例せば此の佐渡の国は畜生の如くなり又法然が弟子充満せり、鎌倉に日蓮を悪みしより百千万億倍にて候、一日も寿あるべしとも見えねども各御志ある故に今まで寿を支へたり、是を以て計るに法華経をば釈迦・多宝・十方の諸仏・大菩薩・供養恭敬せさせ給へば此の仏・菩薩は各各の慈父慈母に日日・夜夜・十二時にこそ告げさせ給はめ、当時主の御おぼえの・いみじく・おはするも慈父・悲母の加護にや有るらん、兄弟も兄弟とおぼすべからず只子とおぼせ、子なりとも梟鳥と申す鳥は母を食ふ破鏡と申す獣の父を食わんと・うかがふ、わが子・四郎は父母を養ふ子なれども悪くばなにかせん、他人なれどもかたらひぬれば命にも替るぞかし、舎弟等を子とせられたらば今生の方人・人目申す計りなし、妹等を女と念はば・などか孝養せられざるべき、是へ流されしには一人も訪う人もあらじとこそ・おぼせしかども同行七八人よりは少からず、上下のくわても各の御計ひなくばいかがせん、是れ偏に法華経の文字の各の御身に入り替らせ給いて御助けあるとこそ覚ゆれ。
何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり、事繁ければ・とどめ候。
四条金吾殿御返事 日蓮花押
主君耳入此法門免与同罪事
文永十一年九月 五十三歳御作
与 四条金吾
銭二貫文給び畢んぬ。
有情の第一の財は命にすぎず此れを奪う者は必ず三途に堕つ、然れば輪王は十善の始には不殺生・仏の小乗経の始には五戒・其の始には不殺生、大乗・梵網経の十重禁の始には不殺生、法華経の寿量品は釈迦如来の不殺生戒
の功徳に当つて候品ぞかし、されば殺生をなす者は三世の諸仏にすてられ六欲天も是を守る事なし、此の由は世間の学者も知れり日蓮もあらあら意得て候、但し殺生に子細あり彼の殺さるる者の失に軽重あり、我が父母主君・我が師匠を殺せる者を・かへりて害せば同じつみなれども重罪かへりて軽罪となるべし、此れ世間の学者知れる処なり、但し法華経の御かたきをば大慈大悲の菩薩も供養すれば必ず無間地獄に堕つ、五逆の罪人も彼を怨とすれば必ず人天に生を受く、仙予国王・有徳国王は五百・無量の法華経のかたきを打ちて今は釈迦仏となり給う、其の御弟子迦葉・阿難・舎利弗・目連等の無量の眷属は彼の時に先を懸け陣をやぶり或は殺し或は害し或は随喜せし人人なり、覚徳比丘は迦葉仏なり、彼の時に此の王王を勧めて法華経のかたきをば父母・宿世・叛逆の者の如くせし大慈・大悲の法華経の行者なり。
今の世は彼の世に当れり、国主日蓮が申す事を用ゆるならば彼がごとく・なるべきに用いざる上かへりて彼がかたうどとなり一国こぞりて日蓮・をかへりてせむ、上一人より下万民にいたるまで皆五逆に過ぎたる謗法の人となりぬ、されば各各も彼が方ぞかし、心は日蓮に同意なれども身は別なれば与同罪のがれがたきの御事に候に主君に此の法門を耳にふれさせ進せけるこそ・ありがたく候へ、今は御用いなくもあれ殿の御失は脱れ給ひぬ、此れより後には口をつつみて・おはすべし、又天も一定殿をば守らせ給うらん、此れよりも申すなり。
かまへて・かまへて御用心候べし、いよいよ・にくむ人人ねらひ候らん、御さかもり夜は一向に止め給へ、只女房と酒うち飲んで・なにの御不足あるべき、他人のひるの御さかもりおこたるべからず、酒を離れて・ねらうひま有るべからず、返す返す、恐恐謹言。
九月二十六日 日蓮花押
左衛門尉殿御返事
四条金吾殿女房御返事
文永十二年正月 五十四歳御作
所詮日本国の一切衆生の目をぬき神をまどはかす邪法・真言師にはすぎず是は且らく之を置く、十喩は一切経と法華経との勝劣を説かせ給うと見えたれども仏の御心は・さには候はず、一切経の行者と法華経の行者とを・ならべて法華経の行者は日月等のごとし諸経の行者は衆星燈炬のごとしと申す事を詮と思し食され候、なにを・もつて・これを・しるとならば第八の譬の下に最大事の文あり、所謂此の経文に云く「有能受持是経典者亦復如是於一切衆生中亦為第一」等云云、此の二十二字は一経・第一の肝心なり一切衆生の眼目なり、文の心は法華経の行者は日月・大梵王・仏のごとし、大日経の行者は衆星・江河・凡夫のごとしと・とかれて候経文なり、されば此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず法華経を持たせ給う人は一切衆生のしうとこそ仏は御らん候らめ、梵王・帝釈は・あをがせ給うらめと・うれしさ申すばかりなし、又この経文を昼夜に案じ朝夕によみ候へば常の法華経の行者にては候はぬにはんべり、是経典者とて者の文字はひととよみ候へば此の世の中の比丘・比丘尼・うば塞・うばいの中に法華経を信じまいらせ候・人人かと見えまいらせ候へば・さにては候はず、次下の経文に此の者の文字を仏かさねてとかせ給うて候には若有女人ととかれて候、日蓮法華経より外の一切経をみ候には女人とは・なりたくも候はず、或経には女人をば地獄の使と定められ或経には大蛇と・とかれ或経にはまがれ木のごとし或経には仏種をいれる者とこそとかれて候へ、仏法ならず外典にも栄啓期と申せし者の三楽をうたひし中に無女楽と申して天地の中女人と生れざる事を一の楽とこそ・たてられて候へ、わざはひは三女より・をこれりと定められて候に、此の法華経計りに此の経を持つ女人は一切の女人に・すぎたるのみならず一切の男子に・こえたりとみえて候、所詮・