサンドロスと同じく青年期に移ろうとする年頃で、いわば激しい発芽の時期にあった。次代のマケドニアの帰趨は、若い彼らの成長一つにかかっているだろう。今を外しては、若芽らの確かな土台はつくれない――このことを最も思慮していたのは、時のマケドニア国王フィリッポス二世であった。
彼は、即位してから十数年というもの、王都ペラに居るよりも戦場に身を置く日の方が多く、我が子アレクサンドロスと相会うこともまれであったが、それだけに自分の後継者をどう教育するかは、常に念頭から離れなかった。外交にしろ、戦略にしろ、刻下の問題に深い洞察力を振るった彼は、次代の布石をも疎かにしなかった。
自分の事業を、自分の一代で終わらせてはならない、いや国家百代の礎を盤石にしなければならない、そのための急所を、明敏な彼は、よく見抜いていた。皇子の教育を集団で施して、皇子を支える将来の指導集団をここから生み出そうという考えに出たのである。
次代の指導者達にふさわしい学問と人間の感化を与えられる人物は――フィリッポス二世の胸中には、一人の幼なじみの面影が温められていた。
2
四月に入ると、アレクサンドロスらの一団は、新しい教場へと移っていった。
それは、ペラから少し南西へ寄ったミエザという丘陵地に所在していた。
ベルミオン山の麓にあたる、この一帯は、古くから“ミダス王の園”と呼ばれ、四季それぞれの美しい花や稔りの果樹が豊富であった。ミダス王の触れるもの全てが黄金に変わっていったと言い伝えられていた。その故事にふさわしく景観にも地味にも恵まれたこの地に、王家の別荘があり、それを皇子のために学問所として開いたのである。
「それにしても、新しい我々の師は、一体、どなただろう。皇子はご存じなのでしょう?」
新任の教師に誰がなるのかは、少年達には一番気がかりでならなかった。ミエザへの道すがら、この問題に口火を切ったのは、やがてアレクサンドロスの最も信頼する副将として、誠の限りを尽くすであろう、ヘファイスティオンである。
「なんでも高名な学者が考えられていると聴きますが」
プトレマイオスが口をはさんだ。二十年後の彼には、エジプト太守となって彼の地にプトレマイオス朝を開く運命が待っている。
「さあ……当ててごらん」
「おや、それでは、やはりご存じなのですね……。まさか、フィリッポス君ではないでしょうね」
ペルディッカスが真剣な顔つきで言うと、フィリッポスは顔を赤らめて、下を向いてしまった。ペルディッカスは、アレクサンドロスの亡き後、一たびは摂政となって実権を握る人物である。
ほかに、フィリッポス二世の腹心アンティパトロスの子息カサンドロスや、マケドニア軍の最長老パルメニオンの子息フィロタス、あるいは後に財政に手腕を見せるハルパロスらの面々が、アレクサンドロスのまわりに結集された鳳雛達であった。
フィリッポスは、これら選りすぐられた貴族の子弟達と学問所で寝起きを共にすることになった。彼が引き続き、このエリート集団に登用されたのは、その卓抜した頭脳によったことは言うまでもないとしても、まず第一にアレクサンドロスの強い希望を父王がいれたからである。
「それでは、ここへ発つ前に父上から伺ってきたことを皆に打ち明けよう。いずれ分かることだから。その人は、遠い所からペラに着いており、数日中にミエザの学問所に赴任することになっている」
「数日中に?それでどなたが?……」
ヘファイスティオンが、せき込んで聞いた。他の少年達も、答えを聴こうとアレクサンドロスを取り巻いた。
「名は、ア・リ・ス・ト・テ・レ・ス……アリストテレス先生、だ。さあ、皆、驚いたろう」
「えっ、あのアテナイのアリストテレス先生ですか。これは驚いた。あの大先生が、我々のために……」
「その通りだ」
ヘファイスティオンは、襟を正して急に真面目な顔つきになった。他の者も、呆気にとられたように顔を見合わせている。その時、フィリッポスは、思わず心の内で快哉を叫んでいた。
――ああ、何という幸運だろう。当代随一の大学者に従学できるとは……。
ミエザまで三日間にわたる旅のあいだ、未見の師、未知の学園生活を巡って、喜びと緊張の入りまじった少年達の話や笑いさざめきは絶えなかった。
