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日蓮大聖人・池田大作

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仏教説話と世俗説話  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

前後
1  根本 『今昔物語集』は、大別して、仏教説話と世俗説話に分けられる。近代的な見方では、この世俗説話群に価値があるとするのですが、じつは、仏教説話こそ『今昔』の基幹的なものであるということですね。
 池田 一応は、そう言っていいでしょう。そして、再応、考えるならば、私は『今昔』の全体を仏教説話として把握したいと思うのです。
 根本 それはしかし、非常に大胆な――というか、少なくとも、通説とは相反する見解ですね。
 池田 そうかもしれません。だが、それは仏教説話というものを、あまりに狭く解釈しているからではないでしょうか。私には、仏教説話の範囲を、仏教の教義や事跡に関するものに限定する理由はないと思えるのですが。
 題材の表面的な分類にとらわれず、仏教教化の実際に即してみれば、いわゆる唱導・座談の場においては、まえにも言ったように、たんに仏教の教理ゃ歴史だけでなく、むしろ世俗の見聞・事実が、多く語られたにちがいない。
 その場合、ことに細部の描写が生き生きとしていることが必要だったでしょう。それによって迫真性というか、臨場感を表すことが求められたと思う。それぞれの話の結末には、かならず教訓めいた寸言が付せられていますが、それは形式的なもので、より重要なのは、やはり話題それ自体の、現実性リアリティーを高める工夫だったと思うのです。
 根本 なるほど。たしかに、小説にしても、演劇や映画にしても、同じことが言えますね。
 池田 いくら高遭な思想を訴えていても、脚本のしっかりしていないドラマでは、白けた気分になってしまう。(笑い)
 根本 しかし、たんに唱導・座談のための実例集として、これほど厖大なものが必要だったのでしょうか。
 池田 いや、それだけの目的のためなら、もっと簡単なもの、いわばパンフレットでもよかったでしょぅ。今、流行のペーパーバックス程度で……(笑い)。『今昔』には明らかに、そうした実用性を超えた発想が感ぜられる。それを理解するためには、その集成された時代の様相、意識を、追体験する境位に立たなければならないと考えたいのです。
 根本 というのは、転換期という時代意識……。
 池田 その転換期という言葉は、きわめて現代的な用語ですね。そういう概念を用いることによって、一面では、当時と現代とをつなぐ架橋にはなりますが、もう一面では、当時の独自な意識のあり方を見落としやすい。これは注意しなければいけない点ではないでしょうか。
 現代と同じように、当時は、たしかに歴史的な転換期であった。だが、当時の人々は、そういう言葉を用いたわけではない。それは、末法の世、悪世末法の時代として意識され、把握されていたということに、私は着目したい。
 根本 つまり、仏教的な歴史観にもとづいた時代認識だったわけですね。
 池田 そうです。それは、現代人が考える以上に、切実な実感だったはずです。
 当時の知識人たちの記録などを見ても、「近日叡山の衆徒相乱る、東西の塔僧合戦す、或は火を放ちて房舎を焼き、或は矢にあたりて身命を亡う、修学の砌、かえって合戦の庭となる、仏法の破滅已にこの時にあたるか」(『中右記』長治元年三月三十日の条)、「およそ五濁悪世、闘諍堅固の世、かくの如きの乱逆、きびすをついで絶えざるか、悲しむべし、悲しむべし」(『玉葉』文治元年十一月七日の条)、「今、世路の人皆云く、代像末に及ぶ。災是れ理運なり」(『権記ごんき』長保二年六月二十日の条)というように、白法隠没の時代の危機意識が広く浸透している様子が示されています。
 根本 観念ではなく、体験として受けとめていたのですね。

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