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日蓮大聖人・池田大作

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文明と自然の二律背反  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

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1  根本 それにしても、現代人が、季節感に無感覚になりかけている、――いや、すでに周囲の自然そのものが、無残に破壊されているのは、じつに残念ですね。
 池田 同感ですね。季節感や自然とともに、人の心も、しだいに荒涼たるものになる……。
 たとえば、桜狩とか、紅葉狩とかいう言葉がある。
 みやびやかに、美しい言葉です。だが、今では、桜も紅葉も、なかなか、その本然のままの姿を見せてくれない。
 汚染され、枯らされて、よほど山深く訪ねて行かなければ、存分に眺めることさえできなくなってしまった。
 根本 情趣を味わうどころではありませんね。
 それというのも、近代文明の技術優位、経済偏重の思想が、あくなき進歩と成長への追求を生み、環境を破壊し、資源を枯渇させ、結局は人心まで荒廃させているわけです。
 私たちは、王朝文学の伝統を学ぶことによっても、喪(うしな)われたものへの復帰を考えざるをえないと思います。
 池田 そのとおりです。
 ただ、ここには、非常にむずかしい問題が伏せられている。
 単純に、自然への、古代への回帰ということでは解けないと思う。
 すでに王朝文学というもの、とくに『源氏物語』などの散文作品は、ある時点でのかなり高度な文明化の所産といってよい。
 とくに、紫式部や清少納言、和泉式部、赤染衛門などが集まっていた王朝の後宮は、当時の文化の中心として、一つのサロンの役割を果たしていたのですね。
 万葉から古今への変化――自然に対する態度も、直接的、行動的なものから、間接的、抽象的なものへの変化がある。
 力強い、素朴な調べは、すでに喪われつつある。技巧的、人工的な色彩が、濃くなっていると思うのです。
 根本 たしかに、そういう一面はあります。
 池田 「乙女」の巻の、光源氏の六条院造営などは、そのみごとな表れでしょう。紫上むらさきのうえ花散里はなちるさと秋好あきのこのむ中宮、明石上あかしのうえという四人の女性の住むそれぞれの区画を、春夏秋冬にしつらえるという趣向には、自然への関心とともに、自然を人工的に配置するという意識が見られる。
 根本 万葉びとには思いもつかない、人工的な自然空間と言えますね。
 池田 もちろん、これはまだ自然の延長と言っていいので、近代文明における自然との遊離とは、まったく違います。
 近代から現代への工業化の進展は、それ以前の数千年の歴史の歩みとは比較にならないほど、急速なものがあった。
 まさに異常な速度です。だが、文明化ということは、遅速にかかわらず、そういう過程を必然的に含んでいるという側面を、無視するわけにはいかないでしょう。
 根本 文明と自然との、二律背反ですか。
 池田 ええ。――その点をふまえておかないと、近代批判、技術文明への反省も、ないものねだりになってしまうと私は思う。

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