Nichiren・Ikeda
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『日本書紀』と金光明最勝王経
「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)
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1 根本 ところで『日本書紀』のほうには、金光明経小ーー主として義浄訳(新訳)の金光明最勝王経の影響のあることが指摘されていますが。
池田 ええ、そうです。だいたい『日本書紀』の地の文章は、『漢書』『後漢書』などの史書、『文選』の文章は、『芸文類聚』(詞華集)等をふんだんに用いて、潤色されていると言われていますが、金光明経もずいぶん利用されています。
たとえば、「顕宗紀」の記事で見ますと、置目の老嫗が、天皇に郷里に帰ることを申し出るくだりで「気力衰邁、老耄虚羸。要仮扶(レ)繩、不(レ)能(二)進歩(一)(気力衰へ邁ぎて、老い耄れ虚け羸れたり。要仮繩に扶るとも、進み歩くこと能はず)」(大系67)と言うのですが、これは最勝王経徐病品の、「已衰邁老耄虚羸。要(レ)仮(二)扶策(一)方能進歩」(大正十六巻)という言葉によっているとされています。
根本 なるほど、ほとんど、そのままの借用ですね。
池田 法華経、維摩経と金光明経と、――同じく仏典からの影響を受けているとはいえ、『古事記』と『書紀』との違いは象徴的です。
私には、これは非常に注目すべき対比のように思われてならない。
金光明経も法華経も、ともに大乗仏説であるにはちがいない。だが、そこに説かれた真理内容には、明白な浅深、高低があることを看過してはならないでしょう。
根本 金光明経は、とくに天武朝において流行し、以来、もつばら護国の経典として尊崇されたのでしたね。
池田 もちろん、金光明経にもかなり重要な法門が説かれてはいる。単純に鎮護国家一辺倒の教説であるわけではないのです。
しかしその本質は、爾前の方便教であり、永遠の生命を説く法華経の哲理の深さにはおよぶべくもない。
根本 日蓮大聖人も『立正安国論』等では、ずいぶん引用していますが。
池田 ええ。大聖人は開会の立場から――真理解明のための助証として、参照されたのです。
開会 開顕会融または開顕会帰の義で、真実を開き顕して一つに合わせること。すなわち、最も高いところからすべてのものを包含して用いていくという絶待妙の立場から見ていくとき、諸経の心が初めて顕れ、会通し、了解することができるということ。
根本 ちょっと本筋から離れて、一つ質問したいのですが――大聖人の仏法では、たとえば天照大神という神について、どのように理解しているのですか。
池田 それについては、べつの機会に話したこともあるのですが、まず、「神」という概念についていうと、仏法上の「神」はもちろん、いわゆる超越神ではない。自然や国土、宇宙それ自体に本然に内在する生命の「働き」を意味する。生命という「体」に対して「用」なのです。仏法はあくまで生命論、生命哲理を説くわけです。
ですから、天照大神というのも、太陽のエネルギーを吸収、代謝し、一切のものを育み、繁茂させていく生命活動――価値創造の作用と考えられる。それ自体を信仰の対象として崇める神道とは、本質的に異なるのです。
ついでに言うと、“八幡”というのも、生命論的に見ると、国土の力を意味するのです。“八”とは八葉の蓮華で妙法を表し、“幡”は、“布”と“米”と“田”とを表してる、――つまり、仏法のうえでは、作物を実らせ、生活を豊かにしゆく国土の力、その働きを“八幡”と言うのです。
根本 宇宙の生命活動を「神」になぞらえたものですね。