3
アリストテレスの一門は、医神アスクレピオスの末裔とされ、代々が医家である。彼の生地、カルキディケ半島のスタゲイロスは、地理的にも近接しているマケドニアの支配下にあった。そして彼の父ニコマコスは、フィリッポス二世の父、つまりアレクサンドロスの祖父にあたるアミュンタス三世に侍医として忠勤し、良き友人でもあった。
そんなマケドニア王宮とのよしみから、一家はペラに移り住み、幼いアリストテレスも同じ年頃にあたるフィリッポス二世をはじめ王家の人々と親しく交わり、王宮の空気を存分に吸ってもいたのである。
幼くして父母を失ったアリストテレスは、同じく医者である親戚の手に養育されつつ勉学に励んだ。とりわけ学者として盛名をなしていたプラトンの多くの著作に親しみ、やがてその学徳を慕ってギリシャのアテナイへとのぼる。叩いた門は、プラトンの学園アカデメイアであった。
彼は、師のプラトンから自分の住居を「読書家の家」と呼ばれるほどに、寸暇を惜しんで学問に没頭した。学徒として、後には教師として、プラトンが没するまでの二十年の長きを、この学園で送ったのである。
4
時あたかもアテナイの政情は、反マケドニア党が大勢を制しつつあった。智略にたけたフィリッポス二世は、もう十年近くにもわたりエーゲ海辺のギリシャ都市国家を攻略し、あるいは巧みな外交駆け引きをもって篭絡するなどしながら、支配圏をじわじわと広げつつあった。自然、ギリシャの盟主をもって任ずるアテナイと、その北方のマケドニアとの関係は、常に緊迫したものがあった。
マケドニアの影を負うているアリストテレスは、やがてアテナイを去った。彼の心の中には、幼少時を過ごしたペラの王宮や王家の人々の想い出が忘れがたく瞬いていたにちがいない。いわば第二の故郷であるマケドニアへの烈しい攻撃が、彼には耐えがたかったのである。彼は小アジアの北部地方にあるアッソスという小都市の王ヘルメイアスに招聘されるままに旅立った。
ヘルメイアスは、学問を好んだ盟主であった。アテナイのアカデメイアを訪れて学んだこともあり、いわばアリストテレスとは同門の間柄であった。アリストテレスを招いたのは、文運をもって国づくりを運ぼうという彼なりの理想があったからである。ほかにもアリストテレスの弟カッリステネスをはじめ有数の学者がこの地に招かれて、この小アジアの片隅に第二のアカデメイアが開かれたかのような観があった。
アリストテレスは、ヘルメイアスの武力よりも学問を尊ぶ、尚文の気風を愛した。二人は互いに揺るぎない敬慕を分かちあい、やがてアリストテレスが王の養女ピュティアスと婚するまでになった。
三年ほどしてアッソスがペルシャ軍に攻撃されるところとなると、アリストテレスはレスボス島に戦火を避けた。フィリッポス二世から皇子アレクサンドロスの教育を委嘱されたのは、ここに一年余り逗留していた折のことである。
それは、何よりも二人の浅からぬ因縁によるものではあったが、もう一つ、ヘルメイアスとフィリッポス二世との近しい間柄も無視できない。
フィリッポス二世の胸中には、早くから小アジア制覇の夢が芽ばえていた。アッソスは、その小アジアの内側にあり、ペルシャ帝国への橋頭堡とするには格好の要地である。フィリッポス二世とヘルメイアスとの間には、ひそかに反ペルシャ軍事同盟の工作が進められていた。
そのヘルメイアスの後押しもあったことであろう、アリストテレスは、第二の故郷に赴く喜びを胸にひそめて、マケドニアへの旅にのぼった。
この時、彼は四十一歳であった。
アリストテレスは少年達の憧れの人物であった。少年達は、このプラトン門下の最優秀の彼のことをさまざまに心に描いていたにちがいない。そのアリストテレスを若き彼らは学問所で迎えた。
はだけた右肩や腕、そして長い衣服のすそからのぞく足は清らかにやせ、背丈が高く見えた。少し物案じ顔で、彫りが深く目が細い面立ちは、少年達には木彫りのような硬さを感じさせたにちがいない。しかし、澄んだ目と口もとは微笑をたたえたようなやさしさがあり、それが頬を硬くしていた彼らをすぐ安心させた。
新しい教師は、生徒の緊張をほぐすようにおだやかに語りかけた。
