Nichiren・Ikeda
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文学的価値の発見
「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)
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1 根本 その『今昔物語集』も、長い問、資料的価値しかないと見られていた。
近代にいたって、芥川龍之介によって注目され、彼の小説の素材として取り上げられて初めて、文学的価値が発見されたというのですから、不思議な感じがする。
芥川は、『今昔物語集』の芸術的生命は「生々しさ」にあると言い、「この生ま々々しさは、本朝の部には一層野蛮に輝いてゐる。一層野蛮に?――僕はやっと『今昔物語』の本来の面目を発見した。(中略)それは紅毛人の言葉を借りれば、brutality(野性)の美しさである」(「今昔物語鑑賞」、『日本文学研究資料叢書“今昔物語集”』所収、有精堂出版)と指摘しています。
池田 芥川の『今昔物語集』についての文章は、ごく短いものですが、その本質を的確につかんでいますね。
彼が「生々しさ」の写生的筆致の例としてあげている、三獣の話(巻五・第十三話)も興味深い。――兎、狐、猿の三獣が、発心して菩薩道を行じているところに、帝釈が試そうとして老翁に変じて、施を受ける。狐、サルがそれぞれ食物を施したあと、「兎は励ノ心ヲ発シテ燈ヲ取リ、香ヲ取テ、耳ハ高ク■(セニシテ、目ハ大キニ、前ノ足短カク、尻ノ穴ハ大キニ開テ、東西南北求メ行ルケドモ、更ニ求メ得タル物無シ」(大系22)
ついに、兎は自分の身を火中に投じて、布施として与え、死後、月のなかに生まれ変わったという。幼いころによく聞いた有名な話ですね。
芥川によれば、この「耳ハ高ク」以下の描写は、原典の『大唐西域記』や『法苑珠林』にはないもので、いつにかかって『今昔物語集』の作者の手腕だと言う。
「遠い昔の天竺の兎はこの生ま々々しさのある為に如何にありありと感ぜられるであらう」(前掲「今昔物語鑑賞」)と、芥川は言っていますね。
根本 小島政二郎も、たしか、『今昔』の文章の「上手下手」の例として、この個所をあげていました。(『わが古典鑑賞』筑摩書房)
たどたどしい、幼稚な、無技巧、なもののようではあるが、じつに生き生きと兎の生態を描きつくしていると……。