「まあ、皆で外に出てみよう。ここは実に美しい所だ。それに君らには、まだむずかしい学問は無理かもしれないし、若い人は何か味つけをした教授法でないと、飽きやすい。だから、ここでの授業は、朝露の間は外を歩きながら語り合い、日が高くなったら中に入って講義をすることとしよう。さあ」
立っていた彼は、そのまま部屋の扉から明るい外光の中へと歩いて行った。
生徒も起って、続いた。
折からミエザの村は、初草の頃であった。晴れきった青空のもとに一望限りない草原がどこまでもやさしく起伏して、彼方の緑の丘肌へと連なっている。草間にのぞく可憐な花々は絵のように綾を織り、野飼いの牛や羊が点々として草を食むさまも美しかった。
丘の向こうには、青く霞んだベルミオン山が見える。
学問所といってもさして大きなものではなく、がらんとした教室が一つあるだけで、四角な石造りの屋蓋をもつ建物であった。その裏手にまわると、寝所や食堂などからなるやはり四角な屋根の二階建ての別棟があり、それを過ぎると、草道がゆるやかな弧線を描いて延びている。道の片側はオリーブや葡萄やいちじくなどの果樹の林があった。そして片側は丸や四角のさまざまな花床で飾られ、道の先は木深い森の奥へと消えている。空をしのぐほどの高さをなしている松や樫の木群を抜けると、ゆるゆると岸の草を洗う小川のほとりに出た。その水とともにくだっていけば、学問所が遠くに見える草原にいたり、そこから真っすぐ草を踏みわけて帰るのである。
緑道にしたがって、小半時も歩いたであろうか。アリストテレスがふと足をとめて、傍らの頃あいな自然石に腰をおろした。
そこで彼は、最初の講話を、つとめて平易な言葉をもって始めた。
「皆は、これから多くの学問を積むべき年頃だ。皆の若い、しなやかな精神は、どんなに学問を詰めても詰めすぎることはない。いや、学問とともに、精神はどこまでも広く豊かにふくらんでいくのだから、今は真剣に学ぶことだ。私も、できる限り教えよう。ただ、私は、学問のための学問は教えないつもりだ。何のための学問か――。それは、正義、信義、友愛、勇気といった人間の徳(アレテー)のためだ。真につかむべきは学問そのものではない。行為のため、知恵と決断のために学ぶのだ。だから君らにとって最善の学校は、世の中であり、人生であり、戦場だといえる。やがて君らは世に出て人々のために働く時が来る。その時のために、うんと学んでほしい」
それだけのことを言うと、アリストテレスは腰を上げた。この日は、教室での勉強はなかった。
翌日から毎朝、散歩に出ることが教師と生徒の日課になった。
やがて新しい教師も三人ほど着任して、アリストテレスを助けるようになると、学科も多種多彩になっていった。幾何、天文、動植物、政治、倫理等である。
日数が過ぎ、慣れてくると、ややもすれば生徒の中には退屈まぎれにいたずらし合う者も出てくるようになった。授業の内容が、少年達には、やや高度すぎたのである。そんな時、アレクサンドロスはフィリッポスを顧みて苦笑することがあった。
フィリッポスは、いつも一番後ろの席に控え目に座っていた。彼には、皇子のしるしである金箔のヘアバンドを髪にいただいたアレクサンドロスの熱心な後ろ姿がよく目についた。なかでも皇子が最も心を引き立てて全身を耳にするのは、アリストテレスがホメロスの叙事詩『イーリアス』を講ずる時であった。フィリッポスには、よくそれが分かる。フィリッポスの目には、武具に身を固めたアキレウスがそこに居るかのようであった。
5
少年達は朝を待った。「ミダス王の園」の清麗な朝、逍遙がてらの聴講に時を移すことを、何よりの楽しみとしていたからである。アリストテレスは、主に倫理学の骨格を、やさしくかみくだいて彼らに語った。
「幸福を求めない者は、ありえない。それは人間が求める究極のものといえるだろう。でも、幸福は望んでも、幸福を見定めることはむずかしい」
右手に葡萄畑が一面に開けて、輝かしい朝の日を浴びている。
「幸福は、見せかけの現象のみをもって測ることはできないものなのだ。人はある時は幸福そうに見え、ある時は不幸そうに見えることがある。人を取り巻く環境はさまざまであり、長い生涯のうちには、そういう浮き沈みはあるものだ。その浮き沈みは、幸運とか不運とかともいえる。その折々の運・不運のみに目を奪われて人を見てしまうと、その人はある時は幸福であり、ある時は不幸であるということになる。だが、それでは一人の人間の幸・不幸は、まるでカメレオンのように変幻してしまうことになるだろう。そうではなくて、幸福とは、そういう運・不運に煩わされない、もっと深いところにあるものなのだ。運・不運は、相対的なものだ。本当の幸福とは、絶対的なものでなくてはならない」
平易さを心がけた語り口が、明らかに少年達を惹き付けていた。
アリストテレスの講義は続いた。
「ところで人間本来の在り方を究極的に実現しているものを徳と呼ぶ。それは、人間が最もよく人間らしくある特質や状態であるといってよい。この徳に則って心を働かせ、徳を目指して活動すること、徳に反しない在り方であること。そういう生き方なり努力を行うところに、幸福はあると考えられる」
彼は草原の彼方をじっと見つめながら言葉を切った。そして生徒達の顔に目を移し言葉を続けた。
「そのような努力が、ある一時だけ行われるようなものであっては、当然、その人は幸福であるとは言えない。短い日々だけの努力ではなくて、持続が大切なのだ。すなわち、徳に則った生活を、生涯にわたって続ける人、そこに自分の生を投ずることのできる人――そのような人を、幸福な人ということができるだろう」
彼は静かに立ち上がると、再び透き通った声で生徒に語りかけた。
「この持続性を実現するためには、人生に生起する運・不運に左右されることなく、歩むべき道をどこまでも歩み貫くことが必要になる。たとえ大きな不運があっても、大義や信念のために耐えしのび、生涯にわたって徳を追求しゆくところにこそ幸福はあるのだ」
小川の草土手の方へと歩みを移しながら、彼は語をついだ。聴き耳をたてて行くと、自然に皆の歩調もそろっていた。
「さて、『徳』というものはけっして生半可な努力や意志では達し得ないものである。自身との戦いなしには、徳もあり得ない。時には、苦痛さえ伴うだろう。それは、我々の精神がほしいままにあらしめておくことはもっともやさしく、これを抑制して理想的な状態にあらしめることの困難さがあるからだ」
彼の言葉は静かな口調の中にも力強い響きがあった。生徒達の目は輝き、一語も聞きのがすまいとしている。
「例えば『勇敢』という徳――。『勇敢』の両極には『臆病』と『無謀』がある。勇敢が不足しているのが臆病であり、勇敢の度が過ぎているのが無謀ということになる。人間の精神は、臆病や無謀にとかくとらわれ、陥りやすいものなのだ。弱い心の持ち主は、こうした傾向に容易に赴くだろう。この臆病と無謀の中間にあるのが、勇敢という徳なのだ。かくして、徳というのは多すぎも少なすぎもしない『中庸』に存している」
かすかな水の音がする。近づくと、昨夜の雨で水はみなぎり、土手の草を噛んで流れていた。アリストテレスは川筋に目をやりながら、なお淡々と語った。
「中庸すなわち『徳』を目指すことは容易ではない。良きことを成すには苦しみが伴う。悪しきことには快楽が伴うものだ。しかし、苦しみと楽しみとの本当の意味を取り違えてはならない。苦しみの中にこそ本当の楽しみがあることは多いのだ」
時には、生徒が問いかけた。
「先生、『徳』のうちでも最高最善のものは何でしょうか?」
アリストテレスは、徳目のいくつかを挙げていった。『勇敢』、『節制』、『真実』、『親愛』、『寛容』、『正直』……。
「しかし『正義』こそはあらゆる徳目のうちでも最も重要であろう。いわば『完全な徳』と言える。とりわけ『正義』とは、自分の行いにとどまるだけでなく、他人にこれを及ぼすことができるから、優れた徳なのだ。すなわち、共同体や同胞のために発揮すべきが正義である。だから、やがて指導者に育ちゆく君らにこそ大切な徳と言えるだろう」
広い草原に道が開けて、彼方に学問所が見えるところで、彼らの聴講は終わるのであった。